第二百十話 「なんで我慢してるのか」【マリィ視点】
「はぁ……」
吐いた息が、紙片みたいに白くほどけた。
窓枠から差す光はやさしいのに、部屋の空気はまだ冬の名残を抱いている。
フェイと会わなくなって、一週間くらいが経った。
ベアトリスさんの屋敷にいる──という点で見れば厳密には“離れ離れ”は大げさなのかもしれない。
けれど、顔を見られない、声を直接かけられない時点で、それは十分“遠い”。
彼とプレーリーを出てから約二年。
こんなに長く、何もかもを分かち合わない時間は初めてだ。
──それでも、胸の底は空洞にならない。
彼と何故か繋がってしまった"合わせ鏡"の細い糸が、今も確かに繋がっているから。
何となく伝わってしまうのだ。
彼の現在地、感情の波、迷いの角度までも。
だから分かる。
彼がいま、私を想ってくれていることも。
私なんかに、精神の大部分を割いてしまっていることも。
なのに、その上で……息が切れるほどの試練に身を投げている。
伝わってくるのは、『戦争』『魔王』『使命』という言葉の重み。
昔のフェイなら、そういう“大きすぎるもの”は抱えきれずに、簡単に放り出して、隅でひっそり泣くタイプだと思っていたのに。
彼は逃げなかった。
私を理由にして、逃げ道を作ってもおかしくないのに。
それでも踏みとどまって、世界の命運みたいなものまで背負おうとしている。
「フェイ……」
ここ数日、彼は毎日ボロボロになって戻ってくるらしい。
朝まで通じていた糸が、ベアトリスさんと屋敷の奥に消えるとぷつり切れる。
きっとどこかへ転移して、修行しているのだろう。
糸が戻るたび、体の痛みと誇りみたいな熱が、私の胸板にも薄く染み込む。
頑張っている。
肉体も精神も、あの人の許容量なんてとっくに超えて、なお前へ。
──なのに、私は。
「私は、どうすればいいの……?」
想ってくれているのは分かる。
好きでいてくれるのも、分かる。
だけど、その言葉を受け止める私の心は……私のものじゃない。
この中途半端のまま向き合うのは、罪だと思った。
血反吐を吐いて戦う彼と、ひたすら部屋に閉じこもっている私。
釣り合うわけがない。
それに、私の“好き”は──クリスのものだから。
いっそ、彼女が私に変わってここに居られたらどんなに良かったか。
そうしたら私は笑って、二人の背中を押せたのに。
でも、それは叶わない。
クリスの感情は私の胸の底からせり上がってくるけれど、身体を動かすのは、いつも私だ。
「そんな私でも……何かできることは……」
そう思っていたところで──
「おー、朝飯食い終わったか? 相変わらずよく食うなぁ」
襖がするりと開いて、ザリーナが顔を出した。
うさぎ耳がぴょこぴょこと上下する。
眠気の名残なのか片方だけくたっと倒れていて、それを指でくいっと直しながら歩いてくる。
彼女は、私が引きこもり出してからというもの、よく部屋まで世話をしに来てくれる。
お盆の上には空の椀と皿。塩気の残った湯気だけがふわり漂った。
「あ、あはは……だって、美味しいんだもん……」
「それにしたって俺の二倍は食ってるぜ……? どこにそんな量はいるんだよ」
ため息まじりに言いながらも、手は器用に食器を重ねていく。
言葉はぶっきらぼうでも、目はいつも真正面に向いていて、私みたいな面倒くさい心にも、斜めからじゃなく正面から触れてくれる。
フェイの心を経由して知ったことがある。
彼女にも“役目”がある。
いずれ命を賭ける戦いに赴く役目を。
なのに、この人はどうして、こんなにあっけらかんと笑えるのだろう。
まじまじと見てしまったせいか、ザリーナがじとっと目を細める。
「…………どした? 顔になんかついてるか?」
「っ! なんでも、ないっ……」
「そうか」と短く言って、彼女はまた皿を重ねた。
私は視線を逸らしたけれど、喉の奥に引っかかった問いは、やっぱり飲み込めなかった。
「ねぇ」
「ん?」
「どうして……その、ザリーナはそんなに元気なの?」
彼女はぽかん、と口を開け、肩をすくめた。
「え? そりゃ元気だろ。別に病気でもないし、三食しっかり食ってるしなっ。そりゃもう、里一番の元気といやあ、俺のことと言っても過言じゃないねっ!」
ちがう。そうじゃなくて。
「そ、そうじゃなくて……その、なんでザリーナは、魔王なんかと戦う使命を持ってるのに……」
「あ〜」
“使命”の二文字で、ようやく通じたのだろう。
彼女はぽん、と手を打った。
「それ、誰から聞いたんだ?」
「フェイの……その、考えてることが、伝わるから……合わせ鏡で」
「なるほどね。そりゃなんというか……便利なのか不便なのか……」
ザリーナはお盆を畳の隅に置いて、私の正面にどすんと座った。
うさぎ耳が前を向く。
こっちを覗く目は、からかうようでいて、逃げ場を作ってくれる目だ。
「俺も……別に怖くないワケじゃねぇよ」
「そうなの!?」
思わず声が上ずった。
だって、ザリーナはいつも笑っていて、風みたいに身軽で……恐れなんか知らない顔で前に出る人だと、勝手に決めつけていたから。
「ツバキほど肝が座ってるわけじゃねぇし、なんなら、最初はババァにやりたくないとも叫んだ側でさ……」
「へぇ……意外だね」
意外、なんて軽い。
胸の奥では、私の中の先入観が一枚はがれて、少しだけ恥ずかしくなる。
「ツバキはやる気満々なことが何より不満だったね。せっかく拾った命だってのに、なんでまた死にに行かなきゃなんねぇんだって……」
いたずらっぽく笑いながら言うのに、その奥でかすかに揺れる影を見逃せない。
笑いは軽いのに、言葉の触れるところは鋭い。
「ザリーナもツバキも、ここのみんなはベアトリスさんに助けてもらったんだっけ?」
「ああ、元々いた故郷は魔族に燃やされたよ。そりゃ、魔族には恨みはあるし、ぶっ潰してぇって思うこともある……」
彼女の視線が、一瞬だけ私の肩越しのどこか遠い場所に置かれる。
鼻の奥に、煤の匂いがよぎった気がした。
私の想像だ。
でも、その想像だけで胃の底が冷える。
「でも、どちらかというと俺はトラウマの方が強かったみたいだな」
小さく、しかしはっきりと。
……恨みよりも、焼け跡に残る沈黙の方が長く居座ることを、私は知っている。
あの時のフェイも、私も……戦うことの方がずっと怖かった。
「でも、クヨクヨしたって仕方ないし、誰かがやらなきゃ世界は終わるってのは本当みたいだしな。子供たちだって、今は無邪気に特訓を楽しんでやってるけど、いずれは何人か俺みたいに音を上げる奴だって出るだろうし……」
そこまで言って、ザリーナは笑う。
強がりじゃない笑い方を、ちゃんと知っている人の笑い方だ。
「俺はこんな感じだけど、ババァに拾ってもらってから、この日常が好きになった。ツバキとバカやって、ババァに怒られて、子供たちと遊んだり笑ったり、特訓も今じゃその一部だな。飯はうまいし、みんながいるから寂しくなくて」
その「日常」という単語が、驚くほど重く響いた。
鍋の湯気、畳のい草、子供たちの足音。
音も匂いも、壊すにはあまりにももったいない。
世界の命運、なんて言葉よりずっと近く、触れられてしまう。
「だから、俺はこの日常を守りたいって思ったんだ。そう思ったら、そのために戦うなら悪くないって思えたよ……」
「死ぬかもしれないのに……?」
「そりゃ、魔王がとんでもねぇやつらだってのは分かってるつもりだし、死ぬかもしれないのもわかってる。けど、絶対戻ってくる。またここに。そう約束したんだ、ツバキと」
「……もう、怖くないの?」
「はは、怖いさ……」
即答。
迷いが一切混じらないのは、捨てるものと守るものをとっくに選んでいるからだろう。
「でも、死ぬ未来なんかより、後悔する未来なんかより、勝って、ここで祝勝パーティでもする方が絶対楽しいと思ったんだ。だから、俺は決めたんだ。それまでもこの日常を大事にするって」
「わぁ……」
「死ぬ時も、後悔したくないしな。もちろん死ぬ気なんてないけどよ。今できる最善を尽くす。それだけだ……」
「……そっか」
言葉が喉でほどけて、胸に刺さったままの棘を指でそっと押し込むような痛みになった。
フェイも同じだ。
怖いのに、怖いまま、前に出ようとしている。
強くて、そして簡単に壊れてしまう日常を、あの人も守ろうとしている。
だったら、私も。
「私も……入れるかな」
「えっ?」
自分でも驚くくらい小さな声だった。
けれど、逃げずに続ける。
「祝勝パーティ。私も、フェイも、一緒にしてもいい? もちろん、みんなで生きて帰ってきて……それで」
ザリーナの耳がぴょこんと立つ。
口元が大きく吊り上がって、笑い声がはじけた。
「当たり前だろ! 席ぐらい何百でも増やしてやるよ。他の役目を受けた奴らも、なんなら、アステリアの兵士どももな!」
胸の奥で、合わせ鏡の糸がふっと温かくなる。
遠くの彼が一瞬、こちらを振り向いたような錯覚。
負けるな、って言われた気がした。
違ってもいい。
そう聞こえた。
おかしいよね。
突き放したのは、私なのに。
ザリーナは膝を軽く叩き、少しだけ真顔に戻る。
「じゃあさ。今のマリィにできること、って話だけど」
「……うん」
「飯でも作って待ってやったらどうだ? フェイクラント、いっつもボロ雑巾みたいな状態になって帰ってくるし。会えなくても、アイツのためにできることはあるんじゃねぇかな」
胸がきゅっと縮む。
目に浮かぶのは、泥と汗でぐしゃぐしゃになったフェイの顔。
笑ってるのに、目の奥が痛い顔。
会えないけれど、私にも彼にできること……。
「……でも私、料理とか、簡単なスープとかしか作ったことない……」
「気にすんな! そこは俺とツバキが教えてやるよ! ババァは……ちぃっと作法が厳しいから、内緒でな」
バシン、と背中に軽い衝撃。
ザリーナの掌が迷いをはたき落とす。
力加減が絶妙で、痛くはないのに、胸骨の内側まで音が届く。
「よーーーっし! じゃあ今日の夕食からいこう。里の根菜で煮込み、雑穀の粥、それに焼いた干し魚。塩と出汁で十分うまい。疲労困憊の男の胃袋は素直だ、泣いて喜ぶぜ」
「……泣かせたい」
口に出して、頬が熱くなる。
強さなんてない。
高尚な理屈もない。
ただ、今も奮闘している彼の帰る場所を温めたいだけ。
それだけなら、私にもできるかもしれない。
「よし、いくぞマリィ」
ザリーナがすっと立ち上がり、片手を差し出す。
うさぎ耳が前へ倒れて、合図みたいに揺れた。
「うん!」
やっと、私の手でできることに触れた気がした。
何もできないと思っていたけれど、料理ならば、彼の心を温められる。
いつか、あの人が私の前に戻ってきたとき、「おかえり」を言うために。
祝勝の席を想像する。
長いちゃぶ台。笑い声。フェイの不器用な照れ笑い。
ツバキのジト目。ベアトリスさんのため息。子供たちの箸の音。ザリーナの大声。
だから——今日の一杯から始めよう。
「はあーぁ」
ザリーナは、不思議な人だな。
なんか、なんでフェイのことで自分の気持ちを我慢してたのか、わからなくなってきちゃったや。