第百八十一話 「共鳴する苦痛」
マリィが俺の姿を確認した、その瞬間だった。
──ぽろり、と。
まるで糸が切れたように、彼女の目元から大粒の涙がこぼれ落ちた。
泣き止んだはずの顔が、再び涙に濡れていく。
声を殺しながら、震える肩を抱きしめるようにして、堪えている。
ひっく、ひっく、と嗚咽が混じる呼吸。
泣きたくないのに、どうしようもなく感情があふれてしまっている──そんな姿だった。
……見ていられなかった。
涙が落ちるたびに、俺の心もまた細かく砕けていく。
──クリス。
俺がこの異世界に来てから、最初にあった女の子。
彼女のことは何より大事で、思い出の全てが俺の宝物で、決して失いたくなかった恋人。
彼女は今もマリィの中で息づいている。
俺にとって何よりも喜ばしいことだ。
それは間違いない。
けれど……。
「マリィ……」
声をかけると、マリィは震える唇をきつく結び、顔を伏せたまま震えながら口を開いた。
「……いったい、何の用なのよぉ……」
掠れる声。
部屋の薄暗さと、マリィの影が重なって、表情はよく見えなかった。
だが、泣き顔であることは……痛いほどわかる。
クリスの魂は、マリィの心を侵食し続けている。
悪意ではないのだが、俺に対する"好き"が、思っていないマリィにすら影響してしまうほどに。
「心配で……様子を見に来たんだ」
そんなのはただの言い訳に過ぎない。
“会いに行くな”と言われていたのに、それを破って会いにきた俺は、マリィにとってただの加害者かもしれない。
部屋には、妙に甘ったるい匂いが漂っていた。
香か、それとも……彼女の匂いか。
「……大丈夫か?」
「大丈夫なわけ……ないよ……」
問いかけると、消え入りそうな声で返ってきた。
「私の立場になって考えてみてよ……フェイが近くにいるだけで、私の意志とは無関係に、クリスの気持ちが込み上げてきて……」
「……ごめん、そうだよな……」
「なんでフェイが謝るの……? 別にフェイは悪くないじゃない。むしろ……クリスはまだ、フェイのことを想い続けてるんだよ? ……それだけで私は、嬉しいはずなのに……」
マリィの吐息が、ひとつ震える。
両手で自分の肩を抱きしめるようにして、顔を伏せながら震えていた。
クリスの想いが嬉しいと同時に、切なくなる。
「でも……でも、私までもが……フェイのことが好きで好きで、たまらなくなって……苦しくて……」
……胸が、締めつけられる。
「わかってるもん……こんなのはおかしいって……。だって私たち、家族なんでしょ? 言ったもん……ずっと家族だって。だから……」
それ以上を求めるのはおかしい。と──
言葉はどこか辛辣で、責めるような調子だった。
だけど、潤んだ瞳だけは──じっと俺を見ていた。
俺は、まだ何も返していない。
ただ、マリィは一方的にしゃべり続けていた。
きっと今も、心の中でクリスの感情が渦を巻いているのだろう。
それに抗うように、声を出して、自分を保っているんだ。
「こんなの……すぐに無くなるんだから。フェイなんか、本当にどうでもいいんだから……! 私より弱いし、情けないし、焚き火オタクだし……っ」
けれど、これだけ罵っておきながら『出ていけ』の言葉だけは、どこにもなかった。
きっと対処法がわからないんだ。
自分の心を否定しながら、でも誰かに寄りかかりたいという本音を押し殺している。
元凶である俺が出しゃばるのは逆効果の可能性の方が高い。
それでも──
「……なぁ、マリィ。俺に、何かしてやれることはないか?」
「……っ……!」
息を詰めるようにして、マリィがこちらを見る。
涙の残る目が揺れ、苦悩とためらいの色を浮かべたまま、言った。
「……そう思うなら……私に会いに来ないで……。クリスの想いが消えるまで……それがいつかはわからないけど……ここにいる間は……会っても、無視して……。私も、フェイを……無視するから」
その言葉を聞いて、俺の心が、すぅ……と冷たくなった。
そりゃそうだ。
俺にできることがあるとすれば、そのくらいのことしかないだろう。
ここまで来といて、何もできないと自覚させられるしかできない自分が情けない。
かと言って、他に対処法も見つからない。
「……わかった。マリィが望むなら、そうするよ」
「望むならって……フェイのバカぁあ!!」
「ッ……!?」
叫びと共に、彼女が抱いていた枕が俺の顔に直撃した。
水気を含んだ枕は、その事実だけで俺の心を容赦なく痛めつける。
「フェイはっ……! 私がどんな状態か分かってくれてるんだよねっ!? 本気で私がそうしたいって……思ってるのっ!? それがどれだけ苦しいことなのかっ……!」
枕の次は、丸めた毛布。
次に水の入った花瓶まで。
マリィは大泣きしながら、手当たり次第のものを投げつけてきた。
「フェイの顔なんか見たくないっ! けど、見ないで過ごすことを想像すると寂しくてっ! 恋して、愛して欲しくて……そう思ってしまう私自身が、嫌で嫌でたまらないの!!」
──甘く見ていた。
これが、マリィが抱えていた想いのすべてだったんだ。
こんなにも苦しんで、悩んで、涙を流していたのに。
俺は何一つ、理解できていなかった。
ツンデレ程度なら彼女が受け入れればそれで終わりだったが、個人に対する恋心となるとそうはいかないらしい。
そりゃそうだ……本来人は、一人にしか愛情を注げない。注いじゃいけない。
魂が融合していても、感情はそれぞれ別なのだ。
かつて──
もし、クリスが「フェイが私のことを嫌いになりたいって望むなら、私はそうする」なんて言ってきたら、俺はそれを受け入れられる覚悟があっただろうか。
ない。
絶対に、ない。
大好きなのに、無理をして言ってるだけだ。
この回答は間違いと分かっても、出てきた言葉は取り消せない。
「……ッ! こんなことまで私に言わせてっ! 嫌いっ!! 嫌いっ!! 本当に大嫌いっ!!」
身をよじって、涙を撒き散らしながら、マリィが絶叫する。
そして、力が抜けたように──そのまま、膝から崩れ落ちた。
「う……ぐすっ……。ごめん……本当に、ごめんね……心配して、来てくれたのに……あんまり、よね……? ひどいことばっか言って……ごめんなさい……」
震える声が、布団の上で丸まったマリィの背中から漏れる。
叫んでいたのに一転して、今度は静かに泣き始めた。
情緒が、安定していない。
「罵って落ち着くなら罵ってくれ。俺は、そのために来たんだから」
「……やめてよ……かっこいいこと言わないで……。今の私は……フェイの一言、一言に……過剰に反応しすぎちゃうの……」
そして、疲れ果てたような笑みを浮かべる。
その表情が、コロコロと切り替わる様子が──逆に、彼女の危うさを際立たせていた。
──そうだ。
一つの“想い”がマイクを通して、スピーカーから流れ出すように。
それをまた、別のマイクが拾って、共鳴する。
クリスから出た“好き”が、マリィという器を介して無限に増幅し続けている。
まるで、感情のハウリングだ。
そして今は、もうどちらの想いから出たのかもわからないくらいに、肥大して──
「……だから、会いに来ない方がいいよ? 私きっと、自分が抑えられなくなると、何するかわかんない。フェイに乱暴するかもしれない」
「でも、もともとは俺とクリスが恋したのが原因だし……」
「誤解しないで。クリスのことは恨んでない。あの子のことは、今も大好き。……一緒にいることが、なにより、幸せだから……」
ぽつりと、マリィはつぶやいた。
どこか、空を見つめるように。
「マリィ……?」
……違和感があった。
マリィの視線が、中空を捉えている。
「……今も、あの子が見ていた……」
「え?」
「わかるの……定期的に、あの子が……私の体を介して、フェイの様子を“確認”してるの……ようやく会えたねって……嬉しい、愛してるって…………」
「……落ち着け、マリィ。頼むから──」
ようやく会えた……か。
その言葉を聞く限り、本当にクリス本人なんだろう。
魂だけの存在になっても、別れた時と同じように、俺のことを想い続けてくれている。
それは、俺にとっては何よりも嬉しいことに他ならないが、状況が心をぐちゃぐちゃに蝕んでくる。
本当にクリスならば、そんな直接的に"愛している"だなんて言わないだろうが、それは魂だけになってしまった弊害だろうか……。
まるで、"死者の念"のように、マリィを介して想いを発し続けているというのか。
だとしたら……。
「あの子は……フェイが、ううん、この世界全てを愛してる。魂だけになった今も、ずっとずっとこの世界を愛し続けて、フェイの幸せを願っている」
「マリィ……」
「あの子はフェイを愛していて、その気持ちが伝わってくる。プレーリーハウンドだった頃はなんとも思わなかったんだよ!? それが急に……フェイのことなんて、好きだけどそういう関係じゃないって感覚はあったはずなのに、それなのにっ……あの子の気持ちを中継し始めた私の心は……ッ!!」
言葉が、崩れていく。
「フェイが、ミランダと仲良くしてるのがっ……ツバキと、あんなに距離近いのがっ……ザリーナと、さっきだって気軽に触れ合ってるのがっ……!」
特大の涙が、ぽろぽろと零れた。
「見ていて、辛いの……っ」
──その一言が、胸の奥深くまで突き刺さった。
魂を介して繋がった想い。それは美談なんかじゃない。
歪んで、膨れ上がり、制御できない欲求となってマリィを蝕んでいる。
そして今、その苦しみが、俺の目の前で、確かに涙となって溢れているんだ。
「私が辛いと、あの子が悲しんで、そうすると私も悲しくて……! どんどん嫌な感情が大きくなって……! あ……あぁっ……大嫌い! フェイなんか嫌いっ!!」
俺の理性が、冷静に分析を始める。
マリィは、自分の中の“好き”という感情が、誰のものか分からなくなっている。
同時に、クリスの想いも絶え間なく流れ込み、増幅され続けている。
それはまるで──歪んだ音響装置が起こす“ハウリング”そのものだ。
共鳴して、響いて、止まらない。
苦しみの周波数がどんどん上がり、今にも精神が決壊してしまいそうなほどに。
「いやぁ……もう、限界……私、壊れる……」
震える声。
潤んだ瞳が、助けを求めていた。
──もう、選択の余地なんてなかった。
「マリィ……っ!!」
万策尽きて、衝動のままに俺はマリィを抱きしめた。
その瞬間、彼女の身体がびくりと跳ねる。
息を飲むように硬直し、赤く染まった頬から、まるで音が聞こえるほどに心臓の鼓動が伝わってくる。
わかっている。
この行動がどれだけ彼女に対してリスクがあるというのも。
それでも、俺の"想い"を伝えた方がいいと思ったから──