第二百十二話 「仲良さそうだね!!」
「今日はやれそうか?」
屋敷の回廊に、木の匂いと昼の残りの光。
石段を上がって合流してきたツバキが、横目で俺を測る。
耳は正面、尾は水平。戦闘モード一歩手前だ。
「あぁ。ここんとこ疲労で午後の特訓は無理だったけど、今日は魔術剣もやれそうだよ」
言ってから、内心で苦笑する。
午前の白世界でボコボコにされてから更に訓練って、普通に鬼だ。
特訓が始まって数日の俺はベッドから起きられもせず、スープしか飲めなかったが、今はこうして歩いて喋れている。
たぶん進歩だ。
「そうか。ふふ……楽しみにしている」
「いや、楽しみにしてるって……まだ魔術剣は基礎も怪しいんだけど」
「そんなことはない。サイファー師やレイア師から“戦”を教わっているのだ。武は、根で繋がる。剣であろうが魔術であろうが神威とやらであろうが、結局は『呼吸・芯・間合い』だろう」
言いながら、ツバキは俺の歩幅に合わせて歩調を落とす。
んー、まぁ、そういうものなのだろうか。
確かに、武道に経験があるやつは、別の種類に手を出しても覚えが早いと聞くな。
要は、そういうことなのだろう。
回廊は磨き込まれた木の匂いがして、足裏でわずかに板が鳴る。
突き当たりを右に折れると、障子越しに昼の光が溜まっていた。
そこから縁側へ、竹の簾の影をくぐり、庭へ出る。
風が抜けると山の匂いが鼻の奥に涼しく落ち、石灯籠の影が短い。
この屋敷では、天気がいい日は庭で昼を取ることが多い。
白砂の上に低い卓が置かれ、周りに長椅子。
遠くの尾根が見える席は、晴れてるとそれだけで飯の味が一段よくなる。
今日の当番はザリーナだ。
口は悪いが包丁は繊細、という矛盾の塊。
乱暴そうに見えて、塩はひと摘み単位で外さないし、盛り付けも無駄がない。
弓の使い手というのは、どうも器用なイメージが強い。
庭の卓が見えた頃──もう匂いがここまで届いてくる。
しょうががほんのり尖って、腹の奥のスイッチを容赦なく押してくる。
単純な煮込みと雑穀の粥だって聞いているのに、この香りの説得力は反則だ。
と、そのとき──
「それにしても、随分と筋肉がついたものだな」
「えっ」
隣のツバキが、当然みたいな顔で俺の腕を掴んだ。
持ち上げて、手のひらで二の腕をなぞる。
「この一週間程度でここまで変わるとは……さすが、男性というだけあるな」
「いや、あの……ツバキさん?」
俺の言葉を無視して、彼女はジロジロと観察を続ける。
肩、上腕、前腕、鎖骨、肩甲骨の端──指が迷いなく触れてくる。
なんか体温がじわじわ上がってくるような錯覚。
耳がピコピコと近い。
距離感がバグってるのはいつも通り。
いかん、このままだとまた振り回される。
どうせコイツは今、筋肉に興味があるだけで、俺個人に興味があるわけじゃない。
なので、俺もツバキの筋肉を見てみることにする。
「ツバキは、結構鍛錬してる割には細いよな」
「む」
至近距離で、上目遣いのジト目が見開かれる。
耳が一度だけぺたりと伏せた。
「筋力は大きさではない。私は“しなやかさ”と“出力”を両立させるように鍛えている。膨らませるのではなく、走らせる。力は線だ」
言いながら、ふん、と小さく顔を背ける。
下に見られたと思ったらしい。ややこしいプライドだ。
「疑っているなら、触ってみるといい」
「いや別に馬鹿にしたわけじゃ──」
「ほら」
逃げ道を封じられ、言われるがまま腹に手を当てる。
「お、おぉっ!?」
「ふふん」
しなやかに沈むのに、底で止まる。
布越しでも刻まれた線が分かる腹筋。
なんだろう。
硬いのに硬さで勝負してない。
脱いだら多分、もっとすごそうだ。
「脱ごうか?」
「やめい」
相変わらず油断も隙もない。
ふと思うのだが、ツバキ自身は髪も着付けもきっちり整えてるのに、「綺麗に見せよう」という意識は薄い気がする。
「っていうか、ツバキ自身が細くありたいと思ってそうしてるのか?」
「いや、師からその鍛え方を学ばされた。私は岩のような肉体になりたいのだが、反対されてな……」
「それは……そうした方がいいかもしれないな」
「なぜだ」
「いや、色々な意味で」
これは……ベアトリスさんには感謝だな。
ツバキがひとりで修行してたら、たぶん歩く城壁みたいな大女になってたに違いない。
……それはそれで見たい気もするけど。
「もう少し触らせてくれ」
「……好きなだけどうぞ」
もう言ってもどうせ聞かないので、満足するまで触らせることにした。
背後にある庭のテーブルには恐らくザリーナが食事を運んできている気配がする。
早く飯にありつきたい。
完全に研究対象の目で俺の肩甲骨の可動域を確かめるツバキ。
指が背中の起点、脇の下、外腹斜筋へと淡々と移動する。
耳がピピ、と満足そうに跳ねるたび、心拍がいらん加速をする。
落ち着け俺。これは実験だ。
人体実験。
──その時だ。
ドォンッ!!
「────ッ!?」
空気を殴る音。
砂が震え、ツバキの耳と髪が一斉に逆立つ。
反射で振り向くと、庭の卓の上に、巨大な鍋が“叩き置かれて”いた。
湯気がドクロみたいに立ち上る。
その鍋を置いた張本人は──
「……マリィ?」
頬をぷくっと膨らませ、こちらを睨むマリィが立っていた。
一週間ぶりくらいに顔を見たはずなのに、般若のようなオーラが可視化されるほどに"想い"が伝わってくる。
怒りの想いが──
「きょ、今日は外に出てたんだな……ははは、どうしたんだ? そんな顔して……」
てっきり部屋に籠ってると思ってたが、ザリーナの手伝いに回ってたのか。
マリィの頭には頭巾、袖まくり、頬に小麦粉の白。
しかし、俺の質問にも答えることなく、マリィは冷たい視線のまま、こちらを睨んでいて──
「ふんっ!!」
鼻で音を鳴らし、踵を返して台所の方へ駆けていく。
足音は速いのに、最後の数歩だけ“わざと”砂を強く踏んだ。
俺とツバキ、同時に肩を跳ねさせる。
糸が、胸の内側でビン、と弾けた。
合わせ鏡の細い線。
そこから、言葉にならない感情が流れ込む。
──『ツバキと仲良さそうだね!!!! 私と会えない間に!!!!』
ぎゅむっと心臓を雑に握られたような感覚。
いやいやいや違う違う違う、これは筋肉実験なんだ、実験。
と、今も心が繋がっていると信じながら、"想い"で言い訳してみるが、彼女からは何も伝わってくることは無かった。
「…………」
横を見ると、ツバキは耳をぴたりと寝かせて、珍しくわずかにたじろいでいた。
目だけが「フェイクラントが何かしてしまったのか?」と言っている。
いや、おめーのせいだよ。
マリィとすれ違ってこちらに気づくザリーナが「あー」とため息混じりに息を吐く。
状況がしっかりと伝わってくれたらしい。
「……クソ」
やらかした。
せっかく引きこもっていたマリィが自分から進んで俺のために昼食を用意してくれただろうに……。
もしかして、さっきレイアさんが言ってた「今日の飯は特別」って、こういうこと?
今の件がなかったら、俺、もっといいムーブ出来たはずなのに……。
いや、まぁあんまり近くに居すぎちゃダメなのはそうなんだけど……。
「おお」
ツバキは表情を戻し、平然を装って鍋の蓋を取る。
他人事でいいよな、お前は。
ふわっと湯気。
根菜の煮込みが色を増し、粥の表面が静かに揺れ、干し魚の香りが二段目で鼻腔を攫う。
うまそう。
……けど、怖い。