第百七十五話 「安息」
俺は小さく頷き、マリィの体を慎重に傾け、彼女の前へそっと差し出す。
ベアトリスさんは音もなく前に出ると、彼女の額へ指先を添えた。
"診る"ということは、何かそういう能力でも持っているのだろうか。
なんにせよ、今は頼ることしかできない。
「……あ、あの、でも……」
俺は咄嗟に言葉をつまらせる。
「マリィには……その、“呪い”のようなものがあって……俺以外が触れたら……」
それだけは、言わなければならないだろう。
マリィには触れた者の命を無差別に奪う女神の呪いがある。
不用意に彼女の手を触れてしまえば、ベアトリスさんもタダではすまないだろう。
しかし──
「……わかっていますよ」
「え……」
ベアトリスさんは、最初から呪いの存在を知っていたかのように、驚きもせずにそう答えた。
そして、ゆっくりとマリィの方へと手を伸ばす。
けれど、その手はマリィに触れない。
ほんの指先分だけ、空中で止まる。
──魔力が、揺れた。
空気が密度を持ち、俺の肌が粟立つ。
見えない“波紋”のようなものが、ベアトリスの掌からマリィへと流れ、逆巻き、やがて静かに収束する。
まるで、風も声も沈黙したような──聖域のような感覚。
何かのスキルで、マリィの状態でも見れるということなのだろうか……。
ベアトリスは、やがて目を細める。
そして、ふっと──ほんの微かに、笑った。
「……眠っているだけですね」
「そ、うですか……」
その言葉に、ほっとした……と言いたいところだった。
眠っているだけ……ならばいいのだが、どうして眠ってしまったのだろうか。
俺が触れるまではあんなに元気そうだったのに。
やはりマリィには、無理をさせすぎてしまっていたのだろうか……。
そんな俺の思考を、ベアトリスさんは読んだかのように──
「……そうですね。原因の“深い部分”まではわかりませんが……」
その声音が、ごくわずかに濁った。
「──おそらく、フェイクラントさんが原因と見て、間違いないでしょう」
「……っ!」
言葉が、胸に鈍く刺さった。
全身が一瞬にして冷え、心臓だけが焼けるように熱くなる。
脳の奥で、何かが爆ぜる音がした。
やはり……そうか。
思い当たる節が、なかったわけじゃない。
マリィは、俺を守るために、ずっと無理をしていた。
幾度もの戦闘を、俺の隣で……いや、俺のために戦い抜いた。
カイエン山脈で、誰よりも俺をかばって。
きっと裏では苦痛に顔を歪めながら、それでも笑って。
少しの異変に気づきながら、決してそれを口に出さず──
そして今、こうして眠り続けている。
そうだ。結局、まただ。
また俺は、守られるばかりで、何も返せていない。
……クリスの時と、同じじゃないか。
無意識のうちに、俺は大事な人を削り、苦しめ、追い詰めていた。
目の奥が、焼けるように熱い。
それでも、声は出せなかった。
認めたくなかった。
情けなさが、喉を絞めつけた。
しかし──
「ふふ……違いますよ」
その声は、氷のように冷たく、それでいて火のように優しかった。
「……え?」
「少なくとも、過労ではない。身体の疲れも確かに見られますが、そうではなく──」
「ではなく……?」
「……いえ、これは彼女から直接聞きなさい。この分であれば、明日までゆっくり休めば目も覚めるでしょう」
…………なんじゃい。
心配で仕方ないというのに、教えてくれないのか。
でも、目を覚ますと言ってくれているのだから、そこまで心配すべきでは無いのか。
心配が少々抜けた分、気がかりが莫大に増えた気分だ……。
「まぁ、あなたと話したいこともいくつかありますが、それも明日、彼女が目を覚ましてからでもいいでしょう。今はその時ではありません」
ベアトリスの言葉には、穏やかな慈愛と同時に、揺るがぬ意志があった。
“今は話さない”──それが、彼女なりの判断なのだろう。
……まぁ、たしかに。
マリィが思ったよりも大丈夫だというのなら、今すぐ何かを詰める必要はない。
杞憂だと、そう思えるだけでも随分と心は軽くなった。
代わりに──気が抜けたせいか、全身の疲労が一気に押し寄せてくる。
登山の緊張、魔物との死闘、そしてマリィの異変。
張り詰めていた神経が解けると、身体の節々が重く、鈍く痛んだ。
正直、もう動きたくないレベルで眠い。
「……ふふ、サイファーとレイアの弟子とあらば──歓迎しましょう。長旅で疲れたでしょうし、今日のところはゆっくりお休みください」
そう言ったベアトリスの目は、柔らかくもどこか懐かしげだった。
「あ、ありがとうございます!」
なんにせよ泊まらせていただけるならありがたい。
本来なら手紙を渡してクロードさんのところに戻る予定だったが、向こうも話すことがあると言ってるし、なによりマリィを休ませてあげたい。
「ツバキ、案内しておやりなさい」
ベアトリスの声に促されて、ツバキに視線が集まる。
──だが。
「……」
彼女はぴくりとも動かない。
いや、動かないどころか、真顔でずっと畳を凝視している。
おいおい、また始まったか……。
「……おい、ツバキ。ほれ、行くぞ」
横からザリーナが呆れ顔で肘を突く。
「む……? あぁ……今の時間で、畳の目は一四八二まで数えたが……?」
「バァカか!? だァれがそんなことしてろって言ったんだ!? つーか、いつからやってんだよ!!」
ビシィッ! と額を叩かれ、ツバキは眉をひそめて後ずさる。
「……あうっ……畳は全て同じ目の数なのか気になっていたのだ……」
「誰も気にしねぇよッ! はいはい、客を部屋まで案内しな!」
「……了解した」
どこか納得がいかない顔で立ち上がるツバキ。
俺の方を向き直ると、その目はすぐに真面目な光を取り戻していた。
「では、案内させていただく。途中、設備について簡単に説明を──」
そう言うや否や、ツバキは機械のように歩き出しながら、事務的に喋り始めた。
「こちらが回廊。鶯張りの仕様となっており、防犯と風流の双方を兼ねています。向かって左側が共用風呂、その先にある引き戸が洗面所兼脱衣場です。風呂の利用時間は──」
「わかったわかった! なげぇ!!」
思わずツッコまずにはいられなかった。
"案内"ってそういうことじゃねえだろ!
全身ガタガタ、意識もぼんやりしてる状態だってのに。
「風呂や食事の時間になれば呼びに来よう。それまでは部屋で休むといい。外出は自由だが──」
「わかったって! そんなに一度に言われても覚えらんねーから。分からないことがあったらこっちから聞くから」
「……了解した」
無表情ながら、どこかほんの少しだけ残念そうに見えたのは気のせいだろうか。
師の自慢の屋敷を案内させるのが好きなのかもしれない。
明日になったらもう一度聞いてやるか……。
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──そうして案内された一室。
八畳ほどの簡素な和室だった。
木枠の窓からは霧がかった山の景色が望め、隅には布団が二組、丁寧に敷かれている。
「ここが、お前たちの寝室だ」
「あぁ、ありがとう」
ぺこりと頭を下げ、ツバキは静かに障子を閉めた。
部屋に静寂が戻る。
あぁ……ようやく、ほんの少しだけ落ち着ける場所に辿り着いた。
俺は布団のひとつにそっと膝をつき、背中のマリィを優しく降ろす。
「……マリィ、もう安心だ。明日まで、ゆっくり休ませてもらおう」
布団の柔らかさに身を沈めた彼女は、穏やかな寝息をたてたまま、小さく身じろぎした。
目を閉じたその横顔には、痛みも苦しみも見えない。
ただ、深い眠りに包まれているようだった。
掛け布団をかけ、髪をそっと撫でる。
「……明日、起きたらさ。いろんな話、しような」
きっと話さなければいけないことは山ほどある。
どうして眠ってしまったのか、なぜ俺を拒絶したのか。
……それはきっと、俺たちにとって辛いことなのかもしれない。
だけど今は──この瞬間だけは。
ただ、無事でいてくれたことに感謝したい。
膝を抱えて隣に腰を下ろすと、山を越えた実感がようやく身体の芯から滲み出してきた。