第百九十二話 「仕組まれた再開」
──午後。
霊峰レヴァン、ベアトリス邸の渡り廊下にて。
風が、白い布をはためかせる。
山肌を滑る風は冷たく、夏の名残を微かに残しながらも、肌を刺すような鋭さを孕んでいた。
俺はそれを胸いっぱいに吸い込んで吐き出す。
息をするだけで、心が痛むような感覚だった。
あの後、もしザリーナさんが俺たちを引き剥がしてくれなかったら、俺とマリィは今も共鳴し続け、互いの感情に溺れていたはずだ。
だからこそ、今の俺は彼女に近づくことができない。
否、近づいてはいけないのだ。
俺自身の感情が、すでに限界に達しつつある。
何が正しい?
どうすればいい?
考えれば考えるほど、思考はただ霞み、脳の奥が靄がかかったようになる。
マリィを本気で想うほどに、内側で暴れる“想い”が正気を削る。
彼女の心と、かつてのクリスの魂が混在している以上、俺の「好きだ」という言葉には──どこか後ろめたさが混じる。
……いっそ、すべてを放り投げて、ただマリィと溶け合ってしまえたら。
そんな最低な願望が、ふと胸をよぎる自分が──心底、嫌になる。
でも、確かにそう思ってしまうほどには、俺の精神は摩耗していた。
そんな俺を、ベアトリスさんは何も言わずに連れ出した。
今、俺たちは屋敷の奥にある渡り廊下を歩いている。
「……すげぇ」
思わず、口から漏れた。
木造の柱と磨かれた石畳。
渡り廊下の両側は開けていて、山風が吹き抜けるたびに風鈴のような澄んだ音がどこかで鳴る。
遠く、山々が幾重にも連なり、その向こうには遥かなる水平線がある。
そういえば、クロードさんたちはもう戻って来ているだろうか。
だとすれば、かなり待たせてしまうことになるな……。
マリィのこと、イレギュラーがあるのは仕方ないが、それでも手紙を届けるだけで何日もかかっていては、彼らにも呆れられてしまうだろう。
「こちらです」
ベアトリスさんの言葉で、意識が現実に戻った。
「あ、はい」
俺は歩幅を合わせ、足を進める。
徐々に道が狭くなり、段差を越え、岩肌に沿って奥へと入っていく。
途中、ふと下を覗くと、断崖絶壁の谷底が見えた。
高いな……落ちたら死ねそうだ。
できるだけ下を見ないようにして進む。
やがて岩肌の向こうに、ぽっかりと“洞窟”のような開口部が見えてきた。
黒く、口を開けたそれは、まるで何かを呑み込むかのように静かだった。
「……ここは?」
「はい、ここは私の弟子の中でも、特別見込みがある者しか入ることはできません。……ですが、あなたと話すことに関しては、どうしても必要な場所ですので」
「は、はぁ……」
ということは、ツバキやザリーナくらいしか入れない……?
いや、もしかしたらその二人すらも入れないところなのかもしれない。
っていうか、そんなところに入れてしまうなんて、よほど重大な話なのだろうか?
緊張が、脊髄を走る。
肩が自然と強張るのを感じながら、俺は最後の段差を登った。
洞窟の内部は、予想以上に広かった。
というより、それはもはや“広間”と呼ぶべきだった。
天然の岩壁をそのまま生かしたような造りで、天井は高く、奥からは淡い光が漏れていた。
光の正体は、その中央部にある水溜まりから──薄く張り巡らされたそれは、魔力でも篭っているのか、あるいは元々発光する水なのかはわからない。
神秘的で、美しい場所だった。
だが、それ以上に──俺を打ちのめしたのは。
「よぉ」
「…………」
その水面に立っていた、“二人の人物”だった。
「さ、サイファー!? レイアさんッ!?」
俺の声が、広間に木霊する。
瞬間、心臓が跳ねた。
目の前にある“それ”を、脳が信じようとしない。
彼らは──確かに、そこにいた。
水面の上に、ふわりと浮かぶように。
重さも影も感じさせない立ち姿で、まるで風に乗った幻のように揺らいでいる。
立っている、というより“存在している”とでも言うべきか。
その足元には一切の水音がなく、ただ幻想のように、そこに“いた”。
わけがわからない。
俺を遣いとして、ベアトリスさんに手紙を届けるように言って来たサイファーとレイアさん。
その二人が、なぜここにいるのかが。
「ど、どどどどどどうしてここに!? え、幻覚!?」
全身に血が逆流するような焦りのなか、俺は完全にパニックだった。
驚きと混乱のせいで、脳の言語処理が追いつかず、口から出るのはただの音列に近い。
「ほっほっほ」
「なんでじゃろうなぁ」
二人が同時に、したり顔で笑った。
レイアさんは口元を手で隠しながらくすくすと。
サイファーは腕を組み、どう見ても愉快が止まらないといった様子で喉を鳴らす。
「わ、わけがわからねぇ……!!」
いや、マジで。
だって手紙を届けろって言ったの、あなたたちですよ!?
俺、わざわざ危ない海も山も越えて、魔族に襲われて、死ぬほど大変だったのに、なんで今ここにいるんですか?
ちょっちょちょちょちょ、っていうか何!?
なんか透けてるし!? なんかふわふわしてるし!?
頭が沸騰して湯気が出そうなほどの混乱のなか、俺の貧弱な知力が必死にフル回転を始めた。
そして、出た結論。
「まさか……」
俺は叫ぶ。
「二人とも、幽霊になっちまったのかァッ!!?」
「「なっとらんわい!!」」
瞬間、声が重なって飛んできた。
それも同時に、音速で距離を詰めてくる幻影の老人と幼女。
「勝手に殺すな! このバカがっ!!」
「ひぃっ!?」
サイファーの拳が正面から迫り──そのまま、俺の顔面をすり抜けていった。
感触はない。
ただ、ひんやりとした風のようなものが鼻先をかすめただけ。
「で、でも! めっちゃすり抜けてるし! なんなんだよこれッ!」
「相変わらずバカじゃの……ワシらは実体ではない。この泉を使って姿を映しておるんじゃ」
レイアさんが肩を竦め、まったく呆れたように俺を見た。
その声は、水面に反響して広がる。
彼女の姿は、波紋に合わせてゆらりと揺れ、その輪郭が一瞬ぐにゃりと歪む。
──なんだそれ、ファンタジー版ホログラムってことか?
現代科学でも難しいってのに、ファンタジーすげぇ。
「この泉は魔力を持つ水で作られていてな。その昔、『旅人の門』と呼ばれ、遠く離れた距離を移動するのに使われたものじゃ」
説明するレイアさんの表情は、どこか誇らしげだった。
「つまり、転移魔術みたいなってこと?」
「昔はな。今ではその力は薄れておる。だが、こうして互いの姿を映したり、会話をする程度ならまだ可能じゃ。通信魔術の高等な魔道具としても流用できるんじゃよ」
「へぇー……すげぇな」
俺は泉の水に手を入れてみた。
ぬるくも冷たくもない、不思議な温度。
ばしゃばしゃと手を動かすと、その波紋にあわせてレイアさんの輪郭がびよんびよんと波打つ。
なんか楽しい。
ちょっとくせになりそうな感触。
「……ワシで遊ぶな」
ぴしゃりと叱責され、手を引っ込めた。
しかしすげぇな……魔力って、ホントになんでもアリだな。
ずっと張り詰めていたものが、ようやくほどけていく感覚があった。
洞窟に入るまでは、ベアトリスさんの異様な静けさと荘厳な雰囲気に、心の奥がずっとざわついていた。
けれど──目の前のこの二人を見れば、嫌でも肩の力が抜ける。
「……にしてもさ、わざわざ手紙を渡せって言うから、命がけでここまで来たのに。その張本人がこうして普通に目の前にいるって、どんなドッキリだよ。こうやって話ができるなら、別に東方まで俺が来ることも無かったんじゃないか?」
冗談半分に投げたその言葉。
けれど、それに対する二人の反応は──さきほどまでの軽口とは打って変わっていた。
「……あぁ、そうだな。だが、理由もあったんじゃ」
サイファーの声は低く、そして妙に静かだった。
冗談を交わしていたときの柔らかな波紋が、ぴたりと止まり、水面は鏡のように沈黙する。
同時に、洞窟内の空気から、熱が消える。
まるで氷の膜が天井から降りてきたかのような冷たさ。
隣に立つベアトリスさんが、そっと前に出てきた。
ゆっくりと一歩、そしてまた一歩。
岩床に草履の足音が、控えめに鳴る。
彼女の表情は変わらず穏やかだった。
けれどその瞳だけが、深い。
底知れない覚悟と痛みを、その奥に湛えていた。
「……フェイ、お前に話さねばならないことがある」
サイファーのその言葉は、まるで儀式の宣言のように重く。
俺の胸の奥に、静かに沈んでいった。