第百七十六話 「"彼女"と共鳴した心」【マリィ視点】
ボクの世界は──ずっと、モノクロだった。
薄灰色の空、鉛のように重たい空気、冷たい足元。
恐怖と痛みだけが、毎日を刻む唯一のリズム。
名前もなく、願いもなく、ただ“生きろ”と命じられた。
強い魔物に蹂躙され、戦うことを強いられて。
身体が裂けても、心が壊れても、誰もボクを憐れんではくれなかった。
そんな地獄のような世界に、たったひとつ──色が差した。
『もう怖くないよ。よく頑張ったね』
光のような、あの声。
温もりを含んだ手が、ぐちゃぐちゃになったボクの頭を、そっと撫でてくれた。
どれだけ牙を剥いても、吠えても、噛みついても、
その人族の女性──クリスは、ずっと変わらず笑ってくれた。
だから、ボクは決めた。
この人と一緒に生きていたい、と。
あの優しくて、強くて、皆に好かれる彼女のようになりたいと、そう強く、願ったんだ。
でも、夢は終わる。
彼女は、消えてしまった。
ボクの隣から、ふわりと、跡形もなく。
あまりに突然で、何が起きたのか理解できなくて。
ただただ、ボクとフェイは泣いた。壊れるように泣いた。
──思えば、その頃からだった。
ボクの身体の奥底で、何かが変わり始めたのは。
フェイとの旅は、救いだった。
喧嘩も、笑いも、怒鳴り合いもしたけれど……それでもボクは、彼の隣で、確かに“生きている”と感じられた。
フェイが、ボクに“家族になろう”と言ってくれたとき。
胸がいっぱいになって、うまく息ができなかった。
こんなボクでも、誰かの“帰る場所”になっていいんだって──初めて、そう思えた瞬間だった。
彼が幸せをくれるたびに、ボクも彼の幸せで在りたいと、心から願うようになった。
だけど、それと同時に──一つの疑念が、心の隙間に広がっていった。
ボクは、フェイが幸せをくれる分、フェイの幸せにもなってあげたいと切に願った。
ボクが魔物じゃなくて、人族だったら、もっとフェイは笑ってくれるかなと思った。
だって──ずっとフェイは、クリスを想い続けている。
彼女がいなくなったあとも、ずっと、ずっと、ずっと。
だから、ボクは考えてしまった。
このままじゃダメだって。
この姿のままじゃ、フェイの隣には立てないって。
──なら、いっそ。
ボクの中にいる、彼女になろう。
この頃から、薄々と気づいていた。
ボクの中に、クリスの“想い”が残っていることに。
魂の一片が、心の奥底に根を張って、優しく囁きかけてくるのを。
『こうやってフェイとマルタローと一緒に旅ができるって、幸せだね』
『あはは、髪型がマルタローそっくりだね! そういうところが可愛いんだから』
『うん、だいすき……』
──ボクの中で、確かに彼女が生きている。
でもそれは、どこまでもクリスの感情だ。
ボク自身のものじゃない。
……そう、思っていた。
ボクは変わった。
彼とボクが好きだった"私"に。
すると、彼女の想いがより強く私に反映されるようになった。
私が彼を想うと、まるで彼女もそれに共振して想うように。
想いの波は、私の心の中でぶつかって、肥大していく。
最初は戸惑った。
「好き」って言葉は、アップルパイと同じような“好き”に近い感覚で、
一緒にいたい、手を繋ぎたい、笑いかけてほしい──そういう欲求と変わらないと思っていた。
だから、"アーシェ"や"セレナ"には何も嫌な感情は湧かなかった。
みんながみんなのことを"好き"なだけで、奪い合うことなんてない感情。
でも違った。
──“クリスの想う好き”は、それとは別なんだって気づいた。
誰よりも、深く、強く、壊れそうなほどに。
フェイが好き。
ふと手が触れただけで、胸がきゅっと苦しくなる。
声を聞くだけで、涙が出そうになる。
彼の笑顔を見るたび、守りたいと、そう願ってしまう。
隣にいるだけで、胸が高鳴って、息が止まりそうになる。
だから、"ミランダ"の距離は、私にとって初めて苦痛となった。
彼女がフェイに近づく度に、私の心は黒く濁っていく。
でも、どうしようもなくて、わけもわからずに引き剥がそうとするしかできなかった。
《──好き。好き。好き。好き》
《大好き。会いたかった。やっと会えた》
よくわからない、フェイに対して言う言葉にしては相応しく無い言葉がリフレインし始めたのも、この頃からだった……。
そして、先日。
狐耳の獣人の女性がフェイの手に触れた時、心が壊れそうになった。
いけない感情だなんて、とっくに思ってる。
こんなに悪い感情、誰に話しても困るに決まっている。
それでも、この想いは押さえつけても止まらなかった。
私の心を蝕むように、我慢すれば我慢するほど体は熱く、心は砕けそうになる。
《大好き、愛してる。また会えてよかった。本当に大好き》
どうして、こんなにも。
……でも、だからこそ、この感情は許されない。
だって、この“好き”は私のものじゃないから。
私が魔物だったこと、クリスの魂を抱えていること、全部が混ざって歪んでいる。
そんな不確かな存在が、フェイにその感情を向けていいはずがない。
それに……彼の“好き”は、私に向いていないから。
だから、私は隠した。
手を繋がず、距離を取り、言葉を選び。
家族として好きなんだと、何度も自分に言い聞かせた。
でも、それはまるで、燃え上がる想いに水をかけているようなものだった。
冷めるどころか、感情は激しく熱を帯びて、私を焦がしていった。
──カイエン山脈で、すべてが爆発した。
命を懸けて、彼を守りたいと思った。
その感情に突き動かされるまま、動いた。
その中で、"彼女"の想いも共鳴し、溶け合い、燃え上がっていった。
『好き』
優しくて、かっこよくて、私を守るためにいつも強がっているその姿も、恋しくなる。
『好き、好き』
私がフェイを想うと、私の中の"彼女"の想い呼応して、強く共鳴する。
『大好き』
いやだ……フェイにこの気持ちを伝えたくない。
伝えたら、きっと困らせてしまう、嫌われてしまう。
だって、フェイの"好き"は私に対してじゃないから。
それでも──それでも。
フェイが好き。
彼が“私”を好きになってくれなくても、それでも、私は彼を想っていたい。
たとえ報われなくても、傍にいたい。
彼の幸せを願って、手を引いて、支えていたい。
でも──本音を言えば。
彼の腕の中で、泣いて、甘えて、名前を呼ばれて、
「愛してる」って──そう、言ってほしい。
そんな夢を願ってしまうくらいには、私はフェイに恋をしてしまっていた。
涙が、流れる。
私の想いは、誰にも届かなくていいと思っていた。
“好き”を抱えて、ただそばにいられれば、それだけでいい──と。
──それでも。
「マリィ……」
声が、遠くから響いた気がした。
いつか聞いた、優しくて、真っ直ぐな声。
……ダメだよ。
そんなふうに、呼ばないで。
優しくされると、"彼女"の想いが共鳴して、おかしくなる。
でも──
「マリィ……」
その声は、確かに私の心を徹底的に深く射抜く。
闇の中、差し伸べられる手が、ひとつ。
温かくて、優しさに満ちている、いつもの手。
その手が、今は狂おしいほどに怖くて、嬉しくて、わけがわからなくなる。
本当はダメだってわかってる。
この好きがもし叶ってでもしまえば、私はひどく後悔するとも知っている。
もう戻れなくなるとも知っている。
「マリィ……」
……フェイ。
ねぇ、フェイ。
ダメかな……私じゃ。
クリスの代わりになっちゃ、ダメかな……。
その手を取って、私の気持ちを伝えた時、フェイはどうする……?
呼吸が苦しい。
心臓が止まりそうになる。
ねぇ、フェイ。
「私…………フェイが好き」