第二百二話 「置き去りにされた言葉」
「というわけで、君にしか出来ないわけだ。君の迷いは関係なく、君にはやってもらわねばならない」
「…………」
“俺にしか出来ない”。
言葉の形は理解した。
理屈も腹に落ちた。
けれど、心はまだ足場を探している。
というのも、やはりタイミングが悪すぎる。
マリィは今もクリスの魂との共鳴に苦しんでいる最中だ。
そんな彼女を置いて「世界のために」が、喉を通らない。
「ふむ……やはりこの状態は疲れるね。まったく、ここまで私が頑張らないといけないとは……サイファーもレイアも、実力はあるけど、こういう押しは本当に苦手なんだから」
ルドヴィクさんは静かに目を細め、短く呼吸を整えていた。
軽く毒を含ませながら、苦笑で飾った小さな本音を漏らして。
確かに、サイファーだったらここまで押し切らない。
たとえ無理筋でも、こっちの心の置き場を必ず見てくれていた。
レイアさんも同じだ。
厳しさの芯はあるのに、こちらの呼吸を乱暴に奪ってこない。
もし、ルドヴィクさんが来なかったら、俺はもう一度「やります」なんて言葉を、どこからも引っ張り出せなかっただろう。
……ていうか、ふと浮かぶ疑問がひとつ。
「じゃあ、サイファーが『自分たちで解決する』って言ってたのは……嘘だったのかな」
「えっ、そんなこと言ってたの!?」
ルドヴィクさんが、反射的にこちらを振り返った。
焚き火の橙が瞳に跳ね、驚きがそのまま光の形になる。
「俺が『出来ない』って断った時に……笑って、『ワシらだけで解決する。悪かった』って」
「うーん……君との駆け引きで言った、という線もあるが──あの二人の場合、本気で言っていそうでもあるんだよね……」
「まいったな」と彼は後頭部をがしがしと掻いた。
視線が一段深く沈み、胸ぐらを見えない手で掴まれたみたいに、喉がぎゅっと狭まった。
「……なら、言っておいた方がいいだろう。君が拒否した場合、恐らく代わりを務めるのはレイアだ。その場合、他のみんなは全員消えてしまうよ?」
「えっ?」
頭の中で、何かが白く爆ぜた。
消える──?
“みんな”って、誰が? どういう意味で? 言葉の輪郭だけが先に来て、意味が追いつかない。
「ど、どういうことですか!?」
掠れた声が勝手に出た。
ルドヴィクさんは小さく息を吐き、そのまま焚き火の縁を指先で払う。
「知っての通り、レイアは魔族だ。瘴気の影響を受けない。さっきは『君にしか出来ない』と言ったが、神威を扱える以上、レイアも君と同じ条件に当てはまる」
「あ……」
そうだ。
忘れていた。
レイアさんは魔族で、神威の使い手だ。
元から魔族なのだから、魔素も必要ない。
でも、なぜ──レイアさんが“代わり”を務めると、みんなが“消える”?
「レイアの能力は聞いたね? 彼女の神威は、“時間を遅らせる”。封印の柱についている私の四人の弟子──サイファー、サイラス、ベアトリス、ブリーノ。彼らが千年を生き延びられたのは、彼女が作った術の“範囲”の中にいるからだ」
範囲という言葉が引っかかる。
「その能力は、術者が死ねば当然消える。加えて、効力は“指定した一定範囲”にしか及ばない。つまり、彼女の術で寿命を二十分の一にされている彼らは、自分の決められた場所から離れた瞬間──今までの年月が一度に訪れることになる」
場を離れたとたん、千年分の歳月が身体に雪崩れ込む……?
その意味を理解するのに、数秒とかかることはなかった。
「だから、彼らは“動けない”。支柱から離れて援護には行けない。サイファーもサイラスも、ベアトリスもね。……そしてもしレイアが君の代わりに前に出て、そこで倒れたら──」
言葉はそこで切れた。
続きは要らない。
脳が先に映像を作ってしまった。
彼らの寿命はレイアさんの力で二十倍に引き伸ばしている。
では、術の効果が切れてしまえば──その"千年分"がどこに帰ってくるかなんて、考えたくもない。
乾いた音もなく崩れ落ちる、四本の柱。
風化した石像みたいに砂になっていく、誰かの手。笑っていた目尻が、塵のまま空にほどけていく。
「────ッ!」
呼吸が、棘に変わる。
吸おうとするたびに胸の裏側が傷つく。
視界の端が熱で歪んだ。
そうだ。
手がかりは、ずっと前からそこにあった。
『ワシはヴァレリス“まで”は行けんよ』
カンタリオンで、サイファーが俺に言った一言。
『ここを離れられん深ーい事情があるんじゃよ』
ブリーノが自分で息子を探しに行けないと、冗談めかしてごまかした言葉。
思えば──サイラスは海賊団元締めの顔を持ちながら、一度だってクロードさんたちと航海に出てる話は聞いたことがない。
ベアトリスさんも、直接レヴァンから出られないとは聞いてないが、ツバキやザリーナに買い出しに行かせているってことは、つまりそういうことなんだろう。
全部、レイアさんの術の制約のせいだからだ。
「つまりレイアは、彼女も合わせて五人分の命を背負っている。そして、彼女が死ねば当然サイファー達も道連れとなり……」
「──エルジーナの封印も、解けてしまうんですか……」
聞きたくない続きを遮るように口を挟む。
喉が勝手に震えた。
だがルドヴィクさんは、そこで即座に肯定しなかった。
焚き火越しに視線を伏せ、ほんの一瞬、考え込むような間。
「……そこは、少し違う」
「え?」
「封印をできるだけ維持するは大事なんだが──」
そこで言葉が切り替わる。
焚き火の橙が、彼の横顔を薄く縁取り、影が深く落ちた。
「エルジーナは、サイファー達の生死どうこうの前に──近々、復活する」
「は!?」
胸の奥で、乾いた何かが砕ける音がした。
「封印が未完成なのは知っているだろう? いずれ解ける。問題は“いつか”が“近い”に変わったことだ。千年前の魔王を復活させて回っている“神職者”の話も、君はサイファーから聞いたはずだ。……やつらが、封印の壺の在り処に嗅ぎつけつつある」
「そんな……!?」
「つまり──時間がない。言ってはいなかったが、塔の起動は"エルジーナ"の復活が前提での話だ。だが、それは必ず近い日に来るだろう。こちらは人も資源も足りない。だからこそ、君に“今すぐ”が必要なんだ」
長い旅の果てに、そんなサラッと言われましても……。
それに、まぁ俺にしか出来ないことの理はわかる。
わかるけど──重大なことが一つ。
俺は、マリィを置いていけない。
今は近づくことも難しいが、俺だけが寄り添える場面が、きっと何度も来る。
その時に不在で、どうする。
けど、俺が断ればレイアさんが前に出る。
なら、その先は……。
喉の奥が軋む。
呼吸が軽く迷子になったみたいに乱れる。
『世界』か『彼女』か。
俺は──
「でも……ルドヴィクさん、俺、マリィのことを置いていくわけには──」
言いかけた瞬間、"マリィ"という言葉に反応したかのように、彼の眉がぴくりと上がった。
「あ、そうそう。彼女のことなんだが──」
「……?」
思い出した、という調子。
次の言葉を待つ俺の鼓膜に、焚き火がぱち、と小さく跳ねる。
なんだ? まだ何かあるのか?
気になる言葉の続きは──しかし。
「うおおっ!!」
「ちょ!?」
瞬間、ルドヴィクさんの輪郭に、白いノイズが走る。
皮膚から細かい光が、静電気みたいにぱらぱらと剝がれ落ち、影と本体のピントがずれ、姿勢そのものが空気の波にほどけていった。
反射で身を引いた俺の前で、彼は苦笑を崩さず、しかし明らかに焦っていた。焚き火の橙が、散る光粒を追い切れずにちらつく。
「……ぐっ、もう時間が……!? いいか、短く言う。気をつけろ。あの子、マリィちゃん……ねら…………われている……」
「っ!? 何か知ってるんですか!?」
狙われている──その単語が胸の内側で破裂した。
クロードさんの船で、魔族がマリィをさらおうとした時の、喉を焼く恐怖が瞬時に蘇る。
「──き……聞け、フェイくん……」
光がさらに崩れる。
声もノイズを噛み、単語が削れていく。
しかし、彼の心配などしていられない。
マリィの情報があるなら、消える前に必ず伝えきって欲しいということしか俺の頭には無かった。
「教えてください! 一体なんの目的でマリィは──」
もどかしさに叫ぶ俺の前で、彼は言葉を押し出した。
「マ、…………リィ……は…………ま………………ぞ……………」
その声を最後に、ルドヴィクさんの像がふっと抜けた。
光が焚き火の熱に溶けるみたいに四散して、気配ごと消え失せる。
今ここにあるのは、焚き火の音と、俺のうるさいくらいの心臓の音のみで──
「……なん、だったんだ、今の……」
呼吸が遅れて戻り、遅れて胸を刺す。
彼の言いかけた言葉の断片を、なんとか頭の中で形に組み替わる。
マ……リィ……?
「マリィは……マゾ?」