第二百九話 「二人を倒すまで」
女神アルティアが戦いの果てに遺したと言われる“魔石”。
その器に満ちる魔力は、他の魔道具とは桁が違う。
けれど千年、誰ひとりとして中身を「引き出す」ことはできなかった。
だが──
「その石は、お前に力を貸している」
サイファーが、俺を見てはっきり言った。
俺の魔力量は平均より低い。
魔術を数回撃てば、すぐに空っぽになる。
そんな俺が、魔石を“汲めた”なんてこと、あるのか?
顎に手を当てて考え込む俺に、サイファーが続ける。
「ヴァレリスでのことは、覚えておらんか?」
「……ヴァレリス?」
「ミーユも言っておったが、お前は死の淵にいたベルギスを救うため、上級治癒のスクロールを起動させたらしいな」
「あっ……!」
思い出した。
ベルギオスが完全に落ちる直前、俺はミーユと二人で上級治癒のスクロールを使った。
あのときの俺とミーユの魔力じゃ、理屈の上では絶対に起動しない。
初級を数発撃てば枯れる脳筋二人しかいなかったはずなのに、起動した。
あれが、“それ”か。
「それと、最近のことじゃが──クロードとの航海中、魔族の襲撃があったようじゃな。あの時、お前は魔術を何発撃った?」
「えーと……」
確かにあの時も、混戦の状況下だったから結構使った気がするな……。
中級魔術を何発かと、転移を2回。
……無我夢中であまり考えてなかったが、俺の魔力はたったの三十。
中級魔術なんて起動するのに十は減ってもおかしくない。
そして転移も中級魔術程度の消費をする。
どう逆算しても、五十は優に超える量を使っていただろう。
「……たしかに、あの時も自分の力量以上の魔力を使った……気がする」
「そういうことじゃ」
サイファーの口端が、いたずらっぽく上がる。
「微量、も微量。だが“引き出せた”。他の誰もできなかったことを、フェイ──お前がやったんじゃ」
掌の中の石が、親指の下でわずかに温度を変えた気がした。
気のせいかもしれない。
けど、心臓の鼓動と“青”が、半拍だけ合う。
「繰り返しになるが、お前の神威と魔物術。そこに、魔石の力が加われば──」
「お主は、最強の戦士となる」
レイアさんが静かに断言した。
澄んだ水面みたいな声。
迷いが、一滴もない。
誰にもできなかったことを──
「俺が……」
そう零した瞬間、ベアトリスさんの声が薄く響いた。
「覚悟はできましたね」
同時に、空気が張る。
背後からは微かな魔力の気配。
ベアトリスさんが泉の縁に膝をつき、白い指先を水へ。
ザパァッ──
旅の扉と呼ばれた泉が巻き上がる。
円環の上に立つ俺と、向こう側の二人の幻影ごと、巨大な水の塔が呑み込む。
「うおっ、なんだ!?」
背後。
ベアトリスさんの横顔は無表情に近いのに、瞳だけが鋭い。
「──我々には時間がありません。ならば、今すぐにでも始めてもらいなさい」
言葉と同時に、足元が抜けた。
視界が黒へ、黒から白へ。
転移の時の、臓腑だけ置いていかれるあの感覚が全身を駆け抜け──
静寂。
恐る恐る目を開ける。
「────ッ!?」
そこは既に、先程の洞窟ではなかった。
岩肌も、天井もない。
眼下には浅い泉が広がるのは変わらない──が、その端がない。
見渡す限りの白い水鏡。
空は天蓋ではなく、薄い白のひかり。
世界から線が抜け落ちたような、「何もない」を形にした空間。
静寂に、輪がひとつ。
俺の前──足首まで水に浸し、波紋を作る二つの影が立っていた。
千年前の英雄──サイファーとレイア。
さっきまでの“幻影”とは違う。
その身体は透けておらず、息遣いが空気に触れて、鼓動の拍が水面に乗る。
立っているだけで、背骨がこわばるような圧力。
「旅の扉で行き来することはできんが、“中”はこうして繋がっておる」
「つまり、ここでならワシらと触れ合えることもできる」
言葉の端に、わずかな愉悦の表情をする二人。
だが目は笑っていない。
二人の視線が、真っ直ぐに俺を刺す。
「……“最強”などと言ったが、条件が揃っただけじゃ」
「今日からお主は、ワシとサイファーから神威と魔物術を、そして外ではベアトリスやツバキからは、魔術剣の修行も続けてもらう」
話しているだけなのに、体表から電流めいた殺気がびりびりと滲みだす。
ここでの修行──それはつまり。
「ワシら二人を倒すまで、戦い続けろ」
──ゾクリ。
片や、S級冒険者にして千年前の英雄。
片や、俺のまだ到達できていない“神威・第四位階”の使い手。
その二人を"倒す"まで──?
「それと、言い忘れておったが──クロードとの待ち合わせの約束は気にせんでよい」
「えっ?」
胸の奥がひゅっと冷える。
レイアさんが一瞬だけ目を伏せた。
「先日、サイラスから連絡があった。東方の港町で、クロードの船らしきものが沈んでいたらしい。周囲は不自然に風化し、仲間も行方知れず。──十中八九、魔族の仕業。それも、魔王級が動いたと見て間違い無かろう」
「なっ──!?」
あんなに強かったクロードさんが……行方不明?
ってことは、ミランダさんも、ロイドも……?
呼吸が荒くなる。
嘘であってくれと、喉の奥が勝手に願う。
だが二人の眼差しに、慰めの余地はない。
「じゃが──ワシらに彼らを慈しむ暇などは無い」
レイアさんの唇が、音を紡ぐ。
「『顕現──』」
瞬間、世界の密度が変わった。
足首まで浸かる水が泥みたいに重くなる。
空気が粒子を帯び、時間の歯車が一段落ちる。
レイアさんから発される神威が、この“白”の世界全体をくぐもらせた。
「巨大な戦力が一つ欠けたんじゃ。だからお前には──クロード以上の力を身につけてもらう」
今度はサイファーの皮膚にひびが走り、そこから鱗が噴く。
黒鉄のような硬質が肩から腕へ、胸へ広がり、爪が刃に変わる。
立っているだけで水柱が微かに立ち、波紋が高く跳ねた。
「ここから先はもう、『頑張った』『努力した』で済む域ではないぞ。──結果を出さねばならん」
手が、勝手に震える。
汗が滝みたいに落ちる。
逃げ道は……ない。
今までの俺なら、もう逃げていたかもしれない。
「手加減」だの「準備期間」だの、言い訳を幾つも並べただろう。
だが、もう。
『代わりを務めるのはレイアだ』
『お前にとっての大切な人の言葉を信じろ』
ルドヴィクさんの声が、逃げ道を潰す。
ツバキの言葉が、背中を押す。
そして何より──
『フェイが好き』
マリィを守るために。
「来い、フェイ」
レイアさんの瞳が、赤い刃のように細く光る。
サイファーは構えず、ただ立つのみ。
その無防備が、いちばん怖い。
頬をバチンと叩く。
指を髪に差し込んでかき上げ、視界をまっすぐにする。
そして──
「おうッ!!」
腹から出した掛け声と共に、俺は踏み込んだ。
白が砕け、水の波紋が花のように咲く。
握った拳に魔石の力を感じた気がした。
井戸は満ちている。
鍵を、回せ。
女神の力を、俺が引き出せるのならば──
クリス──
俺を──高みへと導いてくれ。