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第百九十八話 「全てを変えられる石」【三人称視点】

 霊峰レヴァン、訓練場の隅。

 風が、木々の葉を揺らしていた。


 柔らかな木漏れ日が、白い砂の地面に斑模様を描き、鳥の囀りがかすかに聞こえる。

 静謐な空気の中に、鉄と革の擦れる音がひとつ。


「……承知した。フェイクラントに剣を教えればいいのだな? いつもの訓練ではなく、魔術の……」


 声の主は、ツバキ。

 切り揃えられた黒髪を揺らし、鋭い眼光のままに師を見据える。

 鍛錬着に身を包み、抜かれぬ木刀の柄にそっと手を添えながら、問うような視線を投げていた。


「えぇ、ツバキも自分の特訓をしたいでしょうが、頼めますか?」


 ベアトリスは穏やかな微笑を浮かべたまま、いつもの調子で返す。

 その声は、決して強要するものではない。だが、断るという選択肢など、初めから存在しないことを前提とした穏やかさだった。


「問題ない」


 短く、しかし即答。

 それはもう何百回と交わしてきたやり取りに過ぎなかった。


 本来、師弟というものは、弟子が師に敬意を払い、敬語を用いて接するのが常。

 だが──彼女たちは違う。


 ベアトリスとツバキ。

 剣の技を介し、魂をぶつけ合うような関係を幾年も続けた結果、もはや形式的な上下関係など意味を成していなかった。


 彼女たちはただ、信頼という無言の結びつきで繋がっている。

 命を託せる者として、互いを見ている。


 だからこそ、ツバキは一度たりとも“師の言葉”を拒んだことがなかった。

 己を育てた女が求めることならば、どんな理不尽も黙って受け入れる。

 それが、彼女にとっての“礼”だった。


 ──だが。


 フェイクラント。

 あの男は、違った。


 彼の選択は、ツバキの中の“秩序”をわずかに乱した。


 師と呼ぶに等しい存在の言葉を、“受け取らなかった”。

 それどころか、静かに、しかし確固たる意志で、拒んだのだ。


 その事実に、不快とまでは言わぬまでも、どこか澱のような感情が滲む。


 ツバキは目を閉じた。


 山の麓で出会ったあの時──

 同じ“宿命”を負うかもしれないと知った時、心が静かに震えたことを思い出す。


 だが今は、その片鱗すらもない。


「……初めて会った時は……もっといい男に見えたのだがな……」

「まあ、珍しいですね。ツバキがそんな風に言うなんて」


 ベアトリスがくすりと笑う。

 長く付き合ってきた中で、こういう反応は極めて珍しいと知っているが故だ。


「珍しい?」


 ツバキが訝しげに眉を動かすと、ベアトリスは指先で顎をなぞりながら軽口を続けた。


「だって貴女、殿方の良し悪しなどわからないと、いつもそう言っていたじゃありませんか」


 肩をすくめながら、どこか懐かしむように言葉を継ぐ。


「数ヶ月前にここを出ていったミーユのお付きの……そう、ベルギスさんのことも『どうしてあんな男がいいのだ?』ってミーユに言ってたでしょう? 強さも顔も、少なくとも私にはフェイクラントさんよりかはよく見えますけれどね」

「……強いだけでは、足りんのだろうな」


 ツバキはぽつりと答えた。

 数ヶ月前にここを訪れたベルギスは、確かに強かった。

 あらゆる武の極地へと至る者のみが出せる戦のオーラ。

 だが──ツバキから見た彼の瞳に宿るのは、まるで“死”そのもの。


 まるで、すべてをかなぐり捨てて手に入れたような力。

 無理を通して、捻じ曲げた強さ。

 ──だが、運命そのものを引き寄せる力ではないと感じた。


 運命力とは、死を覆す力。

 ツバキの目からは、なぜ彼が生きているのかも分からないくらいに弱く見えたという。 


 そして今。

 託されるはずだった役目を拒んだフェイクラントにも──どこか、それと似た“薄さ”を感じてしまった。


「……貴女の眼は、意外と鋭いのですね」


 ベアトリスがそう評するのは、決して皮肉ではない。

 むしろ、彼女の中で“次代を見極める目”を持つ者として、ツバキを密かに期待していた証でもある。


 ──その時だった。


 ツバキの視線が、不意にベアトリスの手元に落ちる。


「……その石は?」


 ベアトリスの左手。

 そこにあるのは、青く透き通った、楕円の魔石。


「……例の石です。フェイクラントさんが持っていましたが、輝きはしなかったようですね」


 淡々と、そう言いながら魔石を持ち上げ、光に透かす。

 白昼の下でも、どこか夜の面影を宿したような冷たい光沢が浮かび上がった。


 ツバキの目が、引き寄せられる。

 まるで吸い込まれるように──


「まったく……あの二人ときたら、こんな大事なものを……」


 ベアトリスはそっと笑いながら、懐かしげに目を細めた。


「役目の内容も話していないような者に託していたとは……昔から相変わらず無鉄砲というかなんというか。レイアは、もう少し理解あると思ったのですがね」


 回想のように目を伏せる。

 懐かしさと、わずかな寂しさ。

 遠い日の戦い、仲間たちとの語らい──それが一瞬、彼女の頬を緩ませた。


 そして。

 ツバキが、前へ出た。


 まるで“惹かれる”ように、一歩。


「……私が、試してみても?」


 問いかけの声に、ベアトリスは静かに視線を戻す。

 厳しい目元が、しばし黙考の色を帯びた。


「……いいでしょう。どうせ試してみるつもりはありましたからね。ザリーナかツバキでも、もし輝かせることができるのならば──」


 その瞳は、未来を見据えていた。


「その者が、“すべて”を終わらせることができるかもしれません」


 ──静寂。


 魔石を手に取るツバキの瞳が、微かに震える。



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