第百八十六話 「クロード VS ヴェイン③」【三人称視点】
「『──見よ。光は欺き、真実を燃やす毒であった』」
漆黒の結界の中心で、ヴェインが静かに両腕を広げた。
まるで舞台の中心に立つ道化のように──いや、これは独奏者の姿だ。
月光に照らされた港の石畳が、ざらりと音を立てて沈み込む。
そこから血のように赤黒い影が漏れ出し、じわじわと世界を塗り潰していく。
「『憧れは手に届かず、愛は爪先で死んだ。ならば、我が望むは夜の世界』」
天を仰ぎ、赤く染まりかけた月に指を伸ばす。
その声は、哀しみか、怒りか、少なくとも祈りであることは間違いない。
「『愛を乞うた、我が母に。理解を乞うた、我が血に。だが与えられたは不純の烙印。ならば問おう。この穢れは、誰の罪だ』」
魔族だからこそ──
遥か昔、魔族は人族に迫害されたからこそ──
彼は、この渇望を手に入れた。
陽だまりの中で、石を投げられ続けて生きてきた。
自分の血が汚れているから不幸になる。
だったら他者から血を奪い、血を入れ替えることで新生すればいいという願いを持って。
空気が震える。
月が、ゆっくりと、ゆっくりと、紅に染まり始める。
ヴェインの白髪が、風もないのに逆巻いた。
その眼には、月の赤が映り込む。
「『この魂は、獣より生まれし血の澱み。されど、夜を纏いし神威。女神の祝福を否定する。我が祝福は、血の渇きに応えよう──喝采は要らぬ。理解も、愛も、誓いすらも──』」
この畜生に染まる血を絞り出し、我を新生させる耽美と暴虐と殺戮の化身──
石畳が、木造の屋根が、軒先の提灯が──次々に、枯れ落ちた。
無機物すらも死に至る瘴気が、音もなく拡がっていく。
白貌を喜悦に歪め、高らかに謳うヴェイン。
凶暴に、放埒に、この上もなく満足げに──
神威・第四位階が、ここに完成した。
「『──屍薔薇の夜想曲』」
「──────ッ!?」
その時、夜が生まれていた。
既にあった闇が支配するこの空間に、なお深く、さらに厚く。
全てを枯渇させる死の結界はその昏さを増し、一方で月は煌々と輝き出す。
明るさと暗さ、それらが共にいや増す空間。
──神威は想いの力。
その第四位階は、術者の根源とも言える渇望を常識に変える異界の創造。
マリィの姿が変わったように──
フェイクラントがレベル以上の力を出せたように──
すなわち、彼も──
「クロードォ! お前の名前は覚えといてやる。誇っていいぜ?」
あたりを覆い尽くしていく血の匂い。
胃の内容物を全て吐き出しかねない瘴気の中で、クロードは言った。
「いや、忘れてもらって結構。どうせお前、すぐに死ぬだろう?」
「はははははははははははははははは──」
爆発する大笑と共に無数の血の杭が射出される。
地面を粉砕しながら周囲の街灯までも破壊した。
身を捩りながら弾け笑うヴェインは、決してこの手の獲物が嫌いではない。
──あぁ、吠えろ粋がり跳ね返れ。
俺に吸い尽くされる瞬間まで、鮮度を維持し続けろ。
萎えたオチつけてくれるなよ? 頼むから。
「俺が死ぬだとォ!?」
「あぁ、アンタにも死相が見える」
「ならそりゃハズレだ、夜の俺は死なねえ。夜が俺を死なせてくれねェんだよォ!」
同時に、その"血"が爆発した。
それは発芽とでもいうべきか、人体を苗床に生えてくる奇形の杭。
まるで肉体そのものが種子であったかのように、ヴェインの血液が空間へと根を張り、断末魔のような軋みを伴って“成長”していく。
赤黒い杭群は、瞬く間に地を這い、天を衝き、港の構造そのものを呑み込まんと拡がる。
杭は杭に非ず。杭は、“喰う”。
植物のように根を張り、細胞の奥に爪を立て、あらゆるものを──吸い上げる。
海の水が凍ったように止まり、やがて水面が干からびていく。
浜辺に生えていた海草が黒く焼け焦げ、崖の岩肌がざり、と剥離する。
塗装された家屋の木材が、ぱきり、と音を立てて砕け落ちた。
生命だけではない。
水分、熱、気配、質量さえも──搾取されている。
──全ての“存在”が、彼の苗床として捧げられていく。
当然、クロードも例外ではない。
「……チッ」
自らの指先。
その皮膚の奥に、ざわつく感覚。
神経の芯を、薄い針のようなものが内側から突き破っていく。
魔力が、流れていく。
体内の生命力が、皮膚から染み出すように、何かに“吸われて”いる。
そして──
「いやあああああああああっ!!」
ミランダの凄絶な悲鳴が、船の内部から響いた。
あの明るく、どんな時でも肝が据わった彼女の声が、明らかな恐怖で震えていた。
「俺のルールの中にいるなら、例外はねェ……お前はまだまだ余裕があるだろうが、船の死にかけのやつらはどうかな……?」
「……こりゃ、また」
さすがのクロードも、言葉が出なかった。
この空間において“すでに瀕死の者”は、真っ先に“枯れ果てていく”。
──ミランダの治癒魔術も効いていないのだろう。
治癒魔術は魔力を用いる。
だがその魔力は、この結界によって“逆流”し、術者からも命を奪う。
まさに、搾取と反転のシステム。
命を与えようとすれば、その意志ごと喰らい尽くす──そんな絶対的ルールが支配している。
枯渇、搾取、略奪。
ありとあらゆる命を吸い取り、反転させる邪悪の樹だ。
杭に貫かれ、出血でもしてしまえばと思うと、今更言うまでもないだろう。
「こうなると手加減できねぇ! 滾り出すんだよ、こいつらが、よォッ──!!」
爆砕。
まるで真上から大岩が落ちてきたような轟音が、セイゲツ港の闇を震わせた。
鼓膜が震え、石畳がひび割れる。
鋼鉄の骨が地面に叩きつけられたような衝撃とともに、何かが高速で迫ってくる気配が、皮膚の奥で弾けた。
「────ッ!」
見えない。
闇に紛れながらの攻撃は完全にクロードの死角を取り、先ほど聞いた不可視の刃さえ、実の所目で認識できてはいなかったということを、クロードはしっかりと弁えていた。
つまり、ここで彼がとった行動は完全な反射であり、意識の埒外で成した超反応。
クロードは、自らの外套を剥ぎ取り、即座に目隠しとして掲げた。
風切り音とともに、厚手の布が裂けた。
のみならず、貫通して飛んでくる血塗れの杭が脇腹を穿つ。
「────づぉォッ!!」
鈍く、乾いた苦鳴が口を衝いた。
掠り傷に見えるその一撃が、体内の神経を直に揺らし、血とともに“命”を啜っていく感覚を、クロードははっきりと感じていた。
「痛ぇか!? 痛ェだろォ! 嬉し涙流せやオラァッ!!」
ヴェインの嘲笑が爆ぜる。
間を置かず、串刺しにし損ねたクロードへ、第二撃の拳が降り注いだ。
咄嗟に跳躍、地を抉るようなバックステップ。
その回避すら、“奇跡”という言葉が軽く思えるほどギリギリの躱しだった。
空中で一度体をひねり、滑るような着地からの後方宙返り──
回避というよりも、“体が勝手に逃げていた”。
そして、
──また来る。
その予感と同時に、血の杭が三発、斜め後方から飛来する。
一発目は“勘”で避けた。
二発目は“運”だった。
三発目は、反射的に放った風の魔術で、なんとか軌道を逸らした。
結界は"独奏"位階、杭による攻撃は"活動"から"顕現"になったことで視認可能になったとはいえ、威力が倍増しになっている分その危険度は比較にならない。
そして、視えると言っても、それはたまたま月明かりによって杭が反射した瞬間だけだ。
だが──
それでも──
クロードは躱す。
避ける。
当たらない。
「ハッ────」
脇腹の痛みがじりじりと神経を焼く。
滴る血の熱が冷える間もなく、傷口からは魔力が吸われていく。
まるで体の内側から“飲まれている”。
なのに、彼の口角は、微かに──笑った。
痛い。怖い。嬉しい。楽しい。
そのすべてが、感情ではなく“快感”として脳を満たしている。
ミランダが悲鳴を上げ、仲間が死にかけているこの極限の場面で、クロードの精神は、歓喜と怒りの混線で膨張していた。
「おいおいてめェ──狂ってやがるなァ! 本当に嬉し涙流してやがんのかァ!?」
「はははっ──いや面白いよ。洒落じゃなく本気でな」
そう、これは“殺し合い”だ。
仲間のために、という理屈ではない。
海賊として、護るべき“舞台”で踊るべき“舞”を──ただ全力で愉しんでいる。
異常がそこにあった。
既に三桁を超える血杭。
街を貫き、海を穢し、生命を削ぐ“独奏”に加え、顕現された杭の嵐。
並の冒険者程度なら百度は殺している猛撃が、ことごとく空を切って命中しない。
「────」
ヴェインの笑顔が、初めて硬直する。
──何が起きている?
クロードは"視えて"いない。
少なくともこの闇の結界の中で、無限に等しいこの嵐を見て交わせるほどヴェインの攻撃は甘くない。
ではなぜ、こんな真似が可能なのか?
「勘さ」
違う。
そんな幸運を百単位で連続できる者などいない。
フェイクラントとの模擬戦でもそうだった。
ヴォドゥンとの決闘の時もそうだった。
この男は──何かが、視えている。
「今回もいい感じで良く外れてるな魔王サマ。思わず笑ってしまうよ」
苦笑気味のそんなぼやきは、ヴェインのすぐ横で漏らされていた。
先のかすり傷を除けば、一切被弾を許さぬまま、ここまで自分に接近できた男を彼は知らない。
「まあ、魔王サマがどんな秘密能力使ってるかは知らんが、俺は俺で色々あってな。よくあるだろ? 『この光景は前に見た』『次に何が起こるのかを知っている』ってやつ。俺はその状態でどの行動を選んでも、なんでか死ぬ方向には行けないんでね」
ぽん、とまるで友人を労うような気安さで、クロードはヴェインの肩を叩いた。
その無防備な動作に、ヴェインの瞳孔が一瞬だけ収束した──が、次の瞬間には。
「『風裂槍脚』──ッ!!」
発動と同時に、空間が悲鳴を上げた。
脚先に収束された魔力が唸りを上げ、螺旋の刃と化す。
音速を超えて衝撃波が吹き荒れ、雷鳴のような破砕音が夜の港に炸裂した。
──風が穿つ。空間ごと。
風圧が地を砕き、脚の軌道に沿って大気が千切れ、圧縮された魔力が鋼をも容易く貫く“穿脚”となって敵を薙ぎ払う。
「おおおおおおおおッ──!?」
まともに受けたヴェインの身体が、空を裂いて吹き飛ぶ。
そのまま港の建造物──石造の倉庫群へと激突し、壁面を削り、屋根を突き抜け、粉塵を巻き上げながら大穴を穿った。
真横へと暴れ出した竜巻が、建物群を面で削る。
瓦礫が雨のように降り注ぎ、石と木片が高く舞う。
粉塵混じりの空気が赤く照らされ、まるで空に血を撒いたかのような光景だった。
「と言っても、今たまたまその状態に入ったってだけだがね。四六時中そうというわけでもない。だから、魔王サマが弱いってわけじゃないさ。落ち込む必要は無い」
クロードは、再び口角を上げた。
自嘲に近い言い回をしながら、その声にはわずかに、誇りが滲んでいた。
粉塵が晴れると、そこにはゆっくりと、瓦礫を押しのけるヴェインの姿。
彼の胸には、螺旋状の裂傷が深々と刻まれていた。
肉が抉られ、骨が見える。
その身を護るはずの神威すら、一時的に貫通されるほどの蹴撃。
だが──
「……クッ、あァ……ハァ」
血を吐きながらも、その男は笑っていた。
傷口は既に塞がり始めていた。
流れ出た血が、地に落ちる前に回収されるかのように逆流し、肉が寄り、皮膚が再生し始める。
それは常軌を逸した再生能力。
結界内部の全てのモノが、彼の生命力へと変換されていく。
「…………」
それでもヴェインは静かに考えていた。
わからない。なんだこの男は。理解不能。
不可解ながらも、しかしそれに耽れるような精神状態ではない。
「てめぇ……」
怒りが、恥辱が、そして歓喜が……彼に疑問の追求を放棄させた。
血が踊る。胸が高鳴る。
この奇怪な獲物を前にしてヴェイン・アクレウスは狂乱せずにはいられない。
「いいぞ……面白ェ面白ェ! 最高じゃねぇかァッ! テメェは何をおいても俺が食う! 女神の写身と代替品なんてもう知らねェ! 俺ァお前が気に入った! 待ち望んでたんだよォ! お前みたいな奴をッ……!!」
その叫びに、もはや計画も理想も存在しなかった。
彼がここに来た目的は、大魔王復活のためであり、女神の写身がこの大陸に渡ってきたという情報を得たからであり、その中にたまたま"邪魔"になりかねないSランク冒険者が潜んでいたというだけの話。
大魔王の復活のために、ロータスの野郎は女神の写身が必要だという。
だから苛立ちながらも海を渡って東方まで来たが、もはやそんなものはどうでもいい。
眼前の男が、全てを塗り替えた。
目的など、不要だ。
この命を賭けるに足る舞台、それだけが欲しかったのだ。
もっと戦いたい、こんなに心を踊らされるのは久しぶりだ。
歓喜が五感を鈍らせる。
しかし──
「もっとヤろうぜクロードォ! テメェは俺の──」
「いや、せっかく乗ってきたところで悪いが──」
その瞬間、いや、この戦いの最中において、ヴェインの注意は常に一点に集中していた。
クロードだけを、視ていた。
故に、クロードと相対している間、生命力を食われながらも、魔力を奪われながらも船に向かったロイドの存在も、仲間を見捨て、上級風魔術を展開して船を強制的に動かしたミランダの異常行動も、彼は確認できていなかった。
──気づいた時には。
ズガガガガガガガ──ッ!!
視界の端、闇の向こうから、雷鳴のような騒音とともに巨大な“壁”が迫ってくる。
質量数百トン。
鋼鉄と魔力で構成されたクロードの愛船が──港の陸地を削りながらヴェインとクロードに向かって突進していた。
「ミランダさんッ!! もう少し右ッ!!」
「──わかって、るッ!!」
見張り台でロイドがヴェインの位置を叫んで伝え、後方から上級風魔術で船を飛ばすミランダが怒号と共に魔力を微調整。
風の魔術を幾重にも重ねて質量操作と推進を両立させた、その進路は──ヴェインに、直通。
「ジ・エンドってことで。じゃあな……」
クロードは風を纏い、爆風のような跳躍で宙へと舞い上がった。
ヴェインの独奏は回復できるとはいえ、瞬時に治るというモノではない。
故に、この奇跡的なタイミングでの攻撃は到底回避不可能。
ヴェインの眼が、驚愕で見開かれる。
彼の神威が、肉体が、精神が、すべて戦いに酔っていたからこそ──“音”にさえ気づくのが遅れた。
「ぶっ潰れろォッ────!!」
ミランダの叫びが、夜の港を引き裂いた。