第百九十話 「じゃあ、死なないじゃん」【三人称視点】
セイゲツ港──
「バカ……な……ッ……」
血反吐を吐きながら、地面に這いつくばるロイドが顔を上げた。
視界は揺れ、世界は赤黒く染まっていた。
焼けた瓦礫、崩れた石造りの建物、港に散らばる船の破片。
全てが混ざり合い、衝撃音の残響だけが鼓膜を打ち続ける。
完璧だった。
あの突撃は、確かに一縷の望みに賭けた“賭け”ではあったが──それでも、成功するはずだった。
タイミングも、角度も、ミランダの風魔術による加速すら計算し尽くされていた。
巨躯の帆船に疾風の魔術を重ねて放つ一撃。
質量と速度が掛け算されたそれは、普通なら──いや、“生き物”であれば、耐えられるはずがなかった。
にもかかわらず。
「嘘、だ……」
ロイドの視線の先。
桟橋に立っていたはずのその“男”──
暴虐の魔王・ヴェインは、まだ立っていた。
全身から血を滴らせ、右の腕は肩から先ごと吹き飛び、腹部はめくれ上がった皮膚から内臓の赤が覗いている。
"破壊された"のだ。
あの決死の一撃が──悉く、情け容赦なく、片腕の犠牲のみで、数百トンの帆船を衝突の瞬間にひしゃげさせ、潰し、そしてバラバラに破壊した。
残骸は波間に散り、港の地にすら到達できずに、ただ“壁”に弾かれたかのように砕けていた。
そして──彼の姿は、もはや人形とは言い難かった。
白銀のだった髪は影のような黒に染まり、艶を含んだ絹糸のごとく腰まで伸びていた。
肌の色こそ以前と変わらぬ蒼白のままだが、その背に広がる異形の翼は否応なしに“存在の変貌”を示していた。
漆黒の翼。
まるで夜そのものが具現化したかのような質感。
悪夢から滲み出た“蝙蝠の羽”を思わせる双翼が、静かに、しかし圧倒的な威圧感を持って広がっている。
「────ッ……」
ロイドは言葉を失った。
地に伏しながらも、その“現実”を信じることができなかった。
──なぜ、生きている?
──なぜ、立っていられる?
破壊の奔流を直に浴び、身体の半分を失ったというのに、それでもなお彼は微動だにせず“そこ”に在った。
異質。
否、人智を越えていているとしか思えない。
──血を吸う月、昏き世界。
なおも続く閉鎖空間。
ヴェインが放った神威《独奏》は、港をまるごと異界に取り込み、周囲のすべてを彼の“糧”として喰らい続けていた。
石畳が、壁が、街灯が、草が、そして人が──粒子となって流れ、彼の周囲に浮遊し、やがて血肉へと還元されていく。
“還元”というには、あまりに異常で、神域じみた現象。
これが神威《独奏》の“結果”なのだ。世界を構成する要素を分解し、己の血肉として再構築するという狂気の摂理──それが“第四位階”の魔王たるヴェインの本質。
流れ出た血は、漏れなく吸収される。
呼吸ひとつする間に、欠けていたはずの肉が盛り上がり、筋繊維が編まれ、皮膚が張り直されていく。
致命傷を負った肉体は、わずか十数秒の間に完全な再構築を開始していた。
血は止まり、肉が脈打ち、身体機能が回復する。
それは自然治癒などではなく、“搾取による即時修復”という名の超常。
それを見上げるロイドは、声も出せなかった。
仰向けに崩れた身体。
肺は潰れ、魔力の回路は焦げ付き、脚は痙攣して立ち上がることすらできない。
だからこそ──なおさら、恐怖した。
「……なん、で……」
呟くことすらやっとの声で、彼は視界の端を動かす。
クロードが、ヴェインの正面に降り立つ。
風魔術による飛翔を解いた彼は、いつものような不敵な笑みも浮かべず、ただ無言で地に足をつける。
そしてミランダもまた、血に濡れ、肩を揺らしながらも──よろめくように、なおも立ち上がった。
血の滴りが、彼女の足元に赤い花を咲かせる。
その一滴一滴が、すべてヴェインの“糧”へと変換されていく。
ロイドの目から見ても、その様子はあまりに異様だった。
血の気が引いた。
クロードと違い、明らかに彼女は消耗しすぎている。
このままヴェインの近くにいるだけで、あと何分も持たないだろう。
──にもかかわらず。
「ふーっ……ダメみたい、アタシ。まともに戦うのはもう無理ね。船もバラバラにされたし……あはは、こりゃ詰みかなぁ」
「ふっ、そうか。フェイクラントくんには悪いことしてしまうな」
肋骨を一本一本剥がされるような痛みに耐えながら、それでも笑うミランダの隣でクロードも同じように口角を上げる。
それは強がりでも、意地でもない。
──はは、まさか、魔王サマに第三形態があったとはね。
そんな調子で、まるで友人の冗談を聞いたときのように談笑している。
おかしい。
頭がどうかしてる。
数百トンの質量を持つ船を真正面から受けて、片腕の損失で済ませた“怪物”を前に、なお笑っているなんて。
「テメェら……何笑ってやがる? 結構ヤバいぜ? この状況。それとも、トチ狂いやがったか?」
ヴェインが、漆黒の翼を広げながら呟いた。
その姿はまさに“夜そのもの”。
赤い瞳、闇のような長髪、そして背に広がる悪夢の双翼──
そのすべてが、死と絶望の象徴だった。
だが、そんな魔王の姿を見てさえ、二人は──
「……あぁ!」
忘れていたことを思い出したかのように、ミランダがぽんと手を叩く。
──紅い瞳、漆黒の翼、とこまでも闇を思わせるような長髪。
そういえば、あの日の夜も、こんな月が昇っていた気がする。
「アイツだったのね!」
「そうみたいだな……」
クロードとミランダが同時に気づき、呟いた。
思い出したのだ。
十二年前の“あの日”を。
あの夜、燃え落ちたレナトゥースの街。
赤い月が昇り、すべてが崩壊したその夜──
「……レナトゥースって街、潰したの。アンタだろ? 魔王サマ」
囁くようなその声に、空気が凍った。
「あァ?」
ヴェインは、しばし沈黙する。
月光を浴びたその顔は、喜びでも怒りでもなく──ただ、虚無だった。
いや、虚無ですらない。“思考”の輪郭が曖昧な、ある種の“空白”。
まるで、問いの意味すら分からないとでも言いたげに、目を細める。
「……レナトゥース?」
その名を繰り返し、顎に指を当てて考える素振りをする。
やがて──
「……あー、そんな名前の街もあったかもなァ。……まワリィが、正直覚えてねぇなァ」
気だるげに笑うその声音は、残虐でもなければ、尊大ですらない。
──ただ、“無関心”。
殺したことすら記憶にない、という真実。
それは、復讐者にとってこれ以上ない侮辱だった。
「で? なるほどなァ……お前ら、あの街の出身ってワケかァ?」
口角が、にやりと吊り上がる。
「そりゃ良いじゃねぇかオイ! 復讐の相手が目の前に居るなんてよォ! こりゃ奇跡だな? 運命だなァ! 宿命だァ!!」
狂気の熱が、声に乗って膨れ上がる。
「戦え、戦え、戦えやァッ!!!」
怒声と同時に、世界が軋んだ。
咆哮とともに、大気を裂いて血色の杭が無数に射出される。
空間そのものから抽出された“赤”が具現化し、破滅の矢となって殺到する。
それはまさに、ヴェインという存在の狂信的歓喜──復讐の炎が怒りに燃え上がることを、何よりも快楽として歓迎する異常。
「バカみてぇに怒り狂ってよォッ!! 俺をッ! 絶頂させろやッ!! 止まってんじゃねぇッ!! 殺す気で来いやァァァァ──ッ!!!」
空間を裂く。
血の杭が、一斉に放たれる。
瓦礫を穿ち、石畳を砕き、音速で迫る破滅の奔流──
だが、クロードも、ミランダも、ただ立ち尽くしていた。
月光の下に身を置いたまま、杭を迎え撃つでもなく、避けるでもなく。
それでも──その瞳は、決して死んでいなかった。
不敵。
そんな安易な言葉では足りない。
“決まり切った結末”すら嘲笑うような、居直りの眼差し。
世界の終わりを見下すような、逆転の布石を信じる目。
──バカにしてんのか?
思わずヴェインが目を細める。
殺気を放った。殺意で圧した。死をぶつけた。
なのに──なぜ、避けようとすらしない?
放たれた杭が彼らの皮膚を貫き、新たな傷跡が刻まれたというのにも関わらず。
「……死にたいのかよ、オマエら。そういう居直った態度は関心しねェな……さっきまでの威勢はどこ行きやがったんだァ?」
静かに問いかけたその声には、もはや冷笑も驕りもない。
そこにはただ、理解できない異質を前にした純粋な“困惑”すら滲んでいた。
そして、その問いに──
「じゃあ泣き叫べば見逃してくれるのか?」
クロードが自嘲気味に呟く。
「なワケねェだろ。……だが、そういうのとは別に、普通は泣き叫ぶくらいはするだろうが?」
嘲るような声でヴェインが言い放った直後──右手を掲げる。
そこに生まれたのは、巨大な“塊”だった。
血と魔力と呪詛が混ざり合い、どろどろに煮え滾った粘液のような魔核の集合体。
それはこの場に存在するすべての“命”から掠め取った精気の残滓。
港に存在した全て──石、船、草、空気、命すら。
その一部が、凝縮された狂気として形を成していた。
圧倒的に純度の高い死の塊。
「……あ……ッ……! あぁあああッ……!」
ロイドが、悲鳴混じりに声を張った。
この場で唯一、人らしい反応をしたのは、彼だけだったかもしれない。
「終わりだぜ、ガキども」
「あー……」
しかしクロードは、その賜物を一瞥し──
「はぁ……」
深く、重たいため息をついた。
それは諦めでも、怯えでもない。
ただ──“既視感”のあるものを見た人間特有の、辟易とした反応だった。
「さァ! 見せてみろ! お前らの最後の──」
「最悪だな」
「……あ?」
唐突に遮られたヴェインは、唇の端を引き攣らせた。
途切れた語りのリズム。そこに滲む苛立ち。
だが、それ以上に、彼の耳に届いた“違和感”は──その言葉に潜む確信だった。
「クロード?」
隣のミランダが振り返る。
何かに気づいたように。
二人の目が交差した。
その空間にだけ、別の“意味”が流れていた。
「思った通り、最悪なタイミングでのデジャヴだな……」
「あぁ、なんだ。コレも見たことあるのね……」
ミランダが肩を竦め、息を吐く。
──じゃあ、死なないじゃん。
ぽつりと漏らしたその一言。
まるで、それが確定事項であるかのような。
死を前にした人間の口から発されるには、あまりにも楽観的な、あまりにも異常な呟き。
「というワケだから、早くしてくれよ魔王サマ。どうせその玉で、俺らを丸呑みにするんだろう?」
「な、んだと?」
一瞬だけ、ヴェインは躊躇した。
今まで幾度となく、こうして敵を食い散らかして来た。
そいつらの多くは狂い、強靭な精神を有する一部の実力者は許しを乞う。
その姿は、彼の楽しみでもあった。
だから、二人のこんな態度は初めてなのだ。
だから躊躇う。
一度も出会ったことのない反応に。
いや、同じなのか?
これもまた、壊れてしまった一つの形なのか?
確かに今までにも、この状況でケタケタと甲高い笑いを止められなくなった者もいる。
それと同じなのか?
だが、それは一つの爆発した感情だ。
目の前の二人は落ち着き払い、いかなる感情にも支配されていない。
何かあるのか? あるとしたら一体何が?
ヴェインは、クロードが何かを隠している可能性を一瞬だけ探し、そしてすぐに結論を下す。
なんでもいい、まだ楽しませてくれるなら見せてみろ。
「じゃあ望み通り行くぜェ!! 根性見せてみろやァッ!!」
その瞬間。
血塊が爆ぜた。
空間が赤黒く染まり、時間すら歪んだような圧が押し寄せる。
押し潰されるような重力感。
血の奔流が、触れたものすべてを呑み込むように落下してくる。
港の空が、地獄そのものに変貌した。
ミランダが目を閉じる。
クロードは一歩も動かない。
その中心で──ロイドだけが、ただ泣き叫んでいた。
「あぁぁああッ……嫌だァァァッ!! 船長ぉおおお!! 副船長ぉおおお!!」
咽び泣くような絶叫。
生きたいと、ただそれだけを願う叫び。
若き少年の魂が、砕けるように震えていた。
──なのに。
ただ、迎え入れるように──二人はその場に立ち尽くすのみだ。
赤が、すべてを覆った。
瓦礫も、空も、港も、光も。
そして──彼らの姿も、飲み込んでいく。
直前、クロードの口元が何かを言ったように見えたが、それは音にはならなかった。
ヴェインが恐れていたようなことは、何も起こらない。
ただ、深紅の濁流が、あっけなく"全て"を呑み込んだ。
──闇の港に立ち尽くすのは、ただ一人。