第百七十八話 「二人分の質量」
「……フェイのことが好き……かも……どうしよ……」
「はぁ!?」
寝起き開口一番、唐突な告白。
それをした子は、俺の腕にいて……。
俺とマリィは相棒であり家族であり仲間だ。
そりゃ"好き"って言葉が出てきてもおかしくないのだが、明らかに空気が違う。
普段なら家族愛だと思って「あぁ、俺も好きだよ」なんて軽く受け取る勢いだが、今のマリィにはそれを感じられない。
この"好き"は、家族だからとか仲間だからとかそんなものじゃない。
"あの時"、"彼女"から言われたソレと同じ──
「お、お前……何いきなり告ってるんだよ!?」
焦りと心配で思わずツッコむことしかできなかった。
だが、それを言葉で誤魔化す余裕すら、今のマリィにはなかったらしく──
「わかんない……わかんないのっ!!」
呼吸が乱れ、吐息が熱を帯びる。
マリィは虚ろな瞳で空を見つめたまま、震える唇を動かした。
「フェイが好き……この気持ちが、私の気持ちなのか……あの子の気持ちなのか、わからないの……!」
「…………あの子って、クリスが!?」
彼女の魂の欠片が、今もマリィの内側で囁いている?
マリィの眼差しが、胸元に寄せられる。
抱きしめているのはマリィの身体。でも、その奥で“誰か”が──クリスが、確かに息づいているような錯覚を覚える。
「……感じるの。あの子の気持ち……」
マリィがふと、目を閉じる。
「ほら……今も見てる……私たちを。フェイに抱きしめられて、こんなにドキドキしてる……」
その言葉に、喉が詰まりかけた。
思っていた通り、彼女の心は、混濁している。
過去と現在。彼女と彼女でないもの。クリスとマリィ。
二つの魂の境界が曖昧になり、二つの質量がひとつの器の中でせめぎ合っている。
「好き。大好き……また会えてよかった。嬉しい……」
「マリィ、しっかりしろ……! とにかく、落ち着いて……」
腕の中で"彼女"の言葉をリフレインする少女に、懸命に呼びかける。
けれど──
「ダメ……ダメなの……苦しくて……心が痛くて……」
マリィはただ、歯を食いしばって堪えている。
俺の言葉なんて聞こえていないように。
誰にも救えない、内なる痛みに耐えるように。
「……あ……ぁあっ……自分の気持ちが、わからないの……っ!! 気が狂いそうなの……っ!! ねぇフェイ、私……どうすれば──!」
「…………っ」
「あっ……」
見ていられなくて、俺は思わず、叫ぶマリィをより強く抱きしめた。
やっぱりクリスの感情が、マリィの心を侵食していたのか?
気づかないうちに、ここまで──?
「今は何も考えるな! 落ち着くまで、このままで……」
この苦しみを和らげる方法が、他に思いつかない。
ただマリィの震えを、この腕の中で包み込むことしか俺にはできなかった。
情けない。
こんな時、何ひとつ適切な言葉も行動も浮かばない自分が、ひどく情けなかった。
しかしその瞬間、俺は言いようのない感情に掻き立てられ、強く抱きしめた手の力をゆっくりと緩めていく。
それにつれて、マリィの身体からも力が抜け落ちていくのが感じられる。
「はぁっ……はぁっ……」
空気を求めて少し開いた口、汗ばんだ肌に張り付いた服。
胸の膨らみが、なだらかな丘を描いていて…………。
なに考えてんだ、俺……。
そんなこと考えている場合じゃないだろ。
しかし、何故かマリィの姿に見入ってしまう。
目が離せない。
クリスと同じ顔をしたマリィを……。
おかしい。おかしい。おかしい。
マリィに対して恋心なんてなかったはずなのに。
今じゃ、まるで惚れた女を眺めているみたいだ。
「…………」
いや、俺はマリィがクリスに変わってから、そういう目で見てしまっていたのだ。
自分の中でどれだけ否定しようと、本能でマリィをクリスに置き換えている。
…………最低だ。腐ってる。
だけど、心臓の動きが早まるにつれ、反比例するように思考が停止してしまう。
「ふぇい…………」
マリィが頬を染めて、俺を見ている。
「あぁ、好き…………好きなの…………」
マリィの声が、心の奥に直接触れてくる。
その言葉は、今にも壊れそうなほど繊細で、それでいて、火が灯ったように熱かった。
甘く、切なく、苦しくて──それなのに、どうしようもなく、愛おしい。
ぎゅっと、彼女の小さな手が俺の背中にしがみついてくる。
その温もりが、全身に染み渡っていくようで……俺の理性は、すこしずつ摩耗していった。
…………ダメだ。
これはマリィのものではない感情のはずだ。
受け入れてはいけない。
『……これは、あの子の気持ち? それとも、私の気持ち?』
マリィの震える声が、耳元に届く。
その一言が、俺の胸に杭を打ち込んだ。
彼女自身も、わからないのだ。
誰の感情で、誰を愛しているのか。
この想いが、本当に自分のものであるのかどうか──その境界を見失っている。
にもかかわらず、彼女はこうして俺を抱きしめている。
迷いながら、怯えながら、それでも……俺を欲してくれている。
その事実が、俺の心を無遠慮に揺さぶる。
五感が、彼女だけを捉えた。
優しい甘い香り、触れた肌の熱、吐息の温度。
体が、勝手に傾いていく。
引き寄せられるように、彼女の潤んだ瞳へと。
錯覚だ。幻想だ。
これはマリィがクリスに似ているからだけっていう偽りの恋情だ。
──そんな薄い理性を、置き去りにしながら。
俺は、マリィのことが……好きなのか?
「ダ……メ………だよ……」
「あっ」
あまりにも弱いマリィの抵抗に、俺は我に返る。
いつの間にか、俺の両手はまたマリィの体を抱きしめている。
あの細い肩を……まるで貪るように、強く、深く。
なんてことだ。
俺は、自分の感情すら制御できず、彼女の中に眠る“クリス”を重ねていた。
あぁ、でも、なんて柔らかくて気持ちいいんだ。
かつて──クリスとそうしあったことを思い出す。
抱きしめて、キスをして、お別れをした。
その時と同じように、今のマリィも頬を染めて、まるで夢見るように俺を見つめて──
その"彼女"が、また俺の前にいてくれている。
目を潤ませた顔が魅力的で、どうしても目を離せない。
ダメと言われているのに、まるで身体が言うことを効かないように、マリィを手放せない。
「……フェイは……私のこと……好き? 私はね……好きなんだ……フェイのことが…………ダメなのに……好きなの……」
マリィも理解している。
理解しているのに、俺を振り解こうとはしない。
俺は…………俺はマリィのことを…………。
うっとりとした彼女の顔に、引かれるように顔を近づけてしまう。
息のかかる距離まで…………。
「いいの……? キス、して?」
柔らかな囁き。
──いいのか? 本当に?
「ううん、ダメ……ダメだけど…………もっと、もっとぎゅって抱きしめて」
彼女は、願っている。
許されないと知りながら、求めている。
俺の心が叫ぶ。
止めろ、と。
踏み越えるな、と。
ここを越えたら、きっと元には戻れない。
なのに──俺の体は、言うことを聞かなかった。
「マリィ……俺は……俺は……」
唇が、彼女の額へと近づいていく。
すぐそこに、求める温もりがある。
あの時失ってしまったものが──今、俺の腕の中にある。
マリィが、うっとりと瞳を細めた。
──堕ちていく。
俺も、マリィも、抜け出せない沼に自ら堕ちていく。
踏み越えてしまえば、きっと悩みもなくなる。
そんな──ありもしない夢を見ながら。
唇が触れる寸前──
「おぉ、ぉぉぉぉ」
「!?」
妙に間の抜けた声が、室内に響いた。
俺たちは反射的にそちらを振り向く。
襖の隙間から、何かが見えた。
──ピコピコと反応しまくる黒い三角耳。
──見開かれた朱色の瞳。
──頬を染めながら半開きの口元。
いけないものを見るかのような、どこまでもピュアな狐が、そこにはいた。
「ばっかお前! 声出すなよ! かーっ、いいところだったのに!!」
ツバキの後頭部に、ザリーナの拳が無慈悲に振り下ろされた。
「いぎゃっ」
情けない声が、情けなく跳ねる。
そのあまりにも間の悪すぎる“目撃”に、俺とマリィは硬直した。
そして、同時に我に返る。
「なっ、なななななななっ……!!」
マリィの声が、裏返った。
ぽん、と引き離された身体の反動で、彼女の背が布団の上に沈む。
顔は茹で上がった林檎のように真っ赤で、手は頬を隠すようにぶんぶんと空を切っていた。
髪は乱れ、唇はうっすら開かれたまま。
その目元には、つい先ほどまで見せていたうっとりとした恋慕の余韻が、まだ微かに残っていた。
だが、今の出来事で、完全に現実世界へと引き戻されたようだ。
「あ、あ、あああ……ち、ちがうのっ……! い、いまのは、そのっ、わ、わ、私が……私じゃなくて……」
言葉にならない言葉を、泡のように吐き出している。
その手は、顔だけでなく胸元や膝を無意味に叩き、あちこちで赤面の洪水を引き起こしていた。
その姿に、俺もようやく意識を現実へと引き戻された。
……あぶない。
いや、ほんとに危なかった。
あと一秒遅れていたら、完全に越えていた。いろんな境界線を──。
今だけは、本当に、マジで、本気で──
「……ナイス、ツバキ」
俺は小声でそう呟いた。
今だけはあの空気を破った彼女に、感謝の言葉を贈らずにはいられない。
だが──
「む? 何がナイスなのだ……?」
俺の呟きはどうやら拾われていたらしい。
ゲンコツを食らって頭を押さえていたツバキが身を乗り出してきた。
耳良いキャラとかいいから、もう黙っててくれ。
「で……その、せ、接吻するのではなかったのか?」
「なっ!?」
なんでそんな期待に満ちた顔で聞いてくるんだお前は。
鼓膜に穴が開きそうなくらい顔を真っ赤にしたマリィが今まさに布団に身を隠そうとしているってのに、追い打ちをかけるんじゃない。
感謝こそするが、もうそういう流れじゃねーから。
「するわけねぇだろ! 今はもう、そーゆーのじゃないんだよ!」
叫ぶと、ツバキがぴょんと肩を跳ねさせて後ずさる。
だがすぐにザリーナに腕を掴まれ、引きずられるように襖の方へと連行され始めた。
「はいはい、バレたんならもういいだろ。ツバキ、行くぞ。空気読んで。ていうか目覚めたんだし、もう少し二人でゆっくりさせてやんな」
「むむ……しかし、話の続きを見届けねば──」
「誰が見届けられながらするんだよ。また今度に気づかれないようにしろ」
いや、それもやめてくれませんかね……。
完全に取り押さえられるツバキ。
耳が情けなくペタッと垂れ、最後にこちらへ未練がましく振り返った視線が、妙に生々しく胸を突いた。
『ちょ、ちょっと待てぇ、誤解してるぞお前ら!』
喉まで出かけたセリフは反射的な抗弁だった。が──
……いや、違うか?
現にキスしようとしていたのは事実だし……。
ツバキの声が一秒遅れていたら、今ごろ本当にしていたかもしれない。
マリィの唇は、もう目の前にあった。
触れたら戻れない、そんな距離だった。
……間違いなく、俺たちは一線を越える寸前だったのだ。
ふと視線を横へ向けると──
「………………」
マリィが、布団の中で湯気を立てるやかんのように顔を真っ赤にしていた。
そして一瞬で頭までしっかりと布団を被り、文字通り“穴があったら入りたい”という体勢になっている。
さっきまであんなに俺を求めていたのに、今はまるで何かの爆心地にでも突っ込んでしまったかのような反応だ。
……いや、実際そうだよな。
自分でも信じられないくらい自然に、感情に引っ張られていた。
クリスの面影を追っていたのか、マリィをマリィとして想ったのか。
そこすら曖昧になって。
布団からチラリとのぞく目が、びっくりするほど潤んでいて、俺は視線をそらすしかなかった。
……一難去って、また一難。
今はマリィに対しての感情は落ち着いている。
とにかく、また同じことにならないうちに、ベアトリスさんに相談すべきだろうか。