第百八十五話 「クロード VS ヴェイン②」【三人称視点】
クロード海賊団は、完全に退路を断たれていた。
港を覆う夜の結界は、ただの視界妨害ではない。
空間そのものを“閉ざす”機能を持ち、脱出も救援も、外界との一切の繋がりを絶っている。
異様な静けさと、空を這う黄金の月が、それを如実に物語っていた。
ミランダは、傷ついた仲間たちの応急処置で手一杯だった。
血まみれの手で傷口を塞ぎ、呼吸すらしない彼らをそれでも諦めないと決断し、担いで船内へと避難を始めていた。
彼女は、戦えない。
ロイドは、すでに自らが“足手まとい”であることを理解していた。
震える手を拳に変え、必死に歯を食いしばってはいたが、その存在が前線に立つにはあまりにも無力だった。
せめて、クロードの足を引っ張らないように──その一念で身を隠している。
つまり今、セイゲツ港の戦況は、クロード一人の力にすべてが懸かっていた。
対峙するは、魔王ヴェイン・アクレウス。
黒衣を纏い、白髪を風に遊ばせ、まるで月光そのものをねじ曲げたような眼差しでこちらを見据えている。
その男は、口角に愉悦の滲む笑みを浮かべたまま、奇妙な静けさを纏っていた。
「…………」
ヴェインは、考える。
無頼、無軌道、無秩序──そう形容されるに相応しい彼ではあったが、こと“戦い”においては、底の知れない冷徹さを宿していた。
自惚れはする。
だが、傲慢には陥らない。
故に今、腸が煮えくり返る怒りを覚えながらも、冷静に眼前の相手を分析している。
この男は紛れもない強者であると。
「そうか、てめぇが……ブリジットとヴォドゥンを殺りやがったかぁ?」
ヴェインがそう呟いたとき、クロードの眉が、わずかに動いた。
「…………?」
知らない名があった。
ブリジット──聞き覚えはない。
だが、クロードの脳裏をよぎる顔があった。
──マリィちゃんが打ち倒した女の魔族か?
確かに名乗ってはいなかったが、状況的にそれ以外には考えられない。
マリィの言動、殺気、そして神威の衝突──すべてがその女の死を示していた。
倒したのは自分ではない。
だが、仮にクロードが相手をしていたとしても、結末が変わることはなかっただろう。
故に──否定する必要もなかった。
クロードはただ、無言でヴェインを見据える。
その沈黙を、肯定と捉えたのか。
魔王は、喉の奥でクツクツと笑った。
「とりあえず褒めてやる。レイの野郎が見逃されたのは意外だったが、まぁ、ちったぁマシな戦争になりそうじゃねぇか」
──まったく、仲間を殺された怒りも、悲しみもない。
あくまで興味の矛先は、“この舞台が面白くなるかどうか”にしか向けられていない。
クロードはその異常性に、もはや何の感情も持たなかった。
苛立ちも憐れみも、戦場においては無意味だからだ。
「しかしまあ、実際情けない話だよなァ……。お前みたいな若手の、一介の冒険者如きに殺られたヴォドゥン共も、せっかくたまたま“大当たり”掴んだってのに、みすみす逃しちまって海に叩き落とされたこの俺もよ……」
それはまるで、何かの“前振り”であるかのように。
自分の過去を、自嘲気味に語りながら──口角には、確かな“期待”の線が浮かんでいた。
常識が通用しない男。
感情ではなく、欲望と好奇心で動く男。
ヴェイン・アクレウスという存在は、理屈の通じる敵ではない。
狂気の上に、戦闘能力と冷静さという最悪の才覚を持ち合わせていた。
「実際シュヴェルツじゃあ、そろそろレイがなんとかして面白ェ展開になりそうな感じだったのによォ……。今度は海でドンパチし始めたんだからなァ? おい、仲間外れの俺ァ正味に欲求不満だぜ。……責任、とってくれるか? Sランクとやらと戦うのは初めてなもんでよォ……」
言葉の終わりと同時に、ヴェインの右手が上がった。
ぴたりと止まったその指先が、まるで空間に杭を打ち込むかのように──振り下ろされる。
瞬間、虚空から黒き杭が数十本、豪雨のように降り注いだ。
赤黒く澱んだ“神威”の塊。
瘴気と殺気が融合した魔杭が、視認するよりも早く、クロードを穿たんと突き刺さる。
だが──
「……遅いな」
そのすべてが、掠りもしなかった。
クロードは、まるで“最初から軌道を知っていた”かのような動きで、悠然と魔杭の雨をすり抜ける。
一歩ごとに紙一重で杭を避け、余裕を感じさせる軌跡で歩みを進めるその姿は──もはや芸術に近かった。
ヴェインの眉が僅かに跳ねる。
──何かがおかしい。
撃ってから反応されたのではない。
行動を“先読み”されていたとしか思えない動きだった。
まるで、クロードがヴェインの思考と挙動を事前に“視ていた”かのような──不気味な符合。
「あァ……!? なんだそりゃ……」
忌々しげに唇を歪めるヴェインを前に、クロードはふと口角を上げた。
それは挑発でも傲慢でもない。ただ、眼前の強者との“真っ当な殺し合い”を前にした、船長としての本能の悦びだった。
「ふふ……」
その一笑に、ヴェインの背に鈍い寒気が走る。
強力な魔物であれ卒倒しかねない視線の凶光を浴びで尚、クロードは悠然と笑っている。
もとから豪胆な性格ということもあるだろうが、ヴェインは否と断じた。
それだけで説明がつく余裕っぷりではない。
Sランク冒険者と言われ、運動能力が優れているのは認めよう。
切った張ったに慣れているのも見ればわかる。
だがしかしそれだけに、クロードは分かっているはずだ。
彼の船員四人を無傷で、一方的に蹂躙した事実を前に、"余裕で勝てる"などとは思えるまい。
逃げ場を失っていることも理解しているはず。
恐怖、焦燥、緊張感……生物なら持って然るべき危機回避能力が、クロードのは壊れているとしか思えない。
一種の窮鼠と言える状況で、この男はそれを楽しんでいる……?
「一つ聞くが、あの船に戻った女、アレはお前の女か?」
不意に問いかけたヴェインだったが、クロードはあっさりと首を横に振る。
「いや、ミランダは優秀な仲間ではあるが、特別な感情は持ち合わせていないよ。アイツじゃ──というか、そもそもそそることがないんでね……」
「そうか……なるほど、そういうことかい」
納得したようにヴェインは唇を吊り上げた。
導き出される答えは一つ。
これはある種の暴走だ。
壊れることを前提に、性能限界を振り絞っている片道燃料。
クロードの脳内には安全装置が存在していない。
不感の兵士──それは今も昔も、常に試みられてきた理想の一つだ。
故に当然、ヴェインにとっても未知の存在というわけではない。
感情のリミッターが存在しない。
理性の中に埋もれた“自己保存”の本能すら希薄だ。
「ははッ、ガキの頃に頭でも強打したか? それとも生まれつきか? まぁどっちでも構わねぇがよ。何が原因でそうなったにしろ、お前……もう長くないぜ?」
その口調に、侮蔑の色はなかった。
ただ淡々と、死を“見届ける者”の語り口で。
「死相が見えるぜ、ガキ。そうなって生き残った奴を俺ァ見たことがねぇ」
「……あぁ、悪いがそれはミランダには黙っててくれないかな」
クロードは、鼻で笑う。
その口ぶりに、自身の死を悼む素振りなど微塵もない。
仲間に余計な心配をかけない。
それだけが彼にとっての“死の条件”だと言わんばかりに。
「それに、そんなのは今関係ないだろ。わかってるのは、お前が俺たちを殺しにきて、俺はお前を殺そうとしてるってことだ」
静かで、しかしどこまでも真っ直ぐな言葉だった。
その言葉に、ヴェインの背中にぞくりとした震えが走る。
──楽しい。
この男は、思っていたよりずっといい。
ゾクゾクする。
「案外、魔王って言っても大したこと無さそうだしな。俺一人でもどうにかできるかもしれん……」
「くく、くくくくく……」
ヴェインの喉奥から、ねっとりとした嗤いが漏れた。
戯言。身の程知らず。無謀。傲慢。
だが──それでもいい。
それを“口にできる者”が、最も甘く、最も熱い悲鳴を上げるのだ。
全身を駆け巡る快感。
まるで背骨に直接電流を流されたような、悪寒すら伴う昂ぶり。
目が赤く染まり、瞳孔が収束する。
犬歯が徐々に伸び、口元には血を啜るための裂け目が刻まれる。
魔王・ヴェインが“本性”を現し始めた。
「いいぞ、お前、悪くねェ……!」
その声に込められた“飢え”は、もはや擬音化不能の濁流。
目の前の男を引き裂き、砕き、喰らい尽くしたいという欲望が、形を成して蠢いている。
「合格だ。お前の魂も、お前の船員の魂も──俺が吸うに値すると認めてやる」
ぞわり、と空気が波打つ。
彼こそが──暴虐の魔王、ヴェイン・アクレウス。
血の祝福を受けた災厄の申し子。
「誇れや小僧。ただの人族相手にタイマンでこれ使うのは……百年ぶりくらいだ……」
ギチギチ……ギチギチと、空気が軋む音が響く。
それは建材のきしみでも、大地のうめきでもない。
夜の空間そのものが悲鳴を上げ始めていた。
次元の接続が歪み、空間が微細にひび割れていく。
そこに顕現しようとしているのは、常識では計れぬ“災厄の本性”。
「『独奏────』」
神威・第四位階──