第百九十一話 「空虚な勝利」【三人称視点】
──セイゲツ港。
夜が、四散していく。
異界の結界が解かれ、まるで夢が醒めるように、空が淡く染まっていく。
深紅の月も、昏き霧も、血色の空間も、跡形もなく消え失せていた。
代わりに戻ってきたのは、ただ穏やかすぎるほどの“日常”。
眩しいほどの太陽。
囀る海鳥の声。
打ち寄せる波の音。
まるで、そこに“惨劇”など一度も存在しなかったかのように。
だが──それは“風景”だけの話。
半径五百メートル。
その範囲にいた者は、例外なく、痕跡すら残さず消え去っていた。
命なき瓦礫と崩壊した地形。
吹き飛んだ桟橋と、赤黒く焦げた石畳。
折れたマストと、引き裂かれた帆だけが、かつて“人”が存在していたことをかろうじて証明していた。
生存者、なし。
──魔王・ヴェインの、完璧な勝利。
しかし。
「……気持ち悪ィ……」
その“勝者”は、不快げに吐き捨てた。
両の瞳を細め、ぶらぶらと歩き出したその男の表情に、勝利の余韻など微塵もない。
あるのは、ただ一つの──苛立ち。
狂気を孕んだ紅い双眸は、未だ静かに燃えている。
だが、それは歓喜の火ではない。むしろ燻ぶり続ける、不完全燃焼の焔だった。
──クロードと、ミランダ。
自らの手で殺したはずの二人。
あの瞬間、間違いなく命を絶った。
“血の奔流”に呑み込まれ、跡形もなく消え失せた。
だというのに──
その顔が、脳裏から離れない。
最後の最後、彼らが見せた“あの目”。
まるで自分を──値踏みし、見限ったような瞳。
あれほどの死の間際に。
恐怖も、怒りも、悔しさも見せず。
ただ“既視感”のようなものに呆れて、諦めたように──否、見下すように笑っていた。
「……チッ……」
舌打ちが零れた。
イラつく。
ムカつく。
勝ったのは、こっちのはずだ。
それも圧倒的に。
目的も果たした。
ロータスの示唆通り、東方大陸に潜んでいた“海原の勇者”をここで確かに仕留めたのだ。
計画は順調。
何一つ破綻はない。
……ない、はずなのに。
「……なんだ、この……後味の悪さは」
喉奥に引っかかった小骨のような違和感。
咀嚼しきれなかった臓腑のような不快感。
まるで“何かを見逃した”かのような、あるいは──“何かを見落とした”かのような。
それが、心の底に澱のように沈んでいる。
「……クク……ククククク……」
その鬱屈を、狂笑で覆い隠す。
「ハハッ、ハハハハハ……ハハハハハハハハハ──ッ!!」
その笑いは、まるで異形の咆哮。
そして、怒りに転じるのは一瞬だった。
「──クソがッッ!!」
怒声と共に、地を踏み鳴らす。
破砕音。
石畳がひしゃげ、地面が陥没する。
重力を無視するような一蹴は、爆発にも等しい威力を帯びていた。
足りない。
つまらない。
満足できない。
幾万を殺し、命を奪おうと、心が満たされることはなかった。
欲していたのは、魂が擦り切れるような死闘。
骨の髄までぶつかり合い、飽きるほどの快楽に酔うような、戦い。
──それが、どうしてこうも空虚なのか。
「もういい、ヤメだ……」
戦場を、呆れたように背にする。
勝者とは思えないその背中に、歓喜も栄光もなかった。
唯一残ったものがあるとすれば──敗北者のような違和感だけ。
戦っていたはずの相手に、勝ったはずなのに、“何か”を奪われたような感覚。
──この世界で、最も愚かで、最も残酷な笑顔だった。
「……これなら、セルベリアでエルジーナを待ってた方が、まだ楽しめたな」
ぼそりと、誰に聞かせるでもなく呟いた。
西方大陸。
セルベリアのとある位置で進行中の、もう一つの計画。
そこには、自らと同格の存在──凶獣の魔王エルジーナが待っている。
本来であれば、そちらへの合流を優先する手もあった。
だが、ロータスが言った。
「海原の勇者討伐の任は、ヴェインくんがいいでしょう」と。
だから従った。
だというのに、この結果は──
「……ロータス、……采配、間違ってんじゃねぇだろうな?」
忌々しげに、名を吐く。
彼はいつも不遜な笑みを浮かべているが、その予言と戦略だけは当たる。
だからこそ不服ながらも従った。信じた。
だが、もしこれが“外れ”だったのだとしたら──
「……ふざけんなよ。俺をこんな茶番に付き合わせやがって」
闇を纏い、漆黒の翼を広げる。
その瞬間、視界が滲む。
空間がわずかに歪み、再び結界のような気配が立ち上る。
──が、それもすぐに、静かに消えた。
今はもう、暴れる意味がない。
敵はすべて死んだ。
だから、ヴェインは踵を返す。
空へと舞い上がり、夜の残滓を振り払いながら──再び姿を消した。