第百八十八話 「ミランダとクロード②」【三人称視点】
──生まれてから一度たりとも、満足できたことがなかった。
世界は、いつも色褪せていた。
誰かが「楽しい」と笑うことに、誰かが「嬉しい」と涙を流すことに、まるで共感できなかった。
何かを食べても、新鮮味がない。
見知らぬ食材、初めての調味料ですら、舌に乗せる前から「どんな味がするか」が分かってしまう。
いや、正確には食べてから「あぁ、この味か」という感覚。
敵意を持つ魔物に出会っても、驚きはなかった。
何をしてくるか、どこを狙えば倒せるも、身体が、指先が、脳よりも先に理解している。
初めて握った剣も、初めて詠唱した魔術も、一発で完璧に使えた。
それは天才でも偶然でもない。
ただ、「そういうふうにできている」というだけ。
──おそらく、自分はどこか“壊れている”。
いや、最初から“正しく生まれてすらいない”のかもしれない。
だから、今この状況──
港町が燃え、街が崩れ、船が沈んで、全てを失ったという状況ですら──
クロードにとっては「まあまあマシなイベント」だった。
ほんの少しだけ、心が動いた気がした。
胸の奥に、かすかに熱が走ったような気がした。
けれど、決定的というわけでもない。
終わってみれば「大したことなかったな」という感情のみが残るだけだった。
「…………ぅ……」
砂浜に倒れていた少女が、小さく呻き声を漏らす。
朝焼けが、海と空を同じ色に染めていた。
波が引いては返す音が、ただ静かに響いている。
その中で、少女──ミランダが、ゆっくりと目を覚ました。
髪は濡れて砂にまみれ、ドレスの裾も引き裂かれ、所々に擦り傷とあざが見える。
それでも奇跡的に致命傷はなく、命だけは繋ぎ止められていた。
「ここは…………?」
掠れた声で、ミランダが呟く。
上体を起こそうとした瞬間、全身の痛みと脱力感に膝から崩れ落ちる。
その横で、クロードは濡れたシャツを絞りながら、朝の海を見ていた。
「よぉ」
ひどくあっさりとした声だった。
感情がないというより、“感情を出すことが意味をなさない”と信じている声。
「……クロード……?」
ミランダは、まだ夢の中にいるかのような顔で、彼の姿を見つめた。
その目に、ぽろぽろと涙が浮かんでくる。
「よかった……クロードも、無事だったのね……っ」
「ま、奇跡だな。浜辺に流れ着くなんてよ」
乾いた声。
少しも冗談に聞こえない。少しも安堵していない。
──フィクションじゃありがちだな。
なんかの冒険小説にでも出て来たな、程度の感想。
「ほかのみんなは……?」
「分からない。俺たち以外、今んとこ見つかってないな」
「……そ、んな……っ」
ミランダの喉から、濁った音が漏れる。
崩れ落ちるように砂に手をつき、肩を震わせた。
「私……っ……お父様が……!」
その言葉に、クロードの瞳が一瞬だけ揺れた。
けれど──すぐに、無機質な静けさが戻る。
「戻れないぞ」
「なに……?」
「見ただろ。あれが、魔族の力だ。……剣聖と言われたお前の親父が、足止め程度にしかならなかった。お前が戻ったところで、何ができる」
「……何がって……!」
顔を上げたミランダの目は、涙と怒りで赤く染まっていた。
「お父様が──あの人たちが! あんな、理不尽に……殺されて……!」
「そうだな」
「なのに……なんでそんな冷たいことが言えるのよッ!? 生き残っている人だっているかもしれない! 今すぐ戻れば、まだ……まだッ……!」
ミランダの声が、朝の波音を裂いた。
怒気と悲痛が絡みついた声だった。泣きながら怒り、怒りながら泣く──十歳の少女には到底抱えきれない感情の奔流が、その細い喉からあふれ出していた。
けれど、クロードはわずかに目を伏せただけだった。
まるで、感情というものの存在自体が、自分には縁遠い異物であるかのように。
「そうだな……」
静かに口を開いた彼の声は、ひどく落ち着いていた。
異様──狂気にも似た冷静さは、悲劇の真っただ中にいるはずの少年のものではない。
「まぁ、筋書き通りやるなら、それが一番“誰も”が選ぶ道だろうな」
その語り口は、まるで読者のひとりごとのようだった。
「お前の親父よりも強くなって、街を滅ぼした魔族に復讐して──そんでもって、俺とお前が協力して? 恋とか芽生えてさ。倒した暁には、二人で街を再興させる……なーんて。悪くはないけど、誰でも思いつく王道ルートってやつだ。よくある話だよな」
「──え?」
呆気にとられたようにミランダが目を見開く。
クロードの言葉は、彼女が想像もしていなかった方向へと舵を切っていた。
彼は続けた。
「選択肢があるように見せかけて、実は人生、一本道なのかもしれないな」
そう言って、彼は海に目を向けた。
朝焼けに照らされたその横顔は、感情の起伏を微塵も感じさせなかった。
「な、なにを言ってるの……?」
ミランダの声は震えていた。
怒りの後の、もっと深い感情──不安と、恐怖と、戸惑い。
自分の知っていたクロードが、どこかへ行ってしまったような感覚。
船が沈んだ衝撃で……頭でも打った……?
と思ってしまうくらい今のクロードは異常だったし、そう思わざるを得なかった。
だが──
「正常だよ。頭も無事だ」
心を読んだかのように、クロードは即答した。
その返答にゾクリとする。彼の声音には本当に“異常”がなかった。
まるで壊れているのが、ミランダ自身であるかのように思わせるほどに。
「少なくとも、このセルベリア大陸じゃあ最大公約数が強いだろう? 出る杭は打たれる。天才は孤独、魔物は排除。神を崇め、奇跡を信じろ。……なんでもいいが、まぁそれは現実的な解釈で理屈つけた場合の話で……」
クロードの口調は淡々としていたが、その瞳はどこか遠く、まるでこの世界そのものに興味を失っているようだった。
ミランダは言葉を失った。
目の前の少年が語っているのは、現実ではなく“観察記録”のようだったからだ。
自分も含めてこの世界のすべてが“誰かの脚本”にすぎないとでも言いたげに。
「俺はさ……なんていうか、デジャヴを感じてるんだよ」
クロードは砂を指ですくって、風に乗せた。
粒がさらさらと舞って、また地面に還る。
「この状況、前にもあった気がするんだ。屋敷が燃えて、街が壊れて、お前と俺が生き残って……。……楽しくないんだよ。新鮮味がない。まるで“やり直してるだけ”みたいでさ」
「やり直してる……?」
「そもそも、俺は物心ついた頃から孤児で、記憶なんてほとんど無くて、普通に考えたら色んなもんから弾かれるような身分だ。本来なら、気楽に辺境伯の屋敷で平和にお嬢様とイチャイチャやってられるような身分じゃない」
彼は、笑った。
まるで告白というほどの重みすら与えずに、当たり前のように。
「そして、だからこそ俺は今までそれをやってきた。新鮮味を味わうために、そそるわけでもねぇお前と距離を詰めて、話し相手になって……俺にとって身分に相応しくない、新しいことをし続けたはずなのに、なのにデジャヴは止まらない」
歯噛みするミランダ。
心の内側がひどくざらつく。
誰よりも冷静で、論理的で、心の支えだった彼は──今はそこにはいなかった。
理性の皮をかぶった“狂気”が、静かに蠢いていた。
「泣けてくるよ。挫折したさ。だから根性なくて悪いとも思うけど、俺は抜けさせてもらう。もうお前とは付き合わない。人生は短い。エンディングが来る前に、選択肢の総当たりをやらせてくれ」
「え……」
耳を疑う。
脳が拒絶する。
その言葉が意味するところを、心が理解することを拒んでいた。
「べつにお前の親父──依頼主が死んだからってわけじゃあない。これは俺が元々したいこと。この一本道の世界で、きっとどこかに“隠しルート”があるはずだ。俺は、それを見つけたいんだ」
未経験の道。
未知の結果。
だからこそ、クロードにとってそれは“価値がある”ことだった。
「だったらここで“寄り添う宛のない雇い主の一人娘を見捨てる”ってのも、なかなか面白い選択肢だろ?」
それは、見飽きたくらいのいつもの笑み。
軽い調子で気負いのない、彼らしい不敵な表情。
だから、もはや何を言っても無駄だった。
何を言っているのかもわからなかった。
けれど──その“軽さ”が、あまりにも重く、冷たかった。
瓦礫の中で、命を拾ったはずの二人。
誰もいないこの浜辺で、唯一の味方だったはずの彼が──今、目の前で世界を突き放そうとしている。
当然、そのクロードの表情、発言、全てにおいて幼いミランダが耐えられるものではなかった。
心が、凍る。
肺に入った空気が、氷のように冷たく、喉を切り裂いていく。
「……っ、あ……ぁ……ッ」
声が、うまく出ない。
震える指先が、砂を握る。
膝が震えて、立ち上がることもできない。
けれど──それでも、ミランダの中で何かが“爆ぜた”。
感情が、暴発した。
「あ、あぁぁぁぁあああッッ!!!」
獣のような叫びだった。
怒り、哀しみ、困惑、恐怖、絶望──そのすべてを内包した、感情の咆哮。
気がつけば、ミランダの身体はクロードへと突進していた。
足場なんて関係ない。
言葉なんていらない。
ただ、その“無感情な顔”を、ぶん殴りたかった。
「ふっ──」
しかし、クロードの動きは、容赦がなかった。
ひらりと身を引く。
海風を纏うように後退し、ミランダの拳は空を裂いた。
間髪入れず、カウンター。
無表情のまま、クロードの拳が閃く。
「ッ──!?」
直感で、ミランダの身体が反応した。
首を傾け、背をひねり、ギリギリの距離で紙一重の回避。
拳は彼女の頬をかすめ、風圧が髪を持ち上げる。
正気とは思えない。
漂流した子ども同士が、殺し合いじみた間合いで“殴り合う”──そんな場面が、世界のどこにある?
けれど、これが現実だった。
二人の間に、理性はなかった。
あるのは、狂気と本能の衝突だけ。
「お嬢……いや、ミランダ。もし死んだら化けて出てみてくれよ。俺、ゾンビは見たことあるけど、ゴーストはまだなんだ」
酷薄な冗談が、空気を切り裂いた。
その声は、どこまでも軽かった。
まるで心のなかにひと欠片の罪悪感もなく、ただ“見たことがないものを見たい”という、それだけの興味で口にされた言葉。
「ッ……! うるさいうるさいうるさいッ!!」
ミランダの悲鳴のような叫びが、波音をかき消した。
頭が沸騰しそうだった。
怒りで。悲しみで。理解不能な現実への拒絶で。