第百七十九話 「合わせ鏡」
「そうだったのですか……」
「……えぇ」
木の器に湯気を立てるスープを見つめながら、ベアトリスさんは静かに頷いた。
まるで、予想外の雨に打たれたかのように、ほんのわずか──瞳が揺れていた。
あの後、俺はなんとかマリィを連れて部屋を後にし、ベアトリスさんたちと朝食を取っている。
マリィはあまりにも布団から出たがらなかったが、彼女も昨日の昼から何も食べていない。
廊下を伝ってくる香りに敗北したらしく、腹を鳴らしながらゆっくりと這い出てきた。
道中、無意識に手を繋ごうと差し出してしまったが、一連のことを思い出してすぐに引っ込めてしまった。
軽率な行動が、かえってマリィを苦しめることになってしまいそうで、怖かった……。
そして今、俺とマリィはベアトリスさん、ツバキ、ザリーナと共に朝の食卓を共にしている。
料理の当番はザリーナらしい。
豪胆な性格に見えたが、繊細な仕事が料理の中に散りばめられている。
「二つの魂……!? ひとつの身体の中に……?」
俺の話を聞いていたザリーナが驚きに息を呑み、目を見開く。
その反応は当然だろう。
普通、一つの身体に魂は複数存在できないはずなのだから。
「魂の融合……あるいは重なりとでも呼べばいいのでしょうか、前例が少ないので明確な定義はわかりません。ただ、かつてフェイクラントさんの恋人だった、クリスさんという方の想いが、今はマリィさんの中で生き続けている。……と?」
「えぇ、だから……その、クリスの"好き"って想いがマリィを通じて出てきているようで……その、思ってもないのに、俺のことが…………」
──好きだと。
最後の言葉は、情けないほど喉の奥で詰まって出てこなかった。
ザリーナが息を呑んだまま、スプーンを握る手を止める。
横ではツバキが黙々と咀嚼し続けているが、それはそれでありがたい。
変な口出しをされて話が拗れるよりはマシだ。
ベアトリスさんは、静かに器の縁に指を添えたまま、少し目を伏せた。
「なるほど……昨日、私が様子を見た時は、ただの過労による失神かと思っていましたが……事情がそこまで複雑だったとは。……知らずに無責任な言葉をかけてしまい、申し訳ありませんでした」
「い、いえ。そんな……」
さすがにマリィがそんな状況だなんて、知る由もなかっただろう。
そもそも魂が二つ混じってるなんて分かるなら、同じ俺だって言及されそうだし……。
……だけど、それだと「彼女に直接聞け」ってのは、結局なんだったんだ?
"疲れていることを聞け"という意味だと、それはそれでおかしい気もするが……。
そんなことを考えていると、ベアトリスさんは俺の頭の中を汲み取ったかのように──
「あぁ、彼女の恋心が見えたのは本当です。なので、直接彼女の口から聞きなさいと言いました。ですが、どうやら読み違いをしてしまったようですね」
ベアトリスさんは、自嘲気味に微笑む。
なるほど。
疲れと共にに、「好き」という感情も読み取れたが、それの発信源がマリィのものからだと勘違いしていたってことか。
まぁ、それを読み取れただけでも普通にすごすぎるんだが……。
というか、今の俺の心理まで察してる時点で、あんた本当に人間か?
視界の端では、マリィがそっと箸を置いていた。
「今も彼女の声が響いていますか?」
「は……はい……ずっと。気を抜くとまたおかしくなりそうで…………」
俯いたまま、肩がかすかに震えている。
指先は不安げに膝の上で丸まって、小さな鼓動のように、震えていた。
見ているだけで、心が痛む。
どうしてやれないかとも思うが、俺が近づいても彼女には逆効果でしかない……。
「……まるで“合わせ鏡”のようですね」
「合わせ鏡……?」
その言葉に、俺は反射的に問い返す。
「はい。互いが互いを映しあい、一方の想いがもう一方を揺らし──その共鳴によって、感情がどんどん肥大していく。小さな“好き”が、反響し合って止まらないような構図に見えます」
あぁ……言われてみると確かにそんな感じかもしれない。
……現代で言い換えるなら、ハウリングの方が近いか?
マイクとスピーカーの距離が近すぎて、ノイズが永遠に響き続けるあれと同じ構図。
──マリィと、クリス。
二人の“想い”が、ひとつの器の中で増幅されていたとしたら──あの苦しさも納得がいく。
「けれど、今は比較的穏やかにも見えますね。波があるのでしょう。少なくとも今は、嵐の合間の静けさのように見えます」
そう言って、ベアトリスさんはちらりとマリィを見る。
彼女はうつむいたまま何も言わない。
だが、その頬にかかる髪の隙間から、かすかに潤んだ瞳がのぞいていた。
「もしかして……俺が近くにいたり、触れたりすると、感情が……?」
「ええ。あなたの存在が、触媒になっている可能性は高いでしょう」
……つまり、マリィの心を苦しめているのは俺のせいでもあるのか。
守ってやりたいと思っていたのに。
傍にいてやりたいと思っていたのに。
それが、彼女の心を削っているとしたら──
「…………どうにか、できないんですか?」
声が、自然と掠れていた。
「俺……ベアトリスさんのこと、知り合って間もないのに、頼ってばかりで……情けないけど、それでも……なんとかできないですかね?」
必死だった。
助けてほしかった。
だけど──
「……申し訳ありません。これは、私の知識の中でも前例がありません。魂と魂の共鳴など、記録にもないですし…………」
ベアトリスさんは、静かに首を振る。
それは、否定の動作というより、憐れみのような悲しさを帯びていた。
──そうか。
まぁ、そりゃそうだよな。
そんなことが可能なら、とっくに提案してきてるだろうし……。
場の空気が、すうっと沈む。
ザリーナも目を伏せ、ただ黙ってスープを啜るふりをしていた。
同情とも、戸惑いともつかない視線が、そこにあった。
ツバキは……相変わらず黙々と口を動かしている。
「もぐ……まぐ、……むふ……」
……いや、ありがたいけどさ。
もうちょっと空気読んでくれ。
と、そこで。
「──ところで、マリィさん」
ベアトリスさんが、ふとマリィに声をかけた。
その声音には、優しさと、芯の強さが同居している。
「クリスさんはともかく、あなたもフェイクラントさんが好きなのですか?」
「……えっ」
思わず、俺も赤面してしまうような質問。
おい……そんなの食卓で言うようなことじゃねぇだろ……。
とも思ったが、事情が事情なので突っ込めない。
あまりに直球な言葉に、マリィが顔を上げた。
視線が彷徨う。
答えを探すように、何かを探している。
だけど、その口は言葉を紡げない。
「あなたが彼を想う気持ち。それが“クリスさん”のものだと断じるなら、あなた自身の気持ちは、一体どこにあるのですか?」
「それ、は……」
「私には──魂の輪郭が、ある程度見えます」
ベアトリスさんの眼差しが、マリィを貫く。
「マリィさんの魂と、クリスさんの魂。言われて気づきましたが……二つの魂は完全に“別物”として分かれているわけではありません。あなたの心の中で、確かに融合している」
融合──している?
「私はこうも思うのです。あなたが、自分の“好き”という気持ちを否定するからこそ、その反動として、クリスさんの想いが強く共鳴してしまうのではないかと」
……まるで、逆流するように。
「つ、つまり……」
俺が問いかけると、ベアトリスさんは頷いた。
「はい。マリィさん自身がフェイクラントさんを好きであることを自ら受け入れることができれば……もしかしたら、その共鳴は、静かに収まるかもしれません」
マリィが、息を呑んだ。
だが──言葉は出ない。
彼女は迷っている。
自分の“好き”が、どこから来たものなのか。
それが、本当に“自分”の想いなのか──
「……わからない、んです……」
ぽつりと漏れた、弱々しい声。
「どこまでが私で、どこからが“あの子”なのか……境界が、もうわからないんです」
マリィの声は、かすかに震えていた。
その視線は俯いたまま。スープの表面すら映さず、ただ茫漠とした虚空を見つめているようだった。
「フェイと冒険するのが好き……フェイに頭を撫でてもらうのも好き。一緒にご飯を食べるのも、一緒に強くなっていくのも……全部、全部……好き……」
彼女は涙を浮かべながら、ぎゅっと自分の両腕を抱きしめる。
その様子を見ているだけで、俺の心までどうにかなりそうだった。
「でも、その“好き”の意味を考えた途端……頭が痛くなるの……っ」
マリィの肩が細かく震え始める。
痛みの記憶でもあるかのように、体は強張り、眉間には苦悩が刻まれ、震える指先は血の気を失っている。
「──では、あなたが今そう言った様々な“好き”は、自分の気持ちではなく、クリスさんの気持ちが共鳴しているのだと本当に言い切れるのですか?」
「えっ……」
マリィが顔を上げる。
その目には、かすかな戸惑いと、恐れと、疑念が交差していた。
「あなたは、ずっと逃げていませんか? まるで、それが罪であるかのように」
淡々とした声なのに、なぜかその言葉は、刃のように鋭くマリィの胸を貫いていった。
「あなた自身の心を信じることを恐れて、全部を“あの子”のせいにして……あなたという存在を、どこかに置き去りにしてはいませんか?」
「ち、違うっ……!」
マリィが声を上げる。
その瞳には、明確な拒絶の色が浮かんでいた。
「ダメ……だって……フェイは……クリスが好きで……クリスもフェイが好きだったから……! 私自身は違うの……! 入っちゃいけないのっ!!」
叫びながら、マリィの声は徐々に震えを増していく。
心の奥底にずっと押し込めてきた蓋が、今まさにこじ開けられようとしていた。
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられるような痛みを訴える。
マリィは、自分の感情を押し殺してまで、俺とクリスの想いを、守ろうとしてくれていたのか……?
なんて馬鹿なんだ、俺は。
どうして気づけなかったんだ。
クリスと俺の関係を壊したくない一心で、マリィは自分の心を塞ぎ続けていたのだとしたら、それに気づかない俺はとんでもない悪党だ。
もう、これ以上、彼女に一人で背負わせたくない──
「マリィ……!」
俺は思わず、彼女の肩に手を伸ばしていた。
「しっかり俺と話し合わないか……? このまま、お前をそんなふうに放っておくわけにはいかない!」
ゆっくりと、時間がかかってもいい。
俺とマリィ、そしてクリスのことを踏まえて、ちゃんと話したい。
しかし、そう口にした瞬間──
「う、ああああああッ!!」
マリィの顔が一瞬で紅潮し、目の焦点がどこかへ飛んだ。
肩を掴まれたことで、彼女の精神が、限界を超えてしまったのだ。
「いけない! 離して!!」
ベアトリスさんの声が飛ぶ。
俺の手が反射的にマリィの肩から離れた。
その時のマリィの顔──
涙を浮かべたその瞳には、明らかな“拒絶”と“恐怖”が浮かんでいた。
しまった。
「俺が原因」と言われておきながら、またしても俺は不用意な行動をしてしまった。
俺のささいな行動が、彼女は過剰に受け取ってしまう。
「ぅぅ……ふぇい、ふぇい……うぅ……嫌い……フェイなんか、大嫌い……!」
その言葉が、頭の中で何度もリフレインする。
恐らく、クリスの"好き"が今も心の中で増幅され続けているのだろう。
だから、好きじゃない、嫌いだと言い聞かせている。
「絶対に好きになんかじゃない……フェイはただの仲間で、クリスの大事な人だから……っ!」
否定と肯定、拒絶と願望。
それらがマリィの中で反発し合い、彼女の心を文字通り“壊して”いく。
「マリィ! 落ち着けっ!」
ザリーナが席を立ち、マリィのそばへ駆け寄る。
だが、マリィは反応する間もなく、椅子を倒しながら立ち上がり、そのまま駆け出していった。
「マリィッ!!」
俺も立ち上がろうとした──その瞬間。
「待ちなさい、フェイクラントさん」
ベアトリスさんの冷静な声が、俺の腕を止めた。
振り返ると、その眼差しには悲しみと、強い意志の両方が宿っていた。
「……あなたが一人で行って、何ができるんですか」
「…………っ」
言葉が、出てこなかった。
追いかけたい。
苦しんでいる彼女を、放っておきたくない。
でも──今の俺が、彼女にとって“毒”でしかないのだとしたら。
「ザリーナ、頼む。左手には触れないように……」
「ああ」
ザリーナは軽く頷き、すぐさまマリィの後を追って廊下を駆けていった。
その足音が遠ざかるまで、俺は椅子の前で立ち尽くすことしかできなかった。
「……今は、しばらく顔を合わせない方がいいでしょう」
静かに、ベアトリスさんが言う。
「私も……彼女を責めすぎました。ですが彼女は今、我々が思っている以上に……極限状態にあるのかもしれません」
俺の拳が、無意識に震えていた。
自分の無力さに、歯を食いしばる。
「あなたは、落ち着くまで彼女に近づかない方がいい。……今の彼女には、それが最も優しい選択かもしれません」
……わかってる。
でも、辛い。
彼女が泣いているのに、追いかけることすら許されない。
その現実が、胸の奥を鈍く抉ってくる。
俺は……どうすればいいんだ……。