第二百六話 「決意」
“誰かのために戦う”。
その言葉が、驚くほどにストンと胸の底に落ちた。
世界は大きすぎる。掴もうとすれば手から零れる。
じゃあ俺は――勇者じゃなくていい。一人の村人として、大切な人のために剣を持てばいい。
この世界に来てから、それをやってきた人を何人も見てきた。
ミーユは“国”って言い方をするけど、根っこは家族だった。
クロードさんはギルドのため、仲間のため、ミランダさんのために。
ベルギオスは弟のために。
そしてクリスは――
俺のために、命を賭けてくれた。
「…………そうだよな……」
独り言みたいに零れると、向かいのツバキが小さく首を傾げる。
「うん?」
「好きだから……だよな。決して無くしてはいけないって思うものだから、守るために戦うんだよな」
言ってから、彼女に視線を向ける。
「ツバキも、そうだろ? ベアトリスさんが――好きなんだろ?」
いつもは微動だにしない紅の瞳が、そこでほんの一瞬だけ泳いだ。
耳がぴくりと伏せ、目尻が恥ずかしそうに揺れる。
「……そう、だな……。私にとって、師である前に母のような存在だからな。うむ、そう聞かれると好きだという他にない」
「そっか……へへ……」
なんだか、こそばゆい。
胸の内側で、古い錆がさらりと剥がれた気がした。
この世界に来る前――家族なんて、邪魔で、重くて、うるさいものだと思っていた。
最後に聞いた親父の“声”は、「うるせぇぞ!!」……だった気もする。
いや、たぶん声も出していない。
壁を拳で叩かれた鈍い音の記憶だけが残ってる。
親なんて、いてもいなくてもどっちでもいいと思っていた。
でも、この世界で俺にも“親みたいな人”ができた。
フェイクラントには親がいなかったけれど、サイファーとレイアさんは、言い方を選ばなければ――親だ。
怒って、笑って、背中を押して、ダメな時は引き戻してくれる。
「俺も……二人のことが、好きだ」
口に出した瞬間、言葉が形になって、怖さが少し軽くなる。
それを失うことは、絶対に許せない。
あってはならない。
「――やらなきゃな」
自分でも驚くほど、声に芯が乗った。
「大切な人のためなら。そのための戦いなら、俺は――」
ツバキの口元が、ほんのわずかに和らぐ。
無表情の皮膚の下で、微かな笑みが灯った。
「うむ」
提灯の火がかすかに明滅し、白砂の上に俺たちの影を重ねる。
心はまだ震える。
けれど、逃げる理由はひとつずつ剥がれていった。
あとは…………マリィ。
今は会えないけど――必ず話す。
ちゃんと、言葉で。
“これはお前を守るための戦いだ”って。
喉を撫でる不安は消えない。だからこそ、次の言葉は正直に口から出た。
「……あとは、だ。サイファーたちが言う“力”が、本当に俺にあるかどうか――」
自嘲ぎみに笑って、ツバキを見る。
「ど、どう思う? ツバキ」
彼女は一拍だけ目を細めた。尾が小さく揺れ、すぐ止まる。
「最初に言ったはずだ。お前は、私が見たことのない運命力を持っている」
「その“運命力”って、結局なんなんだよ。運がいいとか、そういう?」
「違う。運は流れてくる偶然だ。運命力は、流れを掴み続ける必然力だ。お前は、選ぶ瞬間に人と偶然を呼び寄せ、必然へと昇華させる力がある」
静かな声が、さらりと耳に入ってくる。
だが、言ってることは俺の頭には難し過ぎた。
「ふ――私の言葉で納得がいかないなら、お前にとっての大切な人を信じたらどうだ?」
ツバキはちゃぶ台を指先でとん、と叩いた。
――そうだ。ツバキだけじゃない。
最初からサイファーも、レイアさんも、俺を“信じている”からこそ頼ってくれた。
無能だった頃の俺も、少しはマシになった今の俺も両方知っている彼らがだ。
そんな二人が「お前は出来る」と言った。
なら、ツバキに答え合わせをし続けるより、あの二人の言葉を信じればいい。
……マリィに聞く、という選択も本当はある。
けれど今は会えない。
ベアトリスさんに「会うな」と釘を刺されているし、合わせ鏡――ハウリングの危うさもある。
でも、いずれは話す。
二人でまた旅をするなら、向き合って、何としても攻略の糸口を見つける。
怖さごと、だ。
“勇者”を目指すなら、そんな程度で迷っている暇はない。
いや、“村人”だって――大切な人のためにやれることがある。
なんとかなる。
雑な言葉だけど、今はそれでいい。今は“やる”。
「……うん、そうだな」
ぱしん、と自分の頬を叩いた。
ひりっとした熱の上を、尾根下りの風がすっと撫でていく。
冷たさと熱の境目が、やけに鮮明だった。
「いい顔になったな」
ツバキが、それはそれは小さく、けれど確かな笑みを浮かべた。
「ああ、お前のおかげだ。ありがとう。話を聞いてくれて」
礼を言うと、彼女は朱のかんざしをすっと抜き、まとめていた黒髪をばさりと解いた。
光を拾った髪が肩から流れ落ち、いつもの無骨さに、ふと大人びた色が混じる。
「どういたしまして」
その一言と仕草が妙に綺麗で、途端に意識してしまう自分がいる。
いやいややばいやばい。
こいつは変に心を読む能力を持ってる。
狐ちゃんの色香に引っ張られてるだけだ。うむ。
きっと気分が高揚しているからに違いない。
吊り橋効果、というやつだ。
たぶん。
「む……? 何をそんなに顔を赤らめて――」
「よーっしよしよしッ! なんかやる気出てきたなぁ! 修行修行!!」
わざと声を張って誤魔化し、腕をぶんぶん回して邪念を振り払う。
あぶないあぶない。
狐女の色香に騙されるところだったぜ。
「ふむ、修行もいいが、もうそろそろ夕食の準備をしなければならない」
すぱっと現実に戻される。
「あ、そうか。もうそんな時間か……。じゃあ、明日からだな。朝イチから修行して、今度こそ魔術剣を――」
「その前に、“その気になった”ということを、お前の師に伝えて来るべきだ。朝イチでな」
…………あー、うん。
そうか、そうね。
「そうだな……話してくる、か……」
「どうした?」
「いや、『好き』とか『大切な人』とか連発した相手に会いに行くの、なんか恥ずかしくなって……」
「ぷっ」
肩で小さく笑われ、耳まで熱くなる。
「わかってるよ、自分でも子供みたいだなって思ってたところだよ」
「ふふ、いや。そうだな。頑張って来い」
ツバキが立ち上がり、畳とちゃぶ台を手早く片づける。
提灯の火を指先でふ、と落とすと、白砂の上に夕影が延びた。
「私は台所に回る。……鍋を焦がすなと言われているからな」
「あぁ、俺も少ししたら向かうよ」
彼女が台所へ向かった後、俺は借り物の剣を抜き、ひと呼吸。
柄――鍔――鎬。
呼式は吸って三、止めて一、吐いて二。
魔力を“押し込む”んじゃない。
“刃筋に置く”。
――チ……
ほんの一拍、刃が鳴いた気がした。
空耳かもしれない。
だけど、たしかに手の内の“何か”が噛み合った。
やる気になった途端――随分と調子が良くなるな。
単細胞だよな、俺。
剣を収める。
明日は、サイファーにやる気になった事を伝え、本格的に修行を始めよう。
---
夕食を済ませた後、俺は自室に敷かれた布団に転がる。
天井の木目が、今までより整って見えた。
ふと、今の自分のことについて考えてみる。
――俺は、この世界に転生してきた。
大魔王オルドジェセルが仕組んだ“何か”で、フェイクラントという男の身体に憑いた。
アイツは言った。
「未知を期待している」と。
その“未知”がどんな形で期待されているのか、今も分からない。
あれから大魔王が夢に現れることもないし、本当に何かを期待されているのかも疑問に思う。
俺は何をするために来て、何をすれば世界にとって正解なんだろう。
考えてみれば、俺はただの村人と口にしながら、大魔王というヤバいやつと線で繋がっている。
そして、マリィには女神と繋がる線がある。
そんな二人が一緒に旅をしているなんて、数奇な運命なものだと今更ながらに思う。
そして、そんな俺とマリィが鏡合わせになるということ。
感情がむき出しになって、近くにいるだけで肥大化していく。
それが何を意味するのか。
あるいは、何も意味しないのか。
分からないことはまだまだ多い。
でも――“今は”分かることが一つある。
俺を「必要だ」と言う人がいる。
だったら、今はそれに応えたい。
寝転んだまま拳を掲げ、ぎゅっと握る。
指の骨がきしむ感触が、妙に安心させた。
この「選択」は、あいつの言う「未知」に繋がっているのか。
あるいは全然違うのか。
どっちでもいいか。
止まっている間に折れるくらいなら、歩きながら考える。転んでも、その足でまた立てばいい。
サイファーとレイアさんに信じられている。
ルドヴィクさんに、そしてツバキに背中を押してもらえた。
…………前も、こんなことがあったっけな。
クヨクヨしてる時に、クリスに背中を押されて、意地になって泣きながら訓練した。
吹っ切れた瞬間、俺の中で神威が生まれた。
あの時はクヨクヨ期間が長すぎて、その先に起きることも忘れてた。だから俺はあまりにも大きなものを失った。
もう、同じ過ちはしない。
俺が迷うだけ、今度はレイアさんやサイファーが窮地に陥る。
もし彼らを失ったら、俺はきっと正気を保てない。
「よし……」
やるんだ。俺は。
最初に自分で言ったろ――勇者じゃない、向いてない、そんなのは全部レベルマックスにしてから文句言え、って。
俺のレベルは四十弱。
伸びしろはいくらでもある。
明日からは本気で詰めよう。
きっと、今までの修行なんかとは天と地ほどの差があるのだろう。
レイアさんの修行は、可愛い顔してかなりおっかないことを覚えている。
でも、俺が強くなれば、きっとマリィも――
いや、打算だなこれは。
苦笑が漏れる。
けど、それでもいい。
彼女の前で胸を張って「守る」って言うには、強さが要る。
とくん。
胸が……いや、心が鳴る。
合わせ鏡で繋がった細い線が、遠くで震えた気がした。
マリィ。
今、彼女は自分と俺の関係にどうケジメをつけるか、ひとりで苦しんでいるのが離れていても分かる。
そのざらついた痛みが、風のノイズみたいに微かに伝わってくる。
会いに行きたい。
今すぐにでも。
けど、今はまだだ。
拳を軽く握った。
骨の軋む感触が落ち着きをくれる。
「まずはレベルを上げる。そして、俺も頑張ってるんだって、マリィに見せるんだ」
単語で刻む。
明日の自分が忘れないように。
視界の端で、窓格子の影が夜風に揺れた。
木の匂いと、遠くの台所から微かに流れてくる出汁の気配。さっきまでのざわつきが、少しずつ静かに沈んでいく。
まぶたを落とす前に、脳裏の黒板に予定を書き付けた。
夜明け、サイファーのところへ行き、やると伝える。
ベアトリスさんとツバキからは継続して魔術剣を教わる。
それと……いつになるか分からないが、マリィへ言葉を用意する。
指先に、さっきの“鳴き”の余韻が薄く残っている。
刃が噛んで、地金が覚える。たしかにそんな感覚があった。
それに――ツバキの言葉も、地金みたいに腹の底で光ってる。
「世界のため」じゃなくて、「誰のため」。
俺は「誰」を選んだ。あとは歩くだけだ。
とくん。
遠くの線がもう一度、短く鳴った。
返事みたいに、胸がひとつ跳ねる。
「マリィ。……おやすみ」
今の考えも、きっと彼女には筒抜けなのだろうか?
ならば、俺が下を向いている暇はない。
彼女に、カッコ悪いところを見せたくない。
意識が底のほうに沈んでいく。
やるんだ。
明日になったら本気出す。
…………ガチだ。