第百七十七話 「告白されました」
──朝。
窓の外には、白銀の世界が広がっていた。
静かな風が吹き、積もった雪の上に細かな波紋を描いている。
そのすべてが、まるで凍った絵画のように、ひとときも乱れることなく穏やかで──
やがて、山の稜線から、金色の陽がゆっくりと顔を出す。
淡く、柔らかな光が、粉雪を亜麻色に染めながら静かに広がっていく。
冷えた空気を包み込むように、あたたかな朝が、里全体をそっと撫でていった。
その光の色を見る度、あの笑顔を思い出す。
かつて、俺が恋をした彼女。
誰よりも優しく、誰よりも強く、誰よりも誰かの幸せを願った──クリス。
彼女は、もうこの世界にはいない。
けれど……彼女の面影は、確かに今もマリィの中で生き続けている。
その証拠に、マリィの寝顔は、今でもあの道具屋で見たクリスの面影を宿していた。
同じ頬のライン、同じまつげの影、同じ安らかな吐息。
まるで、あの頃が続いているかのように。
夜中、俺は何度も目を覚ました。
心配で、苦しくて、何度も彼女の額に手を当て、呼吸を確認して──
でもマリィは、ずっと静かに眠っていた。
……変わらぬ寝顔。
だけど、それをじっと見つめていると、胸の奥がざわついて仕方がなかった。
吸い込まれそうな感覚。
心を奪われそうな感覚。
その度に、俺は慌てて頭を振った。
「……何度も言わせるな。マリィは、家族だろうが」
──そう。
顔が似ていようと、過去に恋した人に似ていようと……これは違う。
それと、マリィがなぜ倒れたのか、その理由はわからないままだ。
いくら考えても、糸口すら見つからない。
一つ思うのは、マリィとクリスの感情が、共有されている節があるということ。
思えば、それは一体どんな感覚なんだろう。
俺はフェイクラントの身体を借りている……というか、乗っ取っている状態に近いから、二つの感情が交錯しているわけではない。
あるのは俺の感情だけで、フェイクラントの感情などは無い……いや、もしかしたらソレ事態が既に交錯している状態なのかもしれない。
俺とフェイクラントの魂は"同じ"らしいから、機械などでいうところの互換性があるという状態なのだろうか……。
だが──こう考えてみるのはどうだろう。
マリィの魂に、クリスの魂は"互換性が無い"。
…………嫌な言い方だが、それで苦しんでいる可能性だって考えられる。
例えばクリスのツンデレは、最初はマリィにとって苦痛だった。
俺と話し合うことで考えを改め、適応するに至ったが、ソレ以外にもあるとしたら……?
「辛い……よな」
神威で望んだ肉体へ変身したとて、元は魔物と人族。
何の負担も持っていないハズがない。
もし俺の中で、別の人格が常に声をかけ続けてくるなんてあったら……考えるだけでおぞましい。
クリスの魂が今もマリィの中で生き続けている。
言葉としては美しいが、それはマリィにとって、苦しいことなのだろうか……。
手のひらの呪いだってそうだ。
あれは恐らく、マリィが望んだものではない。
元々クリスが持っていた悩みや葛藤さえ、マリィは一人で背負っているのだとしたら……。
それに──女神アルティアとの因果が関係しているのだとしたら……。
だとすれば、きっとその問題は一筋縄ではいかない。
……けれど、ベアトリスさんは言っていた。
「彼女から直接、聞きなさい」と。
……それならば、マリィ自身がきっと理解しているということだ。
大事に至ることではない……そう、信じたい。
なにより──サイファーとレイアさんの友人というあのベアトリスさんが、そう言うのなら。
……ブリーノとサイラスの友人と言われるとちょっとアレだけど……。
思わず脳裏に浮かぶ奇行の数々を頭から振り払う。
……早く目を覚まして欲しい。
自分勝手だが、早くどんな状態なのか聞いて、安心したい。
「ん…………」
不意に、隣から小さな吐息が漏れた。
マリィが、寝返りを打つ。
その顔はまだ眠ったままだが──何かにうなされるように、苦しげに眉をひそめていた。
「……ぅ、う……ぅぅ……ふぇ……ふぇい……」
か細く、震えるような声が漏れる。
肩が、小さく震えていた。
マリィの体が、わずかに丸まっていく。
布団を抱えるように、ぎゅっと小さく、自分自身を守るように。
「マリィ……?」
その姿に、胸の奥がざわついた。
息が浅く、早くなる。
まるで夢の中で怯える小動物のように、彼女は震え続けている。
「あっ…………あぁあああっ…………」
「マリィ!? おい!!」
俺は咄嗟に、腕を伸ばした。
細い肩を抱き起こし、胸元に引き寄せる。
「マリィ! おい、大丈夫か!?」
体が熱い。
額は汗ばんでいて、吐息も乱れている。
「ふぇい……っ、ふぇ……い……」
抱き寄せた腕の中で、マリィはうっすらと瞳を開く。
潤んだ瞳。
頬は朱に染まり、まるで恋する少女のようなソレ。
だが、焦点の合わないその目には、明らかな“怯え”が混じっていた。
「おい! マリィ! マリィ!」
「だ、大丈夫だから……気にしないで……」
「そんなの、無理に決まってんだろ……っ!」
思わず声が荒れる。
わけがわからない。
どうして怯えている。
なぜこんなにも苦しそうにしている。
抱き寄せた彼女の体は、異様なほど熱くて、脆くて。
まるで、壊れそうなガラス細工のようだった。
「マリィ……!」
俺の腕の中で、彼女がぎゅっと目をつむる。
次の瞬間──その華奢な手が、そっと俺の服を掴んだ。
「……あぁっ……」
押し殺した声が漏れる。
その声音に、心臓が跳ねた。
抱きしめる腕に力を込める
なぜだかわからないが、マリィもそれを望んでいる。
触れ合った胸を挟んで、俺たちの心臓が歩調を合わせて高鳴っていく。
彼女の鼓動は、まるで何かを訴えるように激しく。
けれど、それは恐怖ではなく──別の、もっと切実な感情のようにも感じられた。
「マリィ……大丈夫だ。大丈夫……」
「あ…………」
か細く零れた声と共に──
マリィの手が、ぎゅっと俺の背を抱きしめてきた。
華奢で、震えるようなその腕は、
つい昨日まで、いや、それ以前の数日間──決して俺に触れようとはしなかったその手は、
今、まるで迷子の子供のように、必死にしがみついてくる。
俺が触れることで、彼女が意識を失った。
そのことが、どれだけ俺を縛っていたか。
だけど今、この瞬間は。
そんな不安すらも、頭から追い払われていた。
ただ、マリィの手が俺を求めている。
それだけで、胸の奥がいっぱいになっていく。
「……大丈夫だ、マリィ。もう大丈夫だからな……」
そっと、彼女の髪を撫でる。
額に張りついた汗をぬぐい、優しく耳元で囁くようにして。
マリィの呼吸が、少しずつ整っていくのがわかる。
あんなにも乱れていた鼓動が、ゆっくりと落ち着いていく。
「あ……ぁ…………」
細く掠れた声が、耳元で揺れた。
そのまま、俺は震える肩を掴むようにして、そっと身体を支える。
「マリィ……なにがあったんだ……?」
ようやく絞り出した問い。
けれど、返ってきたのは──言葉ではなかった。
ぽかんとした瞳。
マリィは、まるで初めて俺を見たかのように、ぽつりと俺の顔を見つめていた。
その表情には、怒りも、恐れも、悲しみも──なにも、なかった。
ただ、呆然と。
潤んだ瞳に光を宿したまま、俺を見ている。
「……マリィ……?」
何かがおかしい。
彼女を蝕んでいたのは、呪いでも熱でもない。
きっと──もっと深いところにある、何かだ。
じゃあ、それは一体何だ。
何が彼女を貪っている。
その理由は──
「…………フェイ」
ふいに、マリィが唇を開いた。
声は、かすれ、震え、たどたどしく。
だけど、確かに彼女自身のものだった。
「……私……」
じっと、俺の目を見つめて。
そのまま、唇をぎゅっと噛みしめて──
「…………フェイが好き…………かも……どうしよ……」
「はぁ!?」
思わず間の抜けた声が出た。
いや、これはさすがに、反射だった。
おかしいだろ。
ついさっきまで、熱にうなされてたやつが、第一声でそれかよ。
だが、マリィの瞳は真剣だった。
照れも、演技も、気を引こうとしている風でもない。
本当に、どうしたらいいのかわからないというような、迷いと戸惑いが入り混じった“本心”。
彼女の中で、何かが溢れたのだ。
堰を切ったように。
俺は──思わず、言葉を失った。