第百九十五話 「勇者になってくれ」
「我々の当初の目的は──エルジーナを倒すことじゃ」
洞窟の静寂に、サイファーの声が重く沈んだ。
「だが……今の地上は、もはやそれだけでは済まぬ。新たな侵食者……“ロータス”と呼ばれる魔王によって、千年前に討ち果たしたはずの魔王たちが次々と復活させられておる。目的はおそらく、エルジーナまでも解き放ち──新生した“四魔王”によって、大魔王オルドジェセルを復活させようとしておるのじゃ」
ロータス──どこかで聞いたような名だが、それが“新魔王”とされているのなら、もうそれだけで十分ヤバい奴だと分かる。
そして何よりも……“大魔王復活”という文字列。
それが突きつける“世界の終わり”の重みは、黙っていても理解できるほどに直感的だった。
「大魔王が復活してしまえば──女神アルティアがいない今、ワシらには対抗手段が無い」
次に口を開いたのは、レイアさんだった。
凛とした紅の瞳が、こちらをまっすぐ貫いてくる。
「だからこそ……ワシらは、長い年月をかけて“対抗しうる存在”を探し続けてきたのじゃ。少しでも可能性のある者を見出し、鍛え、育て──いつかこの時が来ることに備えるために」
そして、さらにベアトリスさんが続けるように、静かに言葉を紡ぐ。
「ですので、フェイさん。あなたがこの地に導かれたのは──アステリアの者たちと協力し、魔族および復活した魔王を討伐し、おそらく“復活の祭壇”と化しているあの塔を破壊するため……そして、そのための“修行”を、この地で積んでいただくためです」
──沈黙。
冷たい空気が肺に満ち、頭の芯がジンと痺れる。
胸がざらつく。
喉の奥が、渇く。
「…………いや…………あの…………」
それだけしか、口から出てこなかった。
──“世界の命運を託される”。
そんなシチュエーション、漫画かゲームの中だけだと思ってた。
まぁ実際、俺は“その世界”にいるんだけど。
大魔王との因果でモブAとしてこの世界に転生して。
クリスやマリィと出会って、それなりにそこそこ頑張って。
ただ……あいつらのために、自分なりに動いてみようと思っただけだ。
改変などはずっと頭にあったが、アステリア王国につけばおおよそこの旅も終わりを迎えるものだと勝手に思っていた節もある。
例えば女神の因子を持っているマリィが、女神の剣と接触することで不思議パワーが働き、勇者エミルは大魔王を完全に倒し切ることができるようになるとか、そんな改変が俺の使命だと漠然と思ったりもしていた。
しかし、なんだ。
あくまで、この世界はいずれ"伝説の勇者"によっていつか救われると思っており、俺は影で適当に活躍しつつ、俺の中で俺にできることだけを適当にこなせばいい。
クリスとか、マリィとか、オルドジェセルのことはまぁ、アレだけど……俺の周りに関係ある部分だけでもより良いようになればと、俺にできる範囲で何かをしようとは思って動いていた。
はずなのに、いつの間にか「千年前」だ「役目」だ「魔王」だ「修行」だ「英雄」だ「地上が滅ぶ」だなんて話を急にされて、自分が今、世界を救う役目を背負わされることになっている。
今までのあらすじ、了。
「まぁ……あれだな……」
ぐるぐると脳内で思考が回り続けるなか、俺は何とか言葉を絞り出す。
「たしかに……今までも無茶なことを言われて、気づいたらやらされちゃってたこともある……。魔物使いのこととか、レイアさんの怖すぎる修行とか……でも……」
ふぅっと、息を吐く。
深く、肺の底から。
そして──全力で、叫んだ。
「今やれって言ったこと、全部無理だろッ!! 魔王を倒してくれ!? そういうのは伝説の勇者にでも頼んでくれッ!!」
俺の声が洞窟内にこだまする。
エコーで自分の絶叫が倍増されて帰ってくるのが腹立たしい。
っていうか、伝説の勇者ならエミルがそのうち帰ってきてくれるのもあるし、そもそも俺なんかより強い奴なんていくらでもいる。
クロードさんとかベルギスとか、もっとこう……主人公っぽい連中が!
なのに──なんで“俺”なんだよ。
だが、三人は誰一人として動じなかった。
茶化さない。
笑わない。
ため息すらつかない。
「残念じゃが──ルドヴィク様のような“伝説の勇者”は、現時点では存在しない」
そう、サイファーが言った。
まるで宣告のように。
逃げ道を、完全に封じるように。
「じゃから──お主が、勇者になってくれ」
レイアさんの声が、泉の水面に落ちた。
真紅の瞳が、迷いなく俺を見つめていた。
「………………」
いるんだよっ! 勇者エミルは! 五年……いや三年半後くらいには!
なんて言葉は、今も尚戦い続け、傷ついているアステリアの民衆がいるのだろうという手前、口にすることはできなかった。
ここで断りきるというのは、いずれ救われると分かっていても、"今のアステリア"を見捨てるようだったから。
「……考える時間をくれ」
そう呟くのがやっとだった。
誰も何も言わなかった。
ベアトリスさんが目を伏せ、サイファーがそっと頷いた。
そして俺は──洞窟の静けさを振り切るように背を向けた。
---
──夕暮れ。
訓練場には、剣を握った子供たちの声が響いていた。
「重心が前に出すぎだ。腰を落として、剣の軌道を意識しろ」
ツバキはいつもの通り、子供たちに剣を教えている。
夕陽が石畳に長く影を伸ばし、鍛錬に励む子供たちの瞳が、朱に染まっている。
誰もが真剣だった。汗を流し、傷をこらえ、必死にツバキの言葉に食らいついていた。
以前なら、それをただ“熱心な日常”としか思わなかったかもしれない。
だが今は──違う。
その剣は、使命のための剣だ。
その訓練は、魔王に抗うための訓練だ。
レヴァンに住む獣人たちは、全員ベアトリスさんの弟子たち。
彼らは皆、“選ばれる可能性がある者たち”なのかもしれない。
──ツバキも、ザリーナも。
その刃を磨く日々は、世界の命運に手をかけるための準備なのかもしれない。
「む……」
ふと、ツバキがこちらに視線を寄越した。
耳がぴく、と動いたかと思えば、じろじろと俺を観察してくる。
──こいつ、絶対分かってる。
俺がベアトリスさんたちと帰ってきたことも、あの“話”を聞いたことも。
「なんだよ」
「…………別に」
視線を逸らし、ぷいとそっぽを向かれる。
──はあ。そういや、こいつは俺の内心を読むみたいな真似をよくしてきた。
だからこそ、今日も──
「そんなに臆病者だとは、思わなかっただけだ」
「…………うるせぇな。整理するだけだよ」
やっぱりか。
案の定というか、俺の逃避はお見通しだった。
結局、あの場の空気に耐え切れず、考える時間を口実に逃げ出した──いや、“退散した”のだ。
「……今日は稽古には付き合えねぇ。先に休むわ」
ツバキの反応を待たず、俺は背を向ける。
……と、背後から。
「寝るならば、手洗いうがいを忘れるなよ。それと、一応晩飯も用意しておくからな。何か困ったことがあれば──すぐに私を呼べ」
そんな小言めいた言葉に思わず振り返りそうになるが、振り返ると何かが崩れそうで、俺は背中を向けたまま、軽く手を振って答えた。
「へいへい。お前は俺の親かよ」
──よくわからないやつだ、本当に。
だからこそあいつは俺とは違って、あんなにも迷いなく、使命を受け入れているのかもしれない。
──そして、自室。
敷かれた布団に、ばさりと身を投げる。
天井の木目がやけに遠くて、やけに近い。
脳裏に、あの老いた三人の言葉が反芻する。
『フェイ、お前の力が必要なんじゃ』
『お主が勇者になってくれ』
俺が、この世界に来てから見てきたもの、触れてきたもの。
全部が──今この瞬間、一本の道に繋がったかのような錯覚。
けれどそれは、夢の中で迷子になったような、現実味のない重圧だった。
そりゃあ……ゲームの中では、最終的には勇者エミルがどうにかしてくれる。
でも、それまでに何人が死ぬ?
プレーリーは焼き払われ、ヴァレリスは俺がミーユを救わなければ戦争になっていた。
それは全て、主人公が関与できなかったところでの話。
今この瞬間にも、戦いは続いている。
なら──“今”どうにかしなきゃならない誰かが、必要なんだ。
……でも、それが俺じゃないとダメなのか?
俺に、そんな力があるわけがない。
「……魔王」
その言葉は、刃のように口の中を裂いた。
プレーリーを焼いたザミエラ。
俺に恐怖を植え付け、絶望を刻んだ、あの笑顔。
そして──西方で会った、ヴェイン。
俺の神威なんて全く通じず、一撃で地形を変え、死を撒き散らした存在。
さらに、そいつらと同レベルのやつがあと二人?
どう戦えっていうんだ。
「俺を……殺す気かよ、サイファー……」
布団を頭までかぶり、声が漏れないように感情を押し込める。
無理だ。
逃げたい。
出来るはずがない。
たった一人の村人Aが、神話の続きを担えだなんて。
………………この話は、俺には無理だ。