第二百一話 「俺にしか出来ない」
ルドヴィクさんの話が終わると同時に、炎はふっと四散する。
焚き火は何事もなかったかのように、ふたたび橙の芯を小さく灯した。
ぱち、ぱち、と乾いた音だけが横穴に戻ってくる。
──魔界の瘴気が満ちれば、魔族は強く、人族は鈍る。
理屈はわかる。
けれど、胸のどこかが引っかかったままだ。
サイファーもレイアさんも、目の前のこの人も、「塔が起動すればアステリアは滅ぶ」と口を揃えて言い切った。
だが俺の知っている“画面の向こう側”では、エミルが解放されたとき、アステリアは辛うじて立っていた。
国は焼け、空は赤黒かったが、“滅んで”はいなかった。
塔も残っていた。
だが、だからこそおかしい。辻褄が合わない。
塔が起動したままで国が生きているという条件を、誰かがどこかで成立させ続けた? それとも、魔族は装置を起動さえすれば、あとは消耗を避けて兵を温存した? どちらにしても、直線では繋がらない。
考えは渦を巻き、答えは泥のように沈む。
そんな俺を置いて、ルドヴィクさんは平板に、しかし迷いのない声で言った。
「……というわけで、君には今すぐ修行を始めて、一刻も早く塔を止めてもらいたい」
「はぁ……」
「言っておくけど、サイファーたちはああ言ったが、諦めたわけではないよ。ただ、君の臆病な性格や意思を尊重しつつ、悩ませ考えさせるやり方で押そうとしているのだと思う」
「う……」
心が温まるような、キュッと締まるような。
サイファーには結局俺は「やる」と思われているらしい。
まるで子供の心を見透かした親だ。
だけれど、今回ばかりは俺もやれる気はしていない。
さっきからどうも、"俺じゃないとダメ"な理由も聞いてないし。
「だが今回は時間がない。状況は緊迫している。だから私がこうして直接──」
「ちょ、待ってください。やるやらないは一旦置いといて、まだ"俺じゃないとダメな理由"を聞いてないんですけど……」
頭をかきむしっていると、ルドヴィクさんは目を細め、焚き火越しにこちらを覗いた。
「……はぁ。今の説明じゃ分からないかい?」
あ?
今までのどこに俺限定で可能な要素あったんだよ。
「わかりません。『俺しか出来ない』要素、ありました? 今んとこ“誰がやってもきついけど、とりあえずお前が頑張れ”ってだけに聞こえましたよ」
ルドヴィクさんははぁと、焚き火の温度を一度下げるみたいなため息をひとつ。
「うーん、君はもう少し“推測する”という力をつけた方がいい」
うるせぇよ。
こっちは知力低いんだから、ちゃんと説明してほしい。
まったく、これだから知能ありすぎるやつは困る。
「じゃあ、もっとわかりやすく説明しよう」
「お願いします」
彼は軽く首を回し、言葉を選ぶ。
俺に合わせてくれているのが分かるのが、逆に腹立たしい。
「まず、君は最大最強の攻撃技とも言える“神威”が扱えるということ。これは魔術と違い、魔界の瘴気の影響を受けない。そもそも神威は“大魔王”が生み出した系統だ。だから瘴気の環境下でも滑らない」
っていうか“大魔王が作った”って初耳なんですけど。
いや、そもそも——
「……いや、でも神威を使えるの、俺だけじゃないですよね?」
「うん、他にもいるよ。アステリアにも“顕現”まで至った者が何人かいるし、君がまだ越えられていない壁を越えた達人だっている。前王の息子──ベルギオスくんみたいなね」
「…………」
じゃあ、“俺だけ”じゃないじゃん。
胸の内の反発が顔に出たのか、彼は肩をすくめた。
「しかし、君以外では“単体で”塔の破壊、および魔王の討伐の両立は無理だ」
「そんなの、俺だって無理ですよ! 俺なんかがあんなデカい建物に何発神威をぶち込んでも、壊れませんって!」
思わず声に圧が乗る。
だがルドヴィクさんは、焚き火の芯を見つめたまま、淡々と返してくるだけだった。
「はは、何発も撃てないよ。そんなことをしていたら、周囲一帯の魔物に即座に察知される。それに――瘴気の毒がある。もう忘れたのかい?」
「瘴気の毒は俺にも影響あるでしょ!! 何言ってんすか!」
怒鳴った自分に、ほんのり自己嫌悪。
相手は伝説、こっちは三十路。
なのに彼は、愉快そうに目だけ上げて、口角をわずかに吊り上げた。
「『俺にも』? ふふ、何を言っているんだい?」
「さっきあなたが言ったんじゃないですか。人族は弱体化させられるって!」
「君は“魔物術”が使えるじゃないか。──君は違うだろ?」
「は……?」
何を言ってる。
俺も人族だ。
そう言い返す前に、彼はすっと片手を上げ、会話の主導権をさらっていく。
「魔物術を習得するには、何が必要かな?」
「え?」
「答えて」
唐突にテストを出され、俺は反射的にサイファーの授業を巻き戻す。
「……ま、魔素だよ。魔素は魔物や魔族にとっての力の根源で、存在の骨組みみたいなもの。魔物使いは、その魔素を微量ずつ体内に取り込んで、肉体を“魔物化”させて、『ブレス』とか“魔物術”を使えるようになる……」
かつて、数ヶ月間サイファーからみっちり叩き込まれた理。
ゲームに出てくる"ただ魔物を使役するだけの魔物使い”とは少々違うが、俺が教わった彼のやり方。
「それが答えだよ」
ルドヴィクさんが、焚き火越しに指をぐっとこちらへ向ける。
ドン、と胸を小槌で小突かれたような確信が、遅れて脳に届いた。
──誘導された。綺麗に。
けれど、悔しいかな、腑に落ちた。
「すなわち、君はその“魔素”によって、魔界の瘴気の影響を受けにくい肉体を持った“人族”というわけだ」
ドクン──
と、背骨の奥で大きく心臓が跳ねる。
「受けにくいどころか、君はそれを“燃料”に変えられる。肺に入っても、血に混ざっても、君の魔の回路はむしろ太る。だから長く、深く、瘴気域の中で動ける」
焚き火が、ごう、と一瞬だけ息を吹き返した。
さっき見せた“煙だけ抜く風”が、今度は逆に、炎へと酸素をやさしく送り込む。
──“毒さえ、使い方次第で糧になる”。
言外の比喩が、橙の光に重なる。
「そこにレイア仕込みの“神威”が重なる。先ほど言った通り、神威は瘴気に滑らない。術の滑りや詠唱抵抗で足を取られない。そして君には、サイファー仕込みの“魔物術”と、元から“神威”の素養が既にある。……ここまで並べれば、さすがに見えてくるだろう?」
見えてくる、の言葉に、喉が渇く。
舌先で唇を湿らせ、無意識に生唾を飲み込んだ。
俺は──瘴気の中で、唯一それを最大限利用しながら戦える人族……?
「魔物術をサイファーから、そして第三位階以降の神威の扱い方をレイアから叩き込まれる。そこをクリアした上で、さらに君の伸びしろと、そこに“魔石”の力を加えられれば──」
魔石。
さっきベアトリスさんに渡した、あの石。
胸の奥が、ちくりと痛む。
「まぁ、サイファーの言い回しを借りれば、『最強の戦士』の誕生、というやつかな」
火の粉が跳ね、砂に消える。
俺は、ごくりと喉を鳴らしていた。
ようやく、脳の靄が晴れていく手応え。
ぼやけていた“俺じゃないといけない理由”に、輪郭が付いた。
「ようやく理解できたようだね」
ルドヴィクさんはわずかに背を伸ばし、足を組み替える。
炎が彼の頬の骨格を撫で、影が鋭く立つ。
「念を押しておくと、この世で“魔物術”を扱える人族はサイファーと君しかいない。魔素を体内に取り込むというやり方は、倫理的にも宗教的にも長く禁じられ、記録から消されているんだ」
言い切りが、冷たい鈴みたいに横穴に響いた。
「そして、その二人の内、“神威”まで扱えるのは──君だけだ」
静寂が降りる。
焚き火のぱち、ぱち、という規則正しい音だけが、鼓動みたいに耳に打つ。
“俺しかできない”──を、ようやく理解することができた。
瘴気の中で動ける脚。
滑らない神威。
風で煙道を通すみたいに、自分のための“通り道”を開けられる感覚。
俺が言い逃れできる余地は完全に無くなった……と言ってもいいくらいに。
だけど──
『わたし……壊れる……』
『あなたは役目を受けなかった』
「………………」
俺の心にはまだ、"迷い"が残っていた。