第百九十七話 「必要のないもの」
あれほどまでに張り詰めていた重圧が、ひとつの拒絶によって──俺の“ノー”という言葉だけで、まるで嘘のように和らいでいた。
もう、俺に何かを託すことはない。
もう、俺を勇者候補として扱うこともない。
……諦められたんだと、分かった。
サイファーとレイアさんの表情が、“いつもの二人”に戻っていくのが皮肉なくらいよく見えた。
気さくで、どこか飄々とした笑み。無言の中にどこか優しさを含んだ眼差し。
──そうだ。
この二人は、ずっと、俺の味方でいてくれたはずなのに。
だからこそ……今になって、胸が痛む。
サイファーは、レイアさんは、勇気を振り絞って俺に真実を託そうとした。
理由はわからないが、きっと俺にしか頼めないから。
俺に、託したいと思ったから。
なのに──俺は、それを拒んだ。
きっと、それはすごく言い辛かったことなのかもしれない。
なのに俺は──
「…………」
しかし、ベアトリスさんだけは、終始表情を崩すことなく、淡々と俺たちのやり取りを見つめていた。
まるで俺を責めているようで、俺は彼女の顔を見ることが出来なかった。
「まぁ、ただ……今の実力じゃ、その山を降りるのも厳しいじゃろ。ベアトリスは優秀な魔術剣士じゃ。鍛えてもらい、ここの魔物に慣れれば、多少は楽になるじゃろうて」
サイファーは話を切り替えるように、あくまで穏やかに。
でもその目は、俺に何も押しつけることはしなかった。
「世話になってゆけ。……フェイを頼んでいいか?」
ベアトリスさんに向けられたその言葉に、俺は思わず肩をすくめる。
──ずるい。
こんな空気を作って、あたかも“もう過ぎたこと”みたいな顔をして。
こっちはまだ、全然割り切れてないのに。
「…………あぁ」
ベアトリスさんが、小さく頷いた。
声は冷たくはなかった。けれど、どこか……距離があった。
正直、気まずい。
サイファーたちの頼みを断った俺が、こうしてベアトリスさんに世話になるなんて──まるで、都合よく“いいとこ取り”してるみたいじゃないか。
「……マリィは、大丈夫なのか?」
ふいに、レイアさんが声を上げた。
伏し目がちだったその紅い瞳が、そっと俺を見つめてくる。
無表情のように見えるけど、目の奥に宿る“気遣い”だけは、痛いほど分かった。
「あれから、また……少し大きくなったんだ。そっから、いろいろあって……」
言い淀む。
クリスの魂が共鳴してるとか、神威が暴走しかけてるとか……そんなの、言えるわけがない。
「今は、ベアトリスさんに診てもらってる。……でも、元気は元気だぜ。食欲もあるし、見た目も問題ない。ただ……精神的な問題、っていうか……そんな感じだ」
「そうか…………そばに、いてやれ」
レイアさんの声は、どこまでも静かだった。
憐れみでもなく、悲しみでもなく、ただ……心から、気にかけてくれていた。
だからこそ、言えなかった。
“今は、マリィのそばにはいられない”なんて──。
「マリィもそうだが、お前も……元気でいろよ」
サイファーが、いつものように微笑んだ。
それが、彼なりの精一杯だったのだろう。
だから、俺も。
「…………おう」
そう、うなずくしかなかった。
本当は──言ってやりたかった。
「お前こそ、自分の体を心配しろよ」って。
でも……俺には、そんな資格もない気がした。
ベアトリスさんは、ずっと無言のままだった。
俺は、その視線から逃げるように、広場を後にした。
---
そして──帰る。
来た道を、ベアトリスさんと共に。
……重たい、背中だった。
まるで、全員の感情を背負ったまま帰るような、そんな気分だった。
とくに、ベアトリスさんに対しては、合わせる顔がなかった。
エルジーナ。
それがどんな存在かは分からない。けれど、ベアトリスさんが深く関わっていることは、話の中でも明らかだった。
なのに──俺は、“無関係でいること”を選んだ。
"世話になるだけで、何も返さない"
そんな身勝手な存在を、彼女がどう思っているのか……考えたくもなかった。
「……あの……」
気づけば、俺の口が勝手に動いていた。
ベアトリスさんの足が、わずかに止まる。
「何か……?」
振り返るその声は、いつもの冷静さを保っている。
でもその奥に──何かがある気がした。
……それでも、俺は。
「エ、エルジーナを倒す方法ってのは……その、見つかったんですか?」
──我ながら、意味の分からない質問だった。
俺は関係ないと言ったのに。
知りたくないとも言ったはずなのに。
結局、こうして引きずってるじゃないか。
「…………それを聞いて、どうするのですか?」
しばらくの沈黙ののち、ベアトリスさんは静かに口を開いた。
「あなたは役目を受けなかった。ならば、知らなくてもよいことです。……そうでしょう?」
淡々とした語り口。
なのに、まるで刃のように、鋭く心に突き刺さる。
──まったくだ。
返す言葉もなかった。
結局のところ、俺は“知りたい”んじゃなくて、“知らずにいられない”だけなんだろう。
あんな風に拒絶しておいて、それでもエルジーナや使命のことを気にしてるなんて──俺は、本当に中途半端だ。
「…………」
再び、俺たちのあいだに沈黙が落ちた。
軽い霧が、草を濡らすように、会話を奪っていく。
先ほどまでの広間の熱もすっかり冷え、いまこの山道にあるのは、凍てついたような空気だけだ。
──なんなんだよ、これ。
正直、マリィの容態さえ問題なければ──
即刻、「世話になりました」って言って、尻尾巻いてこの霊峰を降りてる。
それができないから、こうしてダサく踏みとどまってるだけ。
……それなのに。
「フェイさん」
「ひゃっ──はいっ!?」
ベアトリスさんの声に、思わず変な悲鳴を上げていた。
うっかり裏返った自分の声が、あたりの木霊に跳ね返ってくる。
何だよこの反応。
情けなさすぎて泣けてくる。
「申し訳ありませんが、訓練の件は──私の弟子である、ツバキと行ってください」
その言葉に、なぜか胸の奥がチクリと疼いた。
「は……はい。わかりました……」
わざわざ“訓練の件はツバキと”ってことは──つまり、ベアトリスさんは俺を鍛えるつもりはもうない、ってことだよな。
そりゃそうか。
使命を蹴った、腰抜け野郎なんだもんな。
“教える価値なし”って思われても、不思議じゃない。
「……別に、そういうワケではありません。私用があるのです」
「あっ……す、すみません……」
──心の声を聞けるの、忘れてたわ。
この場で俺だけ“思考ダダ漏れ”じゃねぇか。
っていうか、よくもまぁこんな失礼なこと堂々と考えられるよな、俺。
顔から火が出そうだ。情けなさすぎて笑えてくる。
情けないところ全部丸見えで、もはやミジンコレベルに中身スケスケである。
──子供だ。ほんとに。
俺だけが、全部出して、全部振り回されて。
周りの大人たちは、どこまでも冷静で、どこまでも達観している。
そして。
「……あと」
と、ベアトリスさんが唐突に立ち止まり、こちらへ手を差し出してくる。
白く細い指先。
その掌は、何かを“受け取る”ためのかたちをしていた。
「もう──あなたに、あの石は必要ないでしょう?」
静かに、けれど拒絶を許さぬ気配を伴って。
「渡してもらえますか?」
「えっ──」
反射的に、元々握っていた拳に力が入った。
まだ、持っていた。
レイアさんからもらった、“魔石”のペンダント。
ずっと大切にしてきた、“お守り”。
怒りに任せて引きちぎったくせに、砕くことも捨てることもできずに……ただ、ずっと握り締めていた。
「…………」
差し出された掌と、俺の手の中の魔石。
渡せば、もう本当に“終わる”。
これはその儀式みたいなものだ。
勇者という可能性を、俺自身の手で切り捨てる瞬間。
……でも、正直、俺にはもう持っている意味も分からなかった。
魔王を倒すための力でも、英雄になるための証でもない。
それはただ──“託された重さ”の象徴だった。
そして、俺にはその重さを、もう抱えていく資格も覚悟もない。
「……わかりました」
そっと魔石を取り出し、ベアトリスさんの手のひらに置いた。
ほんの一瞬、指先が触れ合った気がした。
その温度は、意外なほどあたたかくて、でも……どこか寂しかった。
彼女は何も言わず、それを懐にしまうと、再び前を向いた。
「行きましょう」
その一言だけを残して、ベアトリスさんは歩き出す。
……俺は。
すごく、大切なものを──失ってしまった気がする。