第百七十四話 「レヴァンの長、ベアトリス」
ゆるやかな坂を越えた先に、賑やかな声が混じり始めた。
子供たちの、楽しげなはしゃぎ声だ。
「あっ、ツバキちゃーん!」
「ほんとだ!」
雪の積もる石畳の脇から、耳のついた小さな影がわらわらと飛び出してくる。
猫耳、犬耳、リス耳、ウサギ耳……ぴこぴこと賑やかに揺れながら、こちらに駆け寄ってきた。
「うむ……今帰った」
ツバキが控えめに手を振ると、子供たちは一斉に飛びつく。
誰かがツバキの袖を引き、誰かがしっぽをつかまえ、誰かが耳をつつく。
それでも彼女は、静かにそれを受け入れている。
どうやら愛想は薄いが、子供たちからの信頼は厚いようだ。
──その一方で。
「げ、ザリーナ姉もいんのかよ」
「あん? なァにが『げ』なんだァ?」
「ひぃいいいッ!!」
こちらのウサギ女には、開口一番で警戒されていた。
「また弓の講習でしごかれるー!」
「耳引っ張られるー!」
被害報告を口々に叫びながら、数名の子供が反射的に身を隠す。
……まあ、わからんでもない。
怒鳴ると迫力あるし、物理で教育するタイプっぽいし。
「ったく、何が“げ”だ……」
ブツブツ文句を垂れるザリーナの横で、ひとりの小さなリス耳の女の子が、俺をじっと見つめてきた。
「このお耳が小さい人はだれー?」
「む……?」
「ほんとだ、人族だー!」
あちこちからわらわらと集まってきた小さな瞳が、一斉に俺を見上げてくる。
「ウチの客人だよ。大事なやつだから、失礼のねぇようにな?」
ザリーナがそう言って肩を軽く叩くと、子供たちは「へぇ~」と感心したように頷き──
クンクン、と俺の匂いを嗅いでくる。
完全に犬猫のそれだ。
なにこれ文化の違い?
思い返せば、ツバキと初対面の時もやたらと近かったし、気づけば手を握られてたり、顔を覗き込まれてたりもしたな。
もしかして、獣人にはパーソナルスペースが存在しないのだろうか?
軽く文化ショックを受けていると、リス耳の子がぽつりと呟いた。
「なんか、弱そうだねー」
「なぬっ」
ぴしゅっ、と鋭利な言葉が突き刺さる。
ぐぬっ、小僧め……。
この俺を前にして、臆面もなくそんな評価をしてくるとは……。
──だが、今はマリィのことが先だ。
ここでムキになっても、大人気ない……フェイ様の器が疑われる。
許してやろう。
今だけはな。
内心で静かにキレながらも、俺は穏やかな笑顔を浮かべた。
うん、我ながら大人になったもんだ。えらいぞ俺。
「こら、失礼なことは言うな。お客さんだって言ったろ?」
ザリーナが苦笑しながら、近くの子供の頭をわしゃわしゃと撫でる。
すると子供たちは「はーい!」と元気に手を振り、
「またねー!」「ツバキちゃーん、お話してねー!」と口々に言いながら、通りの奥へと駆けていった。
その間もツバキは、道ばたの竹垣をぼーっと眺めていた。
お前はお前でなにしてんだよ。
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……そうして通りを抜けると、ついに辿り着いた。
石段の先に構える、風格のある屋敷。
朱の瓦、白銀の柱、巨大な門構え──
神殿のような荘厳さと、どこか人を拒むような静謐さがそこにはあった。
「ここが、我々の屋敷だ」
ツバキが静かに呟き、ザリーナが先に門を押し開ける。
そこからはまるで別世界だった。
──靴を脱がなければならない玄関。
柔らかな光が差し込む回廊。
壁にかけられた書画、かすかに香る白檀の香。
この世界に来て以来、初めて味わう“和の空気”。
元々、東方ガルレイアがこういう雰囲気なのは知っていたが、やはり元日本人としては感動せざるを得ない。
鶯張の廊下を、きしりと音を立てながら進む。
「奥へ。師がお待ちだ」
ツバキの短い言葉とともに、最後の障子がすぅと開かれた。
畳の広間の中央。
上座の一角に、ひとりの老女が正座していた。
肩まで流れる艶やかな白髪。
紅と黒の織り込まれた、格式高い装束。
年老いた顔立ちには深い皺と風格があり──そして、右目の下に走る大きな切り傷。
かつてはきっと、圧倒的な美貌を誇ったに違いない。
だが今は、その瞳の奥に──幾多の修羅場を潜ってきた“覚悟”が宿っていた。
「……どうぞ、こちらへ」
静かに、しかし重みのある声が空間を満たす。
ザリーナに手招きされ、俺はその前に置かれた座布団へと腰を下ろす。
正座しようかとも悩んだが、目を覚まさないマリィをもたれさせながら、あぐらをかかせてもらうことにした。
その両隣に、ツバキとザリーナもそれぞれ座る。
「──はじめまして。ようこそ、我が里へ。私が、この霊峰レヴァンの里長──ベアトリスです」
その声は静かで丁寧。
けれど、底知れない迫力があった。
「あなたが……フェイクラントさんですね?」
「は、はいっ……あの、サイファーから手紙を渡せとの命で馳せ参じましたっ」
咄嗟に背筋が伸びる。
自分でもびっくりするくらいカッチカチな敬語が飛び出した。
……屋敷を外から見てたときから思ってたけど、どんだけ重圧感のあるバアさんだよ。
手紙ひとつ届けに来ただけのはずなのに、まるで王の御前に立たされてるような空気じゃないか……。
「これは……ご丁寧に、ありがとうございます」
静かに微笑みながら、ベアトリスさんは俺の差し出した封筒を受け取った。
両手を添えて、大切なものに触れるように、慎重に。
そして、膝の上でそっと封を解き、中に挟まれていた便箋を取り出す。
──その所作ひとつひとつに、圧倒的な品格が滲んでいた。
たとえ一枚の紙を開くだけでも、彼女の仕草には無駄がなく、凛とした佇まいが崩れない。
ボロ家に引きこもっていたサイファーやレイアさん。
変人街道を爆走していたサイラスや、よく分からんジジイ代表のブリーノ。
──そんな面々の“旧友”とは到底思えないほど、彼女の纏う空気は異質だった。
……あれから、もう二ヶ月か。
手紙を渡す──それだけの目的でここまで来た。
たったそれだけの話が、どれほどの波乱と混乱に彩られてきたことか。
サイラスと脱衣ポーカーをやって、勝ったと思ったらまさかのクロードさんとの命がけの一騎討ち。
海に出れば、魔族の襲来に巻き込まれ、そしてこのカイエン山脈を登ってきた。
氷に爪痕を刻むような過酷な旅の果て──ようやく、ようやくたどり着いた。
手紙一通届けるだけで、どんだけかかってんだよ……。
今さらながら、地球の現代文明の偉大さを骨の髄まで思い知る。
文明ってすげぇな。ポストに入れたら三日後には届くもんな。うん、マジで偉大。
そんなくだらないことを思いながら、俺はふと、ベアトリスさんの指先に目を向ける。
彼女は黙って、ただ静かに、封書の中身を読み進めていた。
筆跡をなぞるように視線を這わせ、眉一つ動かさず、微動だにせず、丁寧に。
その姿勢には、まるで書かれた“言葉”と対話するかのような敬意と集中があった。
そういえば、中身はどんなことが書かれているんだろうか。
俺はこの手紙の内容を一度も見ていない。
サイファーもレイアさんも、ただ「届けてくれ」としか言わなかった。
でも──サイラスがあの時、あれだけ驚いていたということは……かなり重要な話が書かれているのだろう。
てか、そもそもなんで俺が呼ばれたんだ?
普通は手紙を“送る側”が相手を探し、「ベアトリスさんを知らないですか?」とか呼ぶものじゃないのか?
なのに、なぜか“俺が来ること”まで織り込み済みで話が進んでいた。
話があるって言っていたが、大事な用でもあるのだろうか?
ベアトリスさんが、す──と手紙を読み終える。
そして、ゆっくりと視線を上げると、こちらを穏やかに見つめてきた。
「……あ、あの」
我慢できず、俺は声を出してしまう。
自分でも意外なほど、情けないトーンだった。
「あの……聞いていいのかわからないんですけど……その、どんなことが書かれてたんですか……?」
喉の奥が乾き、胸がざわつく。
まるで自分の命運がその便箋に書かれているような気さえして、恐怖と興味が入り混じっていた。
しかし──
「ふふ……」
ベアトリスさんは小さく笑った。
それは、年相応の穏やかさをたたえた微笑──けれど、その奥には、確かに“なにか”を見通す者の気配があった。
「そうですね、あなたを迎えるためにツバキとザリーナを向かわせたことへの説明もありますし、話したい本題も山ほどありますが、まずは──」
そう言いながら、彼女の視線がゆっくりと、俺の胸元へと移動する。
ベアトリスさんが、俺の胸にもたれかかるマリィへと目を向ける。
「──そちらのお嬢さんを、診ましょうか」
「……!」
まるで最初から「それが気になるでしょう」と言わんばかりに俺の無意識の心を読まれた感覚に、背中がぞくりとした。