第百九十三話 「神話」
サイファーの口調が妙に重かったせいで、自然と俺もふざけた調子を引っ込めていた。
いつものサイファーなら、軽口混じりに屁でもない話のように笑いながら語るはずだ。
けれど今、目の前にいる彼は──まるで会議でも始めるかのような、そんな顔をしていた。
っていうか、ベアトリスさんの言う"話"って、もしかしてサイファーとレイアさんを交えての話だったのか……?
だとしたらなんでわざわざ東方まで足を運ばせてこんな回りくどいことを……。
「大切な話だ、聞いてくれ」
「……お、おう」
静かな空気に、変な汗が背中を伝う。
「……本来、この話はもっと早くに話しておくべきじゃったんじゃが──アラサーにしてようやく動き出したお前の人生をワシらの都合で奪うことになると思うと、どうしても言い出せなかったんじゃ。お前は“別”にしようと思っていた」
アラサーにしてって……。
「だが──状況が変わった」
そう言ってサイファーは瞳をそっと細めた。
水面に揺れる光を、その双眸が反射する。
「フェイ、お主の力が必要になった」
「……俺の?」
その一言に、心臓がわずかに跳ねた。
けれど、さっきから妙にまわりくどい。
言葉の奥に何かがあるのはわかるのに、核心にはまるで触れようとしない。
ベアトリスさんもレイアさんも、なぜか沈黙したまま、ただ静かにこちらを見つめている。
空気が重い。
硬い。
冷たい。
──だから、俺は無理やり笑みを作る。
「えーっと……頼みがあるならやってもいいけど、なんかこう、難しい話なのか? また大陸超えて手紙届けろとかなら、正直イヤなんだけど……」
「難しいと言えばちょっとばかし、な……長くなるが聞いてくれ」
冗談めかして空気を和らげたつもりだったが、サイファーは笑いもしない。
ベアトリスさんが静かに目を閉じ、レイアさんも肩を並べるように前へ進み出る。
三人の顔は、どこまでも神妙だった。
空気が変わる。
さきほどまでの和やかな空気が、嘘のように張り詰める。
水面すら、静まり返り──まるで、すべてが耳を澄ませていた。
「ワシらの……昔話をしよう」
サイファーの唇が、ゆっくりと開く。
「まず、ワシらは今から千年前……“三魔王”と戦った戦士じゃ」
「はぁッ!?」
思わず、盛大な声が漏れた。
千年前?
いま、“千年前”って言ったか、この爺さん。
「ちょっ、ちょっと待って!? 千年前って……サイファー、今いくつなんだよ……!?」
正直、歳を聞くのも怖い。
いや、冗談でもボケでもなく、本気のトーンで言ってるあたり脳が理解を拒絶しそうだった。
だって千年前って、もはや神話だろ。
確かに、この世界には魔族みたいな長命種がいて、百年、二百年と生きる者も珍しくはないってのはゲーム知識でなんとなく知ってるけど……。
でも、サイファーは人族のはずだ。耳も肌も普通で、変な特徴もなかったし……。
「問いにはあとで答える。とりあえず、最後まで聞いてくれないか?」
その声は、重く、静かだった。
ふざけた調子は一切なく、語るというより、“伝える”という意志を感じる口調だった。
「……あ、ああ……」
ベアトリスさんも、レイアさんも、俺の横に並ぶように立っている。
誰も言葉を挟まない。
──重い。
山の冷気でもない、洞窟の湿気でもない。
言葉が持つ、真実の重み。
「まず、お主も知っておるじゃろう。かつて魔族と人族が戦った“大戦”のことを。神話の時代の話として、教本にも載っておるはずじゃ」
「えっと……たしか、魔族が暴れて人族が迎え撃った、みたいなやつだろ?」
「そうじゃな……暴れて、という点では間違っておらん。だが、“なぜそうなったか”までは語られておらんじゃろう?」
サイファーの視線が、遠くを見ているように細くなる。
「──当時、魔族と人族は、今ほど隔絶されとらんかった」
俺の脳裏に、思わず「え?」という疑問が浮かぶ。
「共に都市を築き、学び合い、時に混ざり合いながら生きておった。魔族は魔力に優れ、長命で、新たな魔術や技術を編み出す才にも長けておった。……そして、それを妬まぬ者もいた」
ゆっくりと、レイアさんがうつむく。
静かに握られた小さな拳。
その指先は、かすかに震えていた。
「人族の中でも、一部の“偉人”と呼ばれる者たちがな……魔族は魔物の血を引く異端、災いの源だと叫び始めた」
その声に、わずかに怒りが混ざっていた。
「“魔族は穢れている”、と。たとえ子どもであろうと、女であろうと──殺して当然とされた。焼かれ、刺され、首を斬られ、そして否定された」
──要するに、魔女狩りみたいなものだとサイファーは言う。
レイアさんの目元が、かすかに潤んでいた。
それでも涙を流さないのは、きっと、何度もその記憶に向き合ってきたからだろう。
「──だが、当然魔族も黙ってはおらんかった。迫害され、なぶられ続けた彼らはついに反旗を翻し、人族に対して戦を仕掛けた。大陸全土を巻き込む“大戦”となったのじゃ」
空気が、さらに張り詰める。
「その中心に立っていたのが──大魔王直属の傘下である“三魔王”と呼ばれた魔族じゃ」
魔王──あの、ヴェインのような存在か。
そう思うと、自然と背筋が強張る。
「三人は、それぞれが軍を率い、圧倒的な力で人族を蹂躙した。神威を操り、城を焼き、都市を踏みにじった。……人族は一時、本気で滅びを覚悟したほどじゃ」
「……それと、戦ったのが……」
「そうじゃ。ワシらは当時の人族最強と謳われた討伐部隊。冒険者の中でも、特に能力の高い者を集めた選抜部隊じゃった」
サイファーが、ゆっくりと拳を握る。
「構成は五人。魔物使いのワシ、そして嵐の王と言われた戦士である弟のサイラス。そこにいる魔術剣士ベアトリス。そして、優れた魔術師であるブリーノ。──そして我らの師、ルドヴィク様じゃ」
その名前に、確かな重みを感じた。
ブリーノやサイラスが思ってた以上にすごい存在なのはさておいて。
──ルドヴィク。
シュベルツの街で銅像にもなっている"伝説の勇者"。
それが“伝説”ではなく、“実在”として語られていることに、ぞわりと背筋が粟立つ。
「ワシらは力を合わせ、なんとか二人の魔王を討ち取った。……だが、最後の一人──“エルジーナ”だけは別格じゃった」
その名が響いた瞬間、空気が震えたように感じた。
エルジーナ?
聞いたことの無い名前だ。
「奴は、化け物じゃった。どんな攻撃も通らぬ。神威でさえ歪み消える。気づけば戦場の中央にいて、通り過ぎるだけで死体が積み上がっていったほどじゃ。テイマーであるワシが、切り札としてエルダードラゴンを召喚したが……あの時ばかりは、触れることすら叶わなかった」
言葉が消える。
強者の敗北。
それを語る口調には、わずかに滲む悔しさと、哀しさがあった。
「……だが、最後に救ってくれたのは、ルドヴィク様の機転じゃ」
サイファーに続き、ベアトリスさんが、静かに語りを継ぐ。
「師は、女神アルティアの名を呼び、彼女の力を借りることが出来た唯一の存在。……己の命と引き換えに、女神より“封印の神威”を受けたのです」
その言葉はまるで、神話の語り部のようだった。
「ルドヴィク様は言いました。──“今の我々ではエルジーナを倒すことはできない。だからこそ封印する。私の魂ごと、奴を時の狭間に閉じ込めよう。だが……この封印は永遠ではない。封印が解ける時までに──エルジーナを倒す術を見つけよ。頼んだぞ、我が弟子たち”」
洞窟の奥で、泉が静かに揺れた。
そして俺は、ただ呆然と、それを見つめていた。
──まさか。
そんな物語が、現実にあったなんて。
いや、信じたくないとか、信じられないとか、そういう感情じゃない。
ただ──あまりにも、“遠すぎる”。
神話が、伝説が、こんなにも近くにあったなんて。
目の前の三人が、それを“見てきた者”だったなんて。
今、自分がどれほどとんでもない場所に立っているのかを思い知らされて、背筋が、また冷たくなるのを感じた。