第百八十七話 「ミランダとクロード①」【三人称視点】
十二年前──
西方、セルベリア大陸北部。
今はもう地図にも記されぬ、海沿いの街 《レナトゥース》。
その街は、他国との貿易の中継地として機能していた。
辺境とはいえ、海洋交易においては無視できぬ立地だったため、かつては小さな商船団や旅の商人でそこそこ賑わいを見せていたという。
だが、賑やかすぎることはなかった。
冒険者ギルドも騎士団もない。
街の外に魔物がほとんど現れなかったこともあり、兵の駐屯も最低限に留まっていた。
ゆえに喧騒もなく、街は静かで、穏やかで、どこか夢のような雰囲気すら漂っていた。
海岸沿いには一際目立つ屋敷が一つ。
海と空の境界に突き出るように構えたそれは、風に抗うことなく、しかし毅然と佇んでいた。
屋敷を囲むのは深紅の薔薇が咲き誇る広大な庭園。
その一角、やや離れた訓練場には、幾本もの訓練用丸太が整然と立ち並んでいた。
金属と丸太が擦れる、鋭く乾いた音が響く。
「ミランダ、何度言えば分かる! 剣の持ち方は、柄の中心を意識して構えろ! 腕力で振るな、腰を使え!」
「だって……この方がやりやすいんだもん……」
「詠唱もいい加減すぎる! 魔力の流れが乱れすぎている! フォルセリア家の名を継ぐ者が、そんな不格好でどうする!」
「…………はい」
返す声は、濡れたように低い。
彼女──ミランダ・ファルセリアは、レナトゥース辺境を統治するファルセリア辺境伯の嫡娘にして、齢わずか十。
だが、その表情には年相応の無邪気さはなかった。
どこか閉ざされた硝子細工のように、ひたすらに整えられた貴族令嬢の面が、そこにあった。
彼女の父、フォルセリア伯爵はかつて剣聖と謳われた戦人。
引退後は爵位を得て、政務の傍ら自らの娘に武と知の全てを叩き込んでいた。
勉学、武術、礼法、詠唱術。
一日に決められた時間割が存在し、気の抜ける隙間は一切ない。
友人付き合いにも品格と配慮を求められ、決められた交友の枠から外れることは許されなかった。
──でも、本当は。
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「いいなぁ……」
庭の外、街道沿いに広がる市井の風景。
少女たちが並んで歩きながら、紙袋を抱えて笑い合っている。
片方が落とした菓子にもう片方が悲鳴を上げて、それにまた笑いが生まれる──そんな、くだらないけど愛おしい光景。
「私も……あんなふうに、なりたいなぁ……」
可愛いものが好きだった。
ピンクのリボンも、街の店先で売られていた練り香水も、刺繍入りのハンカチも。
友達とお揃いにして、お菓子を食べて、どうでもいい噂話で笑い転げて。
明日も遊ぼうねって、夕方になったら手を振って別れる──
そんな何気ない幸せが、彼女にとっては遠かった。
「……はぁッ!!」
乾いた声と共に、訓練用の丸太が真っ二つに割れた。
その切断面は滑らかで、抵抗を一切感じさせぬ完璧な剣筋だった。
風魔術の加速を巧みに用いた一撃で、瞬きする間もなく斬られていたのだ。
十歳にしてその領域。
貴族子女としては、いや、王都の騎士学校を含めたとしても彼女に並ぶ才能はまずいないだろう。
だが──
「ふぅ……」
それは、彼女自身にとってまるで意味をなさなかった。
剣術も、魔術も。
欲しくて手に入れたわけではない。
ただ与えられ、叩き込まれ、否応なく染み込まされただけ。
──けれど、それでも。
そんな彼女にも、唯一の“ご褒美”はあった。
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訓練が終わり、夕日が差し始める頃にやって来る──
「やっほ〜! クロードっ!!」
風に紛れて、軽やかな声が庭を横切る。
走る、跳ねるように。
貴族令嬢とは程遠い、無遠慮で元気いっぱいな走り方で、屋敷の裏手へと駆けていく。
そこにあるのは──
ファルセリア家が所有する大型の帆船。
かつて貿易船として用いられた格式ある船だったが、今は役目を終え、静かに港に停泊している。
その甲板の端。
夕焼けを背に、黄昏ながら佇む少年の姿があった。
「…………お嬢」
肩まで伸びた栗色の髪が風に靡く。
海風に潮と油の香りを混ぜ込んだような空気の中、その少年──クロードは、半ば呆れたようにミランダを見やった。
彼は名もなき海辺の村から流れ着いた、出自不明の孤児だという。
誰に連れられてきたのかも分からず、ただ、ある日唐突にレナトゥースの港に現れ、打ち捨てられたように波止場に座っていた。
その眼は、異様だった。
十歳そこそこの年齢にして、まるで老成しきった獣のような目をしていた。
何かを悟りきったような、諦めでも覚悟でもない、ただ“見透かしている”だけの、底知れぬ虚無。
当時すでに貿易航路の縮小に頭を悩ませていたフォルセリア伯爵は、偶然その少年が古い帆船の構造を熟知しており、魔導機関の調律まで一人でこなしてみせたことに驚き、半ば興味本位で彼を屋敷付きの“船整備士”として雇い入れたのだった。
「また走ってきたのか。裾、汚れてるぞ」
「いいのっ。どうせ後で洗濯するもん。それよりお話ししよ? 今日はどこ行ってきたの? 魔物は出た? 強かった? ねえねえ!」
矢継ぎ早に問いかけるミランダに、クロードは視線だけを向けた。
相変わらず感情の読めない瞳だ。
海よりも深く、空よりも澄んだその瞳は、どこか全てを俯瞰するような静けさを湛えていた。
彼の仕事は 主に雑務、整備、補給、航路の計画、そして稀に行われる貿易任務への同行──
どんな仕事にも淡々と応じ、決して表情を変えない彼の姿は、屋敷の使用人たちの間でも不思議な噂の対象となっていた。
「……西の離島。交易品の受け取りだ。魔物は……まあ、ちょっとだけ」
「えっ!? ちょっとだけってなに!? ちゃんと戦ったの? どんなやつ!?」
「でかいタコみたいな海魔。うにょうにょしてて、生臭かったぞ」
「へぇえ! どんなのだろ。私でも勝てるかなぁ、そのタコ!」
クロードはほんの少しだけ、頬を引きつらせたように見えた。
それは──微笑、というには些細すぎる変化だったが。
「あー、たぶん余裕なんじゃないか。お嬢、ウチの船の連中よりは強いだろうし」
「ふふーん、でしょ? 私ってば、けっこー強いんだから!」
誇らしげに鼻を鳴らすミランダの後ろで、夕日がゆっくりと沈みかけている。
空は黄金に燃え、海面は鏡のようにそれを映し出していた。
「クロードは冒険者にならないのっ!?」
「ん? ああ……そうだな。それも面白い……かもしれないな」
「なんでそんな無表情なの〜!? もっと楽しそうに言ってよ!」
むくれるミランダの頭を、クロードはぽん、と軽く叩いた。
「お嬢となら、冒険してみても面白いかもな……アホなこといっぱいしそうだし」
「むー! アホってなにさ! 私はお嬢様なのよ!」
「はいはい。明日は訓練何本?」
「えっと、朝が二本、昼が三本、あと夜に座学……はぁ……この話やめよ……」
「はは、隙見て家出すりゃいいじゃねぇか」
「いい考え! ……っても、お父様には絶対見つかるわよ……なんか気配探せるみたいだし」
二人の笑い声が、静かな港に溶けていく。
束の間の、柔らかな時間。
ミランダにとって、唯一自由に笑えるこの場所だけが、世界で一番好きな景色だった。
「わ、やばっ! もう夕食の時間だっ! お母様に怒られる!」
慌ててスカートを翻し、ミランダは港の石畳を駆け出す。
夕日に染まるその背中を、クロードは黙って見送った。
縛られた人生。
だけど、どこかで確かに“楽しい”と感じられた──そんな日々。
──けれど。
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一年が経った時、そんな小さな幸せに溢れた日々は、突然終わった。
空が燃えていた。
街の遠くから黒煙が上がり、赤黒い業火が夜空を貪っていた。
地が揺れた。
地響きのような唸りとともに、建物が崩れ、人の叫びが上がった。
何が起きているのか。
誰が襲ったのか。
わからない。誰も答えを持たなかった。
「ミランダ! 逃げろ──ッ、早く……!」
屋敷の中を駆け抜ける父の姿。
常に厳格で、どこまでも理不尽なほどに完璧を求めてきた父の顔が、今──歪んでいた。
恐怖、焦燥、そして──哀しみ。
「お父、様……?」
崩れ落ちた瓦礫の間から、突き出た見知った侍女の手。
焼け焦げた庭園、切り裂かれた壁。
ミランダの世界が、音を立てて壊れていく。
「私が魔族を惹きつける。現役ではないが、いくらか持つだろう……。クロード! ミランダを、頼んだ……!」
「……了解しました」
無感情な声で、クロードはうなずいた。
すでに彼の服は煤けており、肩口に裂傷がある。
それでも、どこか冷静で、諦観に満ちていた。
「お父様、いや、イヤっ! 一緒に行こうよ!!」
「ミランダ、今更わがままを言ってもどうにもならんということは分かるだろう!? いいか、お前は生きろ。クロードと共に、どこか遠くへ……」
父の掌が、初めて“優しく”ミランダの頭に触れた。
厳しかった父が──今だけは、父親の顔だった。
──嫌だ。
こんなの、嫌だ。
でも、世界は選ばせてはくれない。
クロードの腕に抱きかかえられ、船の甲板へと連れていかれる。
ミランダの視界に映るのは、炎の中で微笑む父の姿。
その後ろから、禍々しい気配を纏った巨躯が現れた瞬間。
世界が、色を失った。
音が消える。
時間が止まる。
ミランダは叫んだ。喉が裂けるほどに、泣き叫んだ。
「お父様ァッ!! やだッ! いかないでッ!! お願い……!」
その声は、風に呑まれた。
船が離岸する。
魔力の風が帆を叩き、港を離れていく。
燃え盛るレナトゥースの町並みが、海の彼方へと小さくなっていく。
海風が、父の背をさらっていく。
魔炎に包まれた邸宅が、まるで冥府へと続く門のように、静かに──けれど確実に──父の姿を呑み込んでいく。
「ミランダ様、しっかり──!」
「前を見てください! 今は、今だけは生き延びることが……!」
船員たちが駆け寄り、海に身を乗り出そうとする少女の細腕を、必死に押しとどめた。
「はなしてっ、私……ッ! いかなきゃ……!」
小さな身体が暴れ、悲痛な叫びが胸を打つ。
だがその懇願は、誰にも届かない。
父はもう、彼岸にいる。手を伸ばしても、届かない。
ごつごつとした船員たちの腕に包まれ、ミランダはようやく崩れるように力を抜いた。
肩を震わせながら、深く、深く、呼吸する。
涙に濡れた頬が風に冷やされ、ようやく少しだけ──現実に戻ってきた。
「……大丈夫です。もう、安心ですから」
誰かの優しい声が、遠くで揺れていた。
燃える故郷は離れ、海の夜へと漕ぎ出す帆船の上。
それは確かに“脱出”だった。だが──
ただ一人、甲板の端に立つクロードだけは、決して気を緩めていなかった。
片手を帆にかけ、風の向きを読んでいたその瞳が、ふと、夜空を見上げた。
そこに──それはいた。
月を背に、漆黒の影が滞空している。
膜状の翼を大きく広げ、宙を滑るように旋回していた。夜の帳と同化するような黒、蝙蝠じみたその姿。
真紅の瞳が、煌めいた。
「……逃がさねェぜ」
瞬間──空が裂けた。
光ではない。音でもない。
それは──“存在の侵蝕”だった。
魔族が放った一撃は、視覚を歪ませるほどの“力”そのものであり、漆黒の波となって空間を破砕した。
そして、帆船の右舷へと直撃する。
轟音。
船体は、呻くような音を上げながら傾き始める。
波が砕け、木材が裂け、帆柱が音もなく折れた。
甲板の上にいた者たちは為す術なく、ただ衝撃に流され、瓦礫の影に身を投げるしかなかった。
誰も声を上げない。ただ崩壊の音だけが、沈黙の中に轟いていた。
やがて、海がすべてを呑み込んだ。
帆船は──深く、深く沈んでいく。
まるでそれが初めから“底に還るための船”であったかのように、音もなく、灯りもなく、夜の海へと沈降した。
そして、この夜。
セルベリア大陸北部、レナトゥースの街は地図からその名を消した。
夢のように穏やかだったその街は、一夜にして血と炎と咆哮に包まれ、ただ静かに滅びを迎えた。