第二百五話 「大切な人のため」
「では……はじめようか……」
数十分後、準備を終えたらしいツバキが戻ってきた。
何をそんなに準備をしていたのだろうと思ったが、戻ってきた彼女は、さっきまでの訓練用の装いとはまるで別物だった。
頬には淡い頬紅。
目尻に小さく艶が差し、長い黒髪は後ろでまとめられており、可愛らしい朱のかんざしが一筋。
花柄の着物は動きやすいように簡素化されているのに、なぜか女性らしさだけは増量されており、襟元がいつもより深い。
白い項がすっとのび、うなじが透けるようにきれいで──そこにまた和が似合う。
えーと、うん。
正直、ここまでの描写のツバキを見ると、きっと誰しも「エッッッッッッ!!」な展開を想像したかもしれない。
事実、俺も一瞬だけ正気と闘ったさ。
脳内ではすでに「君の気持ちは嬉しい、だが俺には守るべき人がいる」みたいな、人生で一度も口にしたことのないキザ台詞練習中である。
それに、先日マリィに告白したばかりでもある。
ここでブレたら男が廃るというものだ。
しかし──彼女の行動は"そういうもの"ではなかった。
「これは……この辺がいいか……?」
目の前に展開されていたのは、畳・ちゃぶ台・提灯の三点セットだった。
砂の訓練場の上に一畳の畳。
その中央に丸いちゃぶ台。周囲にはぼんやりと灯る提灯が二つ。
ちゃぶ台の上にはおちょこ、徳利、小皿に浅漬け、焼き魚と湯気の立つ椀。
大昔の茶の間が、ここに出張してきたみたいなほぼ時代劇の再現。
「よし。出来た」
満足げに頷くと、ツバキはちゃぶ台を挟んで俺の真正面に正座する。
相変わらずジト目、相変わらず無表情。
だが、その無表情の方向が今日はちょっと違う。
妖艶→家庭的→そして、なぜか覚悟。
「いつでもいいぞ。フェイクラントのタイミングで構わない」
「…………は?」
なにが?
あまりにも謎な行動に、俺はわけがわからず頭を傾げることしか出来なかった。
理解が追いつかない俺を見て、ツバキは「ふむ」と鼻を鳴らす。
「男性というのは、女性に対して自身の自尊心を高く持つ性質があるというのをとある文献で読んだ。私は『女ごとき』が剣を教えるという構図を、無意識に押しつけていたのかもしれない。お前の誇りを傷つけた」
そう言って礼儀の極みのような姿勢のまま、畳に両手を揃えて付き、深々と頭を下げられる。
「さぞ、お前は気分を悪くしたことだろう。決してお前のことを軽視していた訳ではないが、私の修行不足だ。申し訳ない。だから、お前は私が丹精込めて作ったちゃぶ台の上のものをひっくり返し、私に与えられた不満や鬱憤を晴らしてくれ。全て、甘んじて受けよう」
勝手に話を進めた後、「うぅっ」と目をぎゅっと瞑りながら身を縮めるツバキ。
怖いのか三角耳がぺたんと倒れて、飛行機の翼みたいになっている。
えーと、つまり?
ツバキは女ごときに俺が剣を教えられていることを不満だと思っていて?
それで鬱憤が溜まったであろう俺に、自らが辱めを受けることで晴らすことができるだろう、と?
そんなことでも考えたのだろうか。
「…………」
ちら、と薄目を開けて俺のことを確認してくるツバキ。
とりあえず徳利に手を伸ばしてみると、「ひぅ」とか言いながら再び目を閉じた。
「…………」
…………どうやらツバキは、何やら盛大な勘違いをしているらしい。
まったく、なんて思考回路をしてやがる。
意味不明なやつだと思っていたが、その文献とやらも意味不明だな。
別に不満も鬱憤もないが、とりあえず童貞の純情を弄んだ罪として、おちょこに少しだけ入れた酒をぶっかけてやった。
「きゃ!」
楽しい経験をありがとう。ツバキ。
---
「……むぅ、おかしい。男性はこれでストレスを解消すると書いてあるのだが」
濡れたところを拭き終わった後、ツバキは不承不承といった顔で例の“文献”を広げていた。
表紙には達筆風に『成人男子の気持ち 嫁のあるべき姿』とある。
副題の『叩かれて輝く茶の間作法』がもうダメだ。
誰だこの地獄の編集者は。
「ザリーナと昔、ままごとの稽古もしたのだ。奴は亭主役が上手くてな。何度も怒鳴られたり、服を脱がされそうになったり、たくさん泣かされた。……だから、それが男の望むものだと教わったのだが。何が違ったのだ?」
うーん、なんだか随分偏った情報を鵜呑みにしてしまったらしい。
ザリーナはきっと分かってやってそうだけどな。
変な教育してやるなよ……ツバキの将来の相手が不安になってくる。
「何度も言うけど、ツバキに不満とか鬱憤はない。俺が勝手に悩んでるだけだ」
「ふむ。ではフェイクラントの悩みとは一体なんなのだ?」
「…………」
結局、ふりだしに戻るのね。
でも、ここでまた曖昧にしたら、どうせまた文献やら変な情報を信じて何かやらかすんだろうなぁ。
……はぁ。
しょうがない。
俺はひと呼吸おいて、真正面から切り出した。
「……ツバキは、ベアトリスさんから聞いているのか? その……役目の話を……」
その単語に、ツバキの目がすっと細くなる。
無表情のまま、芯のある声が落ちた。
「あぁ。私はその役目のために日々、剣を整えている」
「……!」
「私だけではない。ザリーナも、この里にいる者は皆、役目に就けるように精進している」
「……子どもたちも?」
「……あぁ」
言葉と同時に、彼女の視線がほんのわずかに遠くへ向いた。
耳が一拍だけ伏せ、尾の先がかすかに揺れる。
「そうか、お前は最近になってようやくそれを聞かされたのだったな。それで悩んでいるのか?」
「…………あぁ」
「なるほど。世界のために自分が戦うことへの疑問や迷いか……」
俺の一言の返事で、ツバキは理解してくれる。
この時だけは、ツバキの読心能力がありがたかった。
「私はな──」
一拍起き、ツバキは姿勢を正すと、ゆっくりと自分の過去を語り出した。
「十年ほど前、故郷である獣人の村が魔族に焼かれた」
「……え?」
「私もザリーナも、全ての“当たり前の日常”を、そこで奪われたのだ。……何もかも失ったと思った時、生き残った我々を師──ベアトリスが拾ってくれたのだ」
乾いた風が、提灯の火を小さく撫でる。
白砂がさらりと鳴った。
俺の胸の奥が引き攣る。
俺も同じだ。
プレーリーを焼かれ、サイファーとレイアに助けられた自分の記憶が、砂の上で重なった。
「……怖くは、ないのか? ツバキの師匠でさえ敵わなかった相手なんだぞ? 将来、そんな化け物みたいなのと戦えって言われても……辛くないのか」
問うた瞬間、彼女は迷いなく俺を見る。
紅の双眸が、まっすぐに。
「そんなものはない」
即答。
誇張でも虚勢でもない。
覚悟がもう、体温になっている。
「師から与えられた使命を果たすのは、弟子の務めだ。私は師から多くを学び、十の年になるころには剣の才を認められ、役目の話を聞かされた。まだ認められたわけでも、選ばれたわけでもないが――」
ツバキの口元が、ほんの少し、和らいだ。無表情の皮膚の下で、微かな笑みが灯る。
「"自分が必要とされるかもしれない”と知ったとき、不安や恐れよりも先に、喜びを感じたのだ」
ふわ、と白砂の面を撫でる風。
提灯の火が細く揺れ、その明滅に合わせて彼女の睫が影を落とす。
「私を育ててくれた。何もかも失った私に、師は生きる目的の形を与えてくれた。それに応えるのは恩返しという気持ちもある。……が、それとは別に、必要とされ続けること自体が私の誉れだ。だから師のために戦う。里の皆のために戦う」
彼女の尾が一度だけゆるやかに振れ、すぐに静かにおさまる。
「だから、この気持ちが私を満たしている限り、そのための戦いに“疑問”はない」
「……そう、か」
短い返事が、喉に重く落ちた。
世界だの正義だの――そういう抽象の前に、彼女は自分の“いまここ”を揺るがないものとして持っている。
誰かのため。
師のため。
里のため。
俺はどうだ。
俺が考えていたのは、ほとんど自分のことだ。
自分の怖さ、自分の後悔、自分の足場。
マリィのことだって“置いていけない俺”の言い訳にして、ぐるぐる回っていた。
そんな顔をしたのだろう。ツバキは小さく首を振った。
「フェイクラント。だからこそ、私は偉そうには言えないと最初に言った」
「え……?」
「私は“世界のため”に戦うのではない。私の“大切なもののため”に戦う。結果として、それが世界のためになるだけだ」
言い切ってから、彼女はちゃぶ台の徳利を俺の方へ押し、空のおちょこに視線を落とす。
さっき俺がぶっかけた酒の香りがまだ薄く漂っている。
耳が恥ずかしそうに一瞬伏せ、すぐ戻る。
「お前も同じでいい。世界のため、は大きすぎる。足がすくむ。……なら、絞れ。“誰のために”と」
胸のどこかが、きゅっと縮む。
誰のために。
そんなの、もう決まっている。
「……マリィ」
名を出すと、言葉が形になった分だけ怖さが減った。
代わりに、熱が出てくる。
マリィの震えた手、泣き腫らした目。
俺にだけ見せた弱さ。
その全部が、刃の重さと同じくらいはっきり蘇る。
『大切な人のため』
世界のためなんかより、しっくり来る言葉だ。
そうだよ、スケールのでかい話に呑まれていた。
単純な事じゃないか。
恩や感謝は俺にもある。
何も無い俺に多くのことを教えてくれた。
学ばせてもらった。
そのジジイたちが俺に助けを求めてるんだ。
そこで、俺は何もしないのか?
いずれ救われる世界だからって。
自分には何も出来ないと勝手に決めつけて。
そうやって何も出来ないまま時間が過ぎて、クリスを失った事をもう忘れたのか?
『ワシらだけで解決する』
俺は、自分の自信のなさと、マリィのことを棚に上げて……自分を信じてくれる人に何も出来ないままなのか……?
俺は…………。
今の俺にできる最善択を、選んだか?