第二百話 「瘴気を生み出す塔」
「はじめまして」
「……え、っと」
意味がわからない。
いつからいた? いや、それ以前に──この人、死んだんじゃなかったのか?
じゃあ、なんでここにいる?
思考が空回りして、俺は挨拶ひとつ返せない。
ルドヴィク・グランチェスター。
千年前、魔王エルジーナを封印した張本人。
アーシェやセレナの祖先で、伝説の勇者だの賢者だのと讃えられ、サイファーやベアトリスさんの師。
その本人が、なんで俺の目前で焚き火に薪をくべてんだよ。
「ちょ、ちょっと待って! 入れすぎ! 酸欠になるから! 気流見てるんだから勝手に山盛り突っ込むなって!」
「はは、すまない。焚き火はよくわからなくてね」
俺の慌てっぷりに軽く笑いつつ、ルドヴィクさんは指をひと振りした。
次の瞬間、洞の天井近くの空気だけが薄く流れ、煙と臭いの強いガスが細い筋になって外へ吸い出されていく。
風魔術の微細制御。
火はそのまま、毒だけ抜くように。
「……おお、器用」
「火は生き物だ。苦しくさせないようにしてやるのが礼儀だよ」
「じゃあ最初から燃え上がらせないでください」
肩の力が、少し抜けた。
伝説なんていうものだから、絡みにくい厳しい人を想像してたのに、思ったより距離が近い。
「えっと……ルドヴィクさん、で、合ってますよね。なんでここに……千年前、封印で……」
「ああ、私のことは聞いているね」
焚き火の橙が、彼の輪郭を薄く縁取る。
光の揺れに合わせて、存在の輪郭がすこし遅れてピントを結ぶ──まるで影と本体がずれているみたいだ。
「……まぁ、私がなぜここにいるのか、どうやって君と話しているのか、疑問は山ほどあるだろう。だが話せる時間は長くない。この状態は長く続かないのでね。だからそこらへんは省かせてもらうよ」
「長くは持たないって……?」
やっぱり、死んでるのか? 幽霊? 封印の縁からの逆探知……とか?
食いつこうとした俺の言葉を、彼は掌ひとつでやんわりと制した。
そして、いきなり核心に刃を当てる。
「フェイくん。なぜ断った?」
「……っ」
喉がぎゅっと縮む。
この人、俺とサイファーたちのやり取りを——
「やりとり全てを聞いたわけではないがね。風は、いろいろ運ぶ」
「なっ……」
なんだその伝説補正。
やめてくれ。
「けれど、実力が足りないと思うなら、あの子たちに鍛えてもらえばいい。弟子たちが言うように、君の成長速度には目を見張るものがあるからね」
ズカズカ心に踏み込んでくる。
褒めてくれてるのに、妙に腹の底がざわついた。
「……っていうか、じゃあサイファーたちには、あんたが指示したんですか」
「まあ、そういうことになるかな。もちろん、弟子たち自身の判断もある。私は背中を押しただけだ」
背中を押した、で済む話かよ。
要は、俺に役目を着せた張本人じゃないか。
「なんで俺なんですか!? 俺より優れてる人なんか、いくらでもいるでしょう!」
言葉に熱が乗っているのが自分でもわかった。
ここに来るまで脳内で何百回も回した“言い訳”が、そのまま口から出る
ルドヴィクさんは焚き火に視線を落とし、炎の縁に指先でふっと息をかけた。
橙が波紋のように揺れて、彼の声が落ちる。
「……じゃあ『君じゃないといけない理由』を、聞いたかい?」
そんなものがあるってのか、と喉まで出かけた反論が止まる。
俺は昨日、最後まで聞く前に席を立った。
聞いていない。
頑なに、最後まで聞こうとしなかった。
答えあぐねている俺に、ルドヴィクさんは顎に手を当てる。
「ふむ……話さない、か。そこは二人の落ち度だね。とりわけレイアには、もう少し上手く導いてほしかったが」
そう言って両手をわずかに広げる。空気に、静かな圧がかかった。
焚き火の炎が、ぶお、と大きくなり──形を帯びる。
舌のように踊る火は、やがて線になり、面になり、輪郭を持つ。
現れたのは、二本の尖塔だった。
空を刺す双つの黒い尖塔。
禍々しい意匠が絡み合い、塔の側面にびっしりと刻まれた詠唱の環。
根元からは鎖のような橋が幾筋も伸び、周囲の大地へ縫い付けられている。
知っている。
ゲームの画面で見た。
エミルや子どもたちが囚われ、奴隷のように使役されている場所。
アステリアに設置されており、魔族の核になっている“塔”。
そして──そのことを知っておきながら、エミルが勝手に破壊するだろうとまたしても決めつけ、放置してきた"舞台装置"。
「まぁいい。代わりに私が説明しよう」
炎の塔越しに、ルドヴィクの目が俺を見据えた。焚き火の音が遠のく。
「……なぜか君は、この塔のことを既に知っているようにも見えるが……。まぁ、ならば話は早い。これは魔族が地上侵略のために建てた、恐ろしい機能が備わっている塔だ。その機能については?」
「…………魔界の瘴気を生み出して、戦争を魔族側に傾けるための装置」
自分でも驚くほど自然に口が動いた。
「よく知っているね」と言わんばかりに英雄が俺を見る。
まぁ……はい。色々事情があるんです……。
いつ、どの段で作動するかまでは断言できない。
けれど──少なくとも“物語”の中では、エミルが脱出した頃にはすでに大地は赤黒い靄に覆われていた。
仲間を集め、塔にいる兄の宿敵でもある魔王ザミエラを討ち、瘴気の根源を辿って大魔王オルドジェセルへ──それが“既定路線”。
「そう。だからこの塔は直ちに破壊しなければならない」
ルドヴィクの返答は、当たり前の算術の答えみたいに平明だった。
実際、今もどこかでそれに挑んでいる連中がいるのだろう。
……のに、俺の胸は余計に重くなる。
──“ゲームではエミルが塔を無力化させた”。
それを知っているせいで、他の誰が何をしても意味がないみたいな嫌な諦めが、どうしても頭をもたげる。
「で、この塔の破壊方法なんだが」
彼は焚き火の上に掌をかざした。橙がふっと広がり、細い火線が走る。
炎は線から面へ、面から立体へ。やがて掌ほどの人形が次々と産まれ、砂地に影の軍勢が広がった。
「特別な結界で石材自体が不可侵、というわけではない。要は“壊せば”いい。魔術でも物理でも。ただし――それを妨げる障害がある」
火でできた平原の上、二つの陣が向かい合う。
片や鎧の列、片や角と爪を持つ影。
「あ、こっちがアステリア兵で、こっちが魔族兵ね」
「……見ればわかります」
俺のツッコミに、彼は肩をすくめるだけで説明を続けた。
「まず、破壊するには塔に近づく必要がある。しかし周囲は魔族・魔物の大群だ。全力で阻止してくる」
人形たちが一斉に武器を構え、炎の砂煙が上がる。
「当然、戦闘になる。──が、人族はこの戦争に勝てない」
「は?」
「正確には、勝てなくなる。が正しいかな。理由は塔の装置がもう起動段階に入っていて、周域が瘴気に覆われるからだ。そうなると瘴気は魔族を強化し、人族を弱体化させる」
「あ……」
脳裏にゲームでも見た地上の焼け跡が蘇る。
エミルが戻ってきた時、地上はすでにボロボロだった。
唯一の希望に皆が縋る、あの展開──つまりそれまでの期間、世界は蹂躙され続けるってことだ。
「この大陸は本来、精霊と女神の加護に満ちている」
ルドヴィクが指を滑らせると、戦場の上空に白金の格子が編まれた。
細い光の網が大地一面をやわらかく覆い、風が澄む。
「千年前からそうだ。かつて大魔王が瘴気を生み出し、世界を絶望の淵に追いやった。だがしかし、女神アルティアと、四大精霊が大魔王を封印した。世界に蔓延っていた瘴気は消滅し、女神の加護が大陸を包んだ。それは魔の圧を鈍らせ、術の回路を安定させる。しかし装置が起動すると──」
黒い霞が格子に滲み、みるみるうちに白金を汚していく。
光はきしみ、ひとつ、またひとつと断たれた。
「加護は瘴気に再び上書きされる。人族側の魔術は接続抵抗が跳ね上がり、詠唱も術式も滑る。火球ひとつ、矢一本が重くなる」
炎でできた兵士の魔術がぱちぱちと崩れ、矢は途中で落ちた。
対して魔族側の影は濃く、輪郭が肥大していく。
「そして何より──この瘴気そのものが、人族にとって猛毒だ」
彼が軽く息を吹く。
焚き火の煙がこちらに流れ、肺がきゅっと縮むような錯覚が走った。
「吸えば肺は痺れ、血は鈍り、判断は一拍遅れる。そんな空気に包まれて存分に戦える者はいない」
だから、アステリアは崩れる。崩れ続ける。
“未来の英雄の登場”までの空白を、誰の命で埋めるのか──そういう話だ。
「この条件で、魔族と戦いながら塔を破壊することは、不可能だ」
「…………!」
言葉が喉で乾いた。
──やっぱり、この世界は“ゲームと同じ”、エミル頼みで沈み続ける世界線。
そんな未来図が、炎の砂にくっきりと描き出されていた。