第百八十四話 「クロード VS ヴェイン①」【三人称視点】
「眼を開け。肌で感じろ。古い目玉は抉って捨てろや。お前らなら、見えるよなァ……」
神経が、皮膚の裏で逆撫でされる。
ただの音ではない。
言葉そのものが"呪"として機能しているかのように、クロードとミランダの脊髄を駆け上がった。
「「……ッ……!?」」
即座にクロード、ミランダが動いた。
反射と呼ぶには速すぎる──これは、生存本能そのものだ。
二人は同時にロイドの腕を掴み、背後へと跳躍。
刹那、
ガンッ!!
鉄を叩き割るような轟音と共に、地面が裂けた。
先ほどまで三人が立っていた舗装路に、黒々とした杭が突き立っている。
血を煮詰めて鍛えたような、禍々しい赤黒の杭が、空気すら裂きながらなお震えていた。
「ひ、ひぃっ……!?」
ロイドが情けなくも叫び声を上げた。
視えなかったのだ、あの刹那の殺意も、殺意が具現化した形状も。
もし二人が引き寄せなければ、彼は今ごろ杭に貫かれ、"吊された死骸"として晒されていたに違いない。
「ほぉ……なるほど。こりゃ、噂通りだなァ。」
ヴェインと名乗った黒衣の男が、口元だけで嘲笑を刻む。
その手元には、未だ意識のないセロンが首を掴まれたまま吊られている。
皮肉にも、まだ生きている彼だけが、彼の盾となるようにぶら下げられていた。
「それに、俺のことを見ても驚きもしねぇ。知ってやがるのか?」
意味深な物言い。だが、クロードは即答しない。
ミランダは、虚勢でも笑いを浮かべた。
もはや彼女の中で、既にアルコールは吹き飛んでいる。
それほどまでに、肉体が警告を鳴らし続けている。
「めっちゃ驚いたわよ、ほんとに……! フェイ君に事前に特徴聞いてなかったら、死んでたかもってくらいにはね!」
「というか、お前はギルドの指名手配でも、“S級:特異災害指定”って分類に居座ってる。知らないほうがどうかしている。というのもあるが──」
口調こそ冷静だが、クロードの喉奥では、殺気とは別種の焦燥が音を立てていた。
「まさか、宿敵の方から来てくれるとはな──」
──フェイクラントとの賭けに負け、西方大陸を出航する直前。
彼らの後援者であり、現元締めであるサイラスが口にした"クロードの役割"について。
宿敵──文字通り、彼らの役割は魔王を倒すことに他ならない。
その役割がどのようにして与えられたのか、誰がどのような理由で役割を与えられた者がいるという真実こそ、彼らにしかわからない。
が、少なくともこの場面に置いて、クロードとミランダはさして驚きもしなかった。
いずれどこかで、魔王の一角とは対峙する。
それがたまたま今日だったという話だということ。
魔王、ヴェイン。
殺しに理由はなく、殺意は喜びに似ていたという。
十一年前、アステリア王国に攻め入った魔族勢力の主犯──国王を殺害し、王妃を攫い、果てにはたった数時間にして百七十名を虐殺した大災厄の“中心”にいた存在。
その男が、なぜ今この港に。
なぜ、自分たちの仲間だけが選ばれたのか。
クロード達に"心当たり"こそあれど、それが明確な答えにはなり得ない。
「クハッ! 知ってようと知らなかろうと、俺にゃ関係ねぇんだよ……」
そう言って、ヴェインはセロンの体をガラクタのように投げ捨てた。
その体は甲板に叩きつけられ、背骨が小さく軋む音が響く。
仲間をゴミのように扱い、指を鳴らしながら近づいて来る姿に、ミランダの口元から、さすがに笑みが消える。
「ミランダは仲間たちを……。ロイドは、ギルドへ要請を出せ。俺が奴を惹きつける」
言いつつ、クロードはいつものように三角帽をミランダに預ける。
しかし、淡々とした口調の中には、抑えきれぬ“怒気”が混ざっていた。
「……わかった」
帽子を預かったミランダの笑顔が、僅かに揺らぐ。
「りょ、了解ッ──」
ロイドは慌てて立ち上がり、港からの坂道へ走り出した。
「ははははは──ッ!! いきなり大将サマと戦わせてくれるってかァ──ッ!?」
ヴェインの笑い声が、まるで地の底から這い出た悪霊のように、港全体へと響き渡る。
空間が、凍りついたように震えた。
笑いながら、ヴェインの周囲の空気が収束する。
飛び出すと共に、神威を解放。
位階は“活動”、第二位階。
実体なき不可視の刃──同じく神威を扱えなければ見ることすら叶わない。
「行くぜ──ッ!!」
クロードの全身を、一瞬で切り刻まんと迫るそれは──
「──舐めすぎだろ、アンタ」
刹那──クロードの拳がヴェインの顔面に叩き込まれていた。
衝撃と共に地面が爆裂する。
石畳ごとヴェインの顔面を押し潰すような一撃。
その拳は、まるで怒りそのものが具現化したかのようだった。
「ガァ──ッ!?」
衝撃音が地を裂く。
叩きつけられたヴェインの肉体ごと、桟橋の石畳が粉砕され、血煙混じりの破片が四散する。
「この程度で、俺のクルーたちが殺られるわけがない。本気出せよ。潰してやる」
低く、殺気の底から響くような声だった。
普段は静かで冷静なクロードからは想像もつかない、牙を剥いた野獣の声。
その眼には憤怒が燃えていた。
激情でも激情ではない。
これは、“船長”としての矜持だった。
「みんな──ッ!!」
ヴェインが怯んだ隙を見て、ミランダが仲間の元へと駆け出す。
流れるような動きでレベッカを抱き起こし、ガリユの息を確認する。
セロンの傍へと膝をつき、意識があるのかを確かめる。
状況はかなり絶望的だろう。
少なくとも、クロードからは巨大な血溜まりにしか見えない。
それでもミランダは、急所を手際よく確認し、息のあるかどうかもわからない者達の処置を始める。
血を止める。気道を確保する。包帯の代わりに自分の袖を引き裂く。
一方で──クロードは地に伏したヴェインを見据えていた。
拳の感触は確かにあった。
だが、肉を貫いた実感は──薄い。
倒れてはいる。確かに、地面を砕くほどの力で殴り飛ばした。
だが、ダメージを“与えた”という手応えがない。
──ただ、凹んだ地面と、血を一滴も流さない敵。
戦慄が、背筋に忍び寄る。
この場での最優先は、足止め。
それ以上を望むのは、慢心だ。
時間さえ稼げば、ロイドが救援を読んできてくれる。
仮にヴェインがどれだけ強かろうと、ここは魔族の領域ではない。
援軍さえ呼ぶことができれば、勝率はグンと上がるだろう。
「こんなデカい街にノコノコ魔王サマが現れてくれたんだ。タダで帰れると思わない方がいいぞ?」
声は低く、挑発的に。
クロードは己の怒気を、言葉に変換して突きつける。
地面に伏せたまま、ヴェインがゆっくりと笑い始めた。
まるで、今の一撃すら娯楽だったかのように。
「クク……忠告ありがとよォ……だァが、心配ねぇぜ……」
その笑いが、じわじわと大きくなる。
地面に伏せたまま、喉の奥から絞り出すように響く──不気味な嗤い。
そして──違和感。
クロードの表情がわずかに曇った瞬間──
「ぎゃっ」
背後からの小さな悲鳴に、クロードは即座に振り返る。
そこにあったのは、坂道の途中で仰向けに倒れていたロイドの姿だった。
足がもつれ、空間の“壁”に跳ね返されたように弾かれていた。
「なんだと……」
クロードが咄嗟に駆け出そうとする。
だが、眼前のヴェインが、笑みを崩さずに囁くように呟いた。
「クク……ははははは────ッ!! オイオイまさか、俺がわざわざ何の策も無しに現れたと思ってくれてんのかよォ? 安心しろやァ……この"夜"からは出られねぇ。入るだけの一方通行……だからよォ、この港はな──“おまえらの死に場所”ってやつよ」
港の空を覆っていた黒雲。
神々しく光る月。
人の姿が消えた静寂。
──これは、すべてこの結界の“演出”だったというのか。
ロイドが膝をつき、息を切らしてこちらを見る。
だが、クロードは静かに、短く命じた。
「ロイド! もういい! どこかに隠れてろ!」
ロイドの顔が、強張る。
だが、クロードの眼差しは真っ直ぐにロイドの心を撃ち抜いていた。
口を開く余地など、そこにはない。
「……了解……っ!」
ロイドは、血の気の引いた顔で、小さくうなずき、戦場の外れへと駆けていく。
クロードは振り返る。
そこには、既に立ち上がったヴェインの姿。
先ほどの傷など最初から存在しなかったかのように、整った姿勢で、ゆっくりと首を回していた。
「さァて、第二幕といこうか……キャプテン」
にやりと笑うその表情には、苦痛のかけらもない。
──まるでこれが、“遊戯の幕開け”であるかのように。