第百八十話 「前をむいて」
朝食後──霊峰レヴァンの里・稽古場にて
気が休まらない。
どうしても、今朝のマリィの顔が脳裏に焼き付いて離れなかった。
ツバキが里の子供たちと剣や弓の稽古をしていると聞き、俺は気晴らしのつもりで稽古場に足を運んだ。
けれど、胸の奥に刺さった棘は、そう簡単に抜けてはくれなかった。
「ツバキちゃん! 今のどう!?」
少女の声が、乾いた空気に弾ける。
小柄な子が大きな木剣を両手で握りしめ、誇らしげに振り返っていた。
「うむ。なかなかよかったぞ」
「やった〜!」
ツバキが静かに頷くと、少女は跳ねるように嬉しがった。
そのやり取りはまるで姉妹のようで、稽古場には穏やかな空気が流れていた。
──なのに、俺の心だけは波立ったままだった。
子供たちの剣筋は、正直なところ子供のそれとは思えない。
無駄な動きが少なく、恐ろしいほどに洗練されている。
「これならおししょー様も、褒めてくれるかなぁ!」
「うむ。この調子なら、きっと認めてくれる日も近いかもしれない。……私もうかうかしていられないな」
柔らかく笑うツバキは、いつもより少しだけ人っぽく見えた。
──ベアトリスさんの弟子としてこの里に留まり、子供たちの剣術指南まで引き受ける彼女。
表情の少なさと突拍子のない言動の裏に、戦うことへの純粋な執着があるのは間違いない。
それが“正義”のためか、“自己満足”のためかは分からないけれど、彼女の本質はそこにある気がした。
でも──俺の気は、晴れなかった。
この光景が、クリスを思い出させるからだ。
プレーリーの教会で、孤児たちに魔術を教えていた彼女の姿。
優しく、凛々しく、誰よりも愛されたその背中が、目の前の子供たちとツバキに重なる。
そして、クリスを思い出す度に、マリィの顔が浮かび上がる……。
……いや。
これは俺が勝手に場面が“似ている”と決めつけて、感傷に浸っているだけだ。
自分の中に渦巻く後悔や不安を、他人のせいにして逃げたいだけ。
そんなこと、わかってるのに──
「お前は、あまり腰が入っていないな。フェイクラント」
「……あ、すまん」
ピシャリと言われた直後、子供たちがくすくすと笑った。
「おにーさん、ぜんっぜん構えがなってないよー」
「ほんとだ、へっぴり腰!」
「はは、こりゃ俺もまだまだ修行が足りないな……」
軽く笑ってごまかしながらも、内心では苦笑いしていた。
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昼時が近くなってきても、俺の心は休まらない。
広い屋敷の廊下を歩いていると、扉から出てきた一人の獣人と目が合った。
「…………ん?」
ウサギのような耳。
だが、瞳は鋭く、肉食獣を思わせる光を宿している。
まぁ、ザリーナだ。
「お、ちょうどよかった」
彼女は軽く手を挙げ、飄々とした調子で近づいてくる。
その手には、まだ拭ききれていない水滴が残っていた。
「……マリィは?」
「今は大丈夫なはずだ。涙も止まったし、過呼吸もない。……多分、しばらくは大丈夫だと思う」
胸を撫で下ろした──のは、俺もザリーナも同じだった。
「……しっかし、お前もほんと罪作りな男だな」
「は……?」
「可愛い女の子二人に慕われて、しかもそのうちの一人は奪いたくないって泣かせて、なのに自分の気持ちはまだあの子には伝えてないんだもんな……いや、マジで、どこがいいんだかね〜。俺だったら無いわ〜」
茶化すような、からかうような口調。
でも、その言葉の裏には、しっかりと“本音”が隠されていた。
口にはしないが、項垂れている俺を元気付けようとしてくれている。
きっと、どこか不器用なところがあるのだろう。
ザリーナ。
豪胆で、飄々としていて、どこか達観したような雰囲気のある獣人。
彼女がなぜ、ベアトリスの弟子になったのかは知らないが──
その裏には、きっと彼女なりの戦いと事情があったはずだ。
「……優しいんだな、お前」
「あ? 俺が? やだな〜、なに言ってんだよ。勘違いもほどほどにしろよ」
鼻で笑いながら、わざとらしく肩をすくめて見せる。
その仕草は軽薄に見えて、どこか誤魔化すような影が差していた。
彼女の背後──閉じられた扉に、ふと視線が吸い寄せられる。
しんと静まり返ったその奥に、誰かがいる気配がする。
温かな気配。繊細で、震えるような、それでいてかすかに灯った光のような。
──あそこに、マリィがいるのか。
ザリーナが出てきたのなら、間違いないだろう。
でも、どうしても足が前に出なかった。
俺が入っていい場所ではない。
会うと、またマリィを傷つけてしまう。
胸の奥に、冷たい石のような不安がこびりついて離れない。
そんな俺の気持ちを見透かしたように、ザリーナがため息をついた。
「……か〜、ったく、面倒くせぇ男だな。ババアには会うなって言われてるけど、入りたいんだろ?」
そう言って、ぽりぽりと頬を掻く。
柔らかい声だった。
普段の飄々とした態度とは違い、ほんの少し──だけど確かに、優しさが滲んでいた。
戸惑いのまま顔を上げると、ザリーナは視線を逸らして続ける。
「話したいんだろ? ……あの子もさ、ずっと泣きながら呟いてたぜ。お前の名前」
「……でも」
言いかけた言葉は、舌の奥で濁った。
──それでも、また傷つけてしまうかもしれない。
マリィのあの泣き顔が、頭の中にこびりついて離れない。
今はそっとしておくべきじゃないのか。踏み込む資格なんて、俺にあるのか。
心の中で、そんな迷いが渦巻いていた。
「心配すんな。何かあったら、俺がすぐに入って止めてやるよ。前をむいて、しっかり話してこい」
「……っ」
ザリーナが、どこか頼もしく肩を叩いてくる。
その言葉の力強さに、ほんの少しだけ、胸の奥の緊張がほぐれるような気がした──が。
「まぁ、マリィは会いたくないとは言ってたけどな! にひひ」
「おい」
じゃあなんで会わせようとすんだよ。
振り返ると、ザリーナは頬を掻きながら、まるで悪びれる様子もなくニカッと笑っていた。
「なら最初から会わせようとすんなよ!」
「え? でも“会いたくない”ってのは、感情が爆発してる時の話であって~。今は多分、そこまでじゃないだろうし? な?」
「なんでそんな軽いノリなんだよ!」
「だって面倒な空気引きずってもしょうがないだろ。お前ら、顔合わせりゃ案外けろっと仲直りすんじゃねーの?」
ザリーナは冗談めかして笑うが、心のどこかでは本気でそう思ってそうだ。
「そんな簡単な話じゃないだろ……」
思わず、つぶやいた。
どれだけ話したくても、近づくだけでもまた共鳴してしまうかもしれない。
それがどれだけ苦しいことなのか、マリィ以外にはわからない。
「…………そっか。でもな、フェイクラント」
ふいに、彼女の声が真面目になる。
「簡単じゃねぇからって、このままってわけにもいかねーだろ。話すのが怖いなら、顔を見て挨拶くらいでもいいじゃねーか。何より時間が経てば経つほど、余計に会いにくくなるだけだぜ?」
「……らしくないこと言うなよ」
「うるせーよ。泊めてやってる俺らの身にもなれっつーの」
「う…………」
それを出すのは卑怯だろ。
だがまぁ、反論できない。
俺とマリィが何も解決せずにウジウジしているだけだと、迷惑かけるだけだ。
軽く胸を押されて、一歩、襖の前へと進む。
取手に手をかけるが、まだ躊躇いが残っていた。
──本当に、大丈夫か?
またマリィを泣かせたり、混乱させたりしないだろうか。
俺が入ること自体が、彼女を苦しめることになったら──
「ったく、ちんたらすんなよ。ほらよ」
ガラガラ、と隣から伸びてきたザリーナの手が、勝手に襖を開ける。
「ちょ、お前っ……!?」
「よっ、マリィ。フェイクラントがよ、ずっと目の前で待ってたからよ、連れてきた。話したいんだってよ。じゃ、あとは二人でごゆっくり~」
「まて! 別に目の前で待ってねーから!! たまたまだから!」
俺のツッコミを無視しながら、ぽんっと背中を軽く押され、ザリーナは軽やかに逃げ去っていった。
──そして、扉の先。
「…………」
柔らかな陽の光が障子越しに差し込む部屋の中央に、マリィはいた。
……小さく、座っていた。
毛布を肩に掛けたまま、所在なげに指先をいじっていた。
純白の髪は少し乱れて、頬の色もまだ紅潮が残っている。
そして一瞬俺と目があって、二人して顔を伏せてしまった。