第百八十九話 「ミランダとクロード③」【三人称視点】
普通、素手の喧嘩には限度がある。
生身の手足でやり合う以上、それが機能しなくなれば続けられなくなるのが当然だ。
拳が砕ければ握れず、視界が潰れれば狙えず、脚が折れれば踏ん張れない──
でも、彼らの“喧嘩”は、とうにその範疇を超えていた。
これは潰し合いだ。
破壊と否定の応酬。
十歳そこそこの子供たちがやるには、あまりにも異常で、理解不能で、滑稽なほど本気の殺し合い。
ミランダの火球を、クロードが風刃で切り裂く。
魔力が切れれば、波打ち際に転がっていた流木を振るい、互いを殴り合った。
それすら折れれば、殴る。蹴る。噛みつく。砂を投げる。
──理性の欠片など、もうどこにも残っていなかった。
力量では父の指導を受けていた分、ミランダが優勢だった。
しかし、その全ての行動を読むかのようにクロードが躱す、利用する、力の差をことごとく埋め尽くした。
故に、互角。
視界の全てが真っ赤に染まり、朝焼けの浜辺が血に染まる。
両の拳はとうに砕け、骨が皮膚を突き破っても殴り殴られ、倒し倒され……破れた鼓膜は音を拾わず、ざあざあとノイズが流れて思考もまともに回らない。
脱臼した肩、割れた顎、アバラは綺麗に粉々で、いくつかの内臓に刺さっている。
血を噴いて血を吐いて、何が楽しいのか爆笑しているクロードの顔が脳裏に焼き付き、離れない。
体は止まらない。
引き裂かれたドレスの袖、砕けた拳、ひしゃげた頬。
それでもミランダは、殴り続けた。
彼が許せなかった。
彼が、自分の大切なものすら“退屈だった”という感情で踏みにじったことが。
どうしてこんなことになったのだろう。
どうして、クロードがこんなことをするのか、意味がわからなかった。
「だからさ、言ってもわかんないって。ただ……このままのうのうと生きているだけじゃ……」
続くセリフは、なんて言ってたのか今もなおミランダは思い出せない。
ただ、あの勝負は互いの身体が機能しなくなるまで続行したと記憶している。
どっちが先に降参したとか、どっちが先に気絶したとか、そういう綺麗なものじゃなく。
単に意志の力でどうにかできるレベルの負傷を超えていたせいで、文字通り糸が切れた人形よろしく動けなくなっただけ。
二人は本当にボロボロの、ズタズタの雑巾みたいに変わり果て、このまま放置されたら間違いなく両方死ぬほどには、最悪の結末だった。
それなのに──
「……楽しいな」
「……ふざけ、ないで……こんなの楽しくも面白くもあるか。……バカ……バカクロード……殺して、やる……」
ミランダの唇から漏れた呪詛のような言葉は、半ば唸り声に近かった。
けれど、その瞳の奥にあったのは──怒りだけではなかった。
かつて、ここみたいな浜辺のすぐ近くで。
屋敷の裏手の帆船の上で、夕日を背に交わした笑い声。
無遠慮なほど自由なクロードと、ようやく殻の外に出始めた自分。
いろんな話をした。くだらないことも、大事なことも、未来の夢も──
──そんな日々が、確かにあったのに。
今、こうして二人は血まみれになって殴り合っている。
どこで歯車が狂ったのか。
どこから世界が変わったのか。
それとも最初から、こうなる運命だったのか。
「はは……いや、この喧嘩は楽しかったよ。新鮮味に溢れてた。……まさかお嬢が、こんな野蛮な感じだったとはなぁ……知らなかったよ……海賊とか、向いてるんじゃないか?」
頬の裂傷から血を流しながら、それでもクロードは笑った。
地獄にでもいるような状況で、ふざけたように。
「誰が……」
「いや、半分は本気だ。……生き残ったら、一緒に海賊やるとかも、面白そうだ」
熱が引いていく。
違う、それは体温が落ちているのだ。
出血のせいで、意識も朦朧としてきた。
クロードの声が遠くなる。
波の音と混じって、夢か現実か分からない。
「実際、ハコの中で綺麗に纏まってたお前より、今の方がずっと魅力的だよ」
「…………黙れ」
力なく、ミランダは吐き捨てた。
言葉の意味を、全部受け取ってしまったから。
だからこそ、心のどこかが揺れたのが、悔しくて仕方なかった。
どちらが先に気絶したのかは、覚えていない。
ただ、どちらの身体もとうに限界を超えていて──それ以上、何もできなかっただけだった。
荒く息を吐きながら、互いの姿を目で追う。
ぼろ布のように地に伏した相手の姿が、なぜか、哀しかった。
「気が向いたら、一緒にやろうぜ。いつでも言えよ」
──だれがするか。
もしそんな未来があるなら、後悔するほど振り回してやる。
そう誓いながら、ミランダの意識はゆっくりと沈んでいった。
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それから、二人はとある老人──サイラスに助けられることになる。
そこからが、全ての始まりだった。
サイラスは負傷の面倒を見ながらも、ここまで暴力の限りを尽くしあった二人を気に入った。
命を拾った代わりにと、自分の元で修行をさせ、とある使命を与えた。
理由はわからない。
なぜこの老人が、助けてくれたのか。
なぜこの老人が、二人に使命を与えたのか。
けれどミランダにとっては、それで十分だった。
この手に力を。
この心に誓いを。
あの日、父を奪い、街を燃やした“魔族”への復讐を果たすために。
そのためなら、訓練も、航海も、掠奪も、命を賭けることすら厭わなかった。
そして、クロードもまた──
「ま、退屈はしなさそうだな。ジジイの訓練、案外スリリングだし?」
「敬語を使えバカもん」
不敵に、笑っていた。
つまらなそうにするかと思っていた。
無関心を装って去るかと思っていた。
なのに、なぜか彼は、その世界に足を踏み入れた。
時折、何かを探すように空を見ていた。
それでも、毎日訓練に付き合い、航海に参加し、仲間を助け、時には先陣を切った。
やがて二人は、数年の時を経て、若き海賊団の旗を掲げる。
海賊団と言っても、悪行の限りを尽くすわけでもない。
海賊のように船で海を放浪する冒険者だったからこそ、その二つ名が与えられただけだ。
名は知られ、仲間も増えたSランクパーティとなり、賞金首や魔族の尖兵と幾度も交戦を繰り返す。
名コンビ、とは違う。
信頼関係、でもない。
どこまでも噛み合わず、いがみ合い、反発しながら、それでも絶対に背を預け合った。
──どうして惹かれあったのかなんて、分からない。
ただ、それが“面白かった”から。
そうクロードは笑い、だからミランダは前に進んだ。
崩れた街と、血に染まった過去。
そのすべてを乗り越えるために、あるいは──ただ、抗うために。
海を行く彼らの背に、振り返る過去はない。
「案外、こうなる未来が運命だったのかもね。これも、退屈?」
夕暮れ時、静かな甲板の上。
潮風が赤く染まった水平線を撫でるように吹き抜けていく。
あの頃のように泣き喚くこともない。
父を失い、すべてを焼かれ、地に伏してなお立ち上がった少女は、いまや百戦錬磨の副船長となっていた。
ドレスではなく、海風に馴染む革の上着とズボン。
整えられた装いに、腰にはしっかりと帯びたカットラス。
その姿に、十歳の頃の“お嬢様”の面影はもうほとんど残っていなかった。
「……まぁ、屋敷にいたよりかはマシかな。自由ではあるし、これならやりたいこともできるしな」
そう答えたクロードは、片手で風に乱れた前髪を払いながら、空を見上げた。
その横顔には、やはりあの頃と同じ「どこか冷めたような笑み」が浮かんでいたが──
けれどその目は、今、確かに“今”を見ていた。
たとえそれが既視感に塗れていても、自分の意思で道を選び、進んでいた。
退屈だと笑っても。
破滅を望んでいるようでいても。
それでも、決して何もかもを投げ出してはいなかった。
あの日の殴り合いを、今も二人は一言も語らない。
けれどそれは確かに、二人の“原点”だった。
「いつか……アンタが本気で楽しめる世界を見せてあげる」
熱を帯びたその声は、風に乗ってゆっくりと空に溶けた。