第百九十九話 「焚き火する偉人」
ベアトリスさんと別れたあと、俺は訓練場に戻ってきた。
特訓はツバキとやれ、と言われてやってきたが、いつもここにいるはずのツバキは見当たらない。
まあ、ここで自主練しながら待ってりゃ、そのうち来るだろ──そんな気安さで、俺は一人、特訓を始めた。
息を整え、胸の奥で神威を撚る。
薄い膜を幾重にも重ねるみたいに、想いを細く、長く、ひたすら“刃”の形に凝集していく。
掌から肘、肩甲骨までを一本の軸に通す。
──抜刀。
“オーラの剣”が、静かに手に生まれた。
色はなく、ただ空気が歪んで光る。
構えたまま一歩。
石壁に正対し、腰だけ滑らせる。
ズパッ──
抵抗は、まるでゼロだった。
レイアさんに教えてもらった時のような、あの無音に近い手応え。
岩の面に、紙の切り目みたいな直線の亀裂が走る。
遅れて砂の粉がさらさらと落ちた。
……綺麗だ。
けど、違う。
「…………」
満足感なんて、どこにもない。
刃は出たけど、芯がなく、上手く練れていないことが簡単にわかる。
神威は“想いの力”。
今にも砕けそうな俺の心じゃ、まともに形になるわけがない。
「お……?」
ふと、切り裂いた岩の向こうがぽっかり空洞になっていると気づいた。
黒い穴。
口を開けた小さな洞窟が、裂け目に連なっている。
穴があれば入りたい。
今の俺にこれ以上ふさわしい言葉はないだろう。
何も考えず、割れ目をくぐる。
腰を屈め、靴で砕けた破片をどかしながら奥へ進むと、すぐ膝ほどの広さの空間に出た。
人が二、三人うずくまれるくらいの狭い横穴だ。
そこからは、俺の手が反射で動いた。
外から火口箱と麻の火口、細枝束、拾ってきた松ぼっくりを二つと、枯れ草をひと握り。
癖になってる焚き火の段取りだ。
細枝を井桁に組み、火口に火花を落とす。頬で息を流し、くべる。
空気が乾いているぶん、火は素直だった。
ぱち、ぱち──
橙の小さな焔が、洞のざらついた壁面に揺れて映る。
温度が上がるが、胸の奥は逆に冷えたままだ。
焚き火を見ながら、考える。
いや、もう先ほどから何度考えたかわからないループを、また再生するように。
「…………」
──何度考えても、やっぱり俺には無理だ。
サイファーたちの願いは、できるだけ聞いてやりたい。
恩もあるし、助けになりたいとも思う。……思うけど。
現実の俺は、ここいらの魔物相手でギリギリだ。
マリィの方が純粋な火力は上だし、たとえ強い魔術を覚えたとしても総魔力量はたかが知れてるので、持久力だって無い。
こんなんで魔王なんて相手にできるわけがない。
「はは……俺なんかがベルギスや、クロードさんみたいになれるかっての」
枝で薪を崩し、赤い芯を散らす。
火の粉が舞う。
鼻に松脂の甘い匂い。
修行だって、最初の頃は手応えがあって、楽しかった。
クリスと一緒に、サイファーやレイアさんと一緒に、出来なかったことが、出来るようになる高揚。
それが最近は、鍛えても身体が痛むだけで、床の天井に額をぶつけてるみたいな停滞感しかない。
それに、神威みたいな大技は、正直怖い。
本当に体が壊れそうになるんじゃないかと思ってしまうから。
マリィだって同じだ。
強すぎる神威に、身体も心も追いつけてない。
「そもそも俺、元ニートだし。そんなんが勇者になったら流石にダメだろ」
火が薪を噛み、ぱち、と爆ぜた。
小さな火花が床の砂に沈む。
サイファーたちは「最強の戦士」になれる、なんて言ってくれた。
嬉しいけど、正直これ以上強くなれる実感は俺にはない。
「そういうのは立派な人間、為るべくして為る人がいるんだよ。エミルもそうだし、現段階だったらやっぱベルギスとかさ……俺には無理無理、絶対できねーよ」
口が勝手に笑った。
乾いた音だけが出る。
魂が大魔王だとか、因果がどうとか、外側の設定はやたら豪華かもしれない。
でも、自分の体のスペックくらい、自分が一番知ってる。
同じ魂でも、この身体は“ただの俺”だ。
特別なエンチャントなんて宿ってない。
だからここから先は──本当に無理だって見える。
天才と凡人を分ける、透明なのに分厚い壁。
ジャンプしても、足場を積んでも、天井が上がるだけのやつ。
それを直視するのは逃げじゃない。
クリスから逃げ、サイファーから逃げた時のそれとは違う。
トレーニングだって続けてきたし、続けたうえで、届かないって認めるのは……悔しいけど、嘘じゃない。
でも、そんなことよりも──
「はは……ほら、今だってそうじゃん。だってさっきから俺、自分のことしか考えてねーし」
火のはぜる音に紛れるくらい小さく笑って、額を手の甲で拭う。
熱ではなく、視界の端を曇らせるものをごまかすみたいに。
このモノローグの中で、一度でも言い訳以外が出てきたか?
誰かのためとか、世界のためとか、立派な台詞を一行でも吐けたか?
吐けてない。
俺は今も、俺の限界、俺の痛み、俺の恐怖――“俺の俺の俺の”をばっかり数えてる。
「そういう奴なんだよ……俺は」
マリィのことだって、今この瞬間は完全に頭から抜け落ちていた。
神威が暴れて苦しんでるあいつの顔より、俺が"勇者になれない理由探し"の方が気になってる。
情けないにも程がある。
マリィは今、きっと俺のことでも考えてくれてるんだろうな。
ツバキも俺なんかとは違って世界の為に剣を見続け、ベアトリスさんは千年前からの約束を背負い、サイファーとレイアさんだって世界に楔を打とうとしているのに。
俺だけが、自分の足元の火加減ばかりを覗いている。
──そんな奴が、世界のために戦う勇者になんて、なれるわけねぇだろ。
悔しくて、笑えて、けれど涙は勝手に出た。
焚き火の橙が揺れて、雫がひとつ、砂に落ちる。
「……何泣いてんだよ。三十路の涙とか、誰得だよ」
涙を拭って、鼻で息を吸う。
煙が目に染みたことにしながら、俺は袖で顔を拭った。
「はっ……はは……」
わざと空気を割るみたいに笑って、手元の薪をへし折った。
乾いた繊維の裂ける音が、狭い横穴にやけに大きく響く。
松脂の甘い匂いが一段濃くなる。
もう考えるのはやめよう。脳内会議は解散。議長(俺)は職務放棄。
ツバキと黙って特訓して、マリィのことはザリーナに頭を下げる。
できれば治してもらって──治らなくても、どうにかマリィと触れ合えるくらいまでは回復して、ここを出る。
そうしよう。
それしかできない。
「……よし」
折った薪をひとくち分、火床に落とす。
橙の舌が嬉々として木肌を舐め、ぱちぱちと拍手のような音を立てた。火の粉が数粒、砂に沈む。
前を向き、もう一本を投げ込もうとした、その時。
「やぁ」
ほんの一音。
小石が水面に落ちたくらい軽い挨拶が、真正面から届いた。
「ッ……!?」
俺の体は、硬直した。
指先の薪が落ちかけて、ぎりぎりで空中に留まる。喉が、ひゅ、と鳴って止まる。
声が出ない。出るはずのないものを引き出そうとして、糸が切れたみたいに、何も出ない。
焚き火を挟んだ向こう側──“男”が座っていた。
いつから、という疑問が丸ごと誤植だったみたいに、思考が無音で白くなる。
少なくとも、さっきまでそこには何もなかった。
火の明滅が、男の輪郭を薄く縁取る。
黒でも白でもない、灰のような外套。
焦げ茶の革に銀の糸を控えめに通した前留め。
粗野ではないが、どの街でも浮かない“実用品”の佇まい。
そして、顔。
──見たことがある。
シュヴェルツの大聖堂。
広間の正面、祈りに背を預けるように立っていた、あの銅像。
剣をたずさえ、都市を見守る伝説の“像”。
千年前、アルティアの力を借りて、世界に平和をもたらした存在──"ルドヴィク・グランチェスター"その人が、俺の目の前にいつの間にか存在していた。