第百七十三話 「霊峰レヴァンの里」
それからの道のりは──まるで先ほどまでの苦難が嘘のように、穏やかだった。
魔物と遭遇する気配すらない。
まるでこの雪山が、俺たちの通過を黙認しているかのように静まり返っている。
「にしても、たった二人でこの山に挑戦するとか、よく無事だったなぁ……」
先頭を行くザリーナが、呆れたように肩を竦める。
「この辺、運が悪いと一日に三回は大型と鉢合わせすっからよ。冒険者のパーティでも推奨四人以上だぜ?」
「あぁ、いや……まぁ、ずっと二人だったもんで」
「……ったく、本来なら麓の方で迎えに行くつもりが、誰かさんが名前を間違えてたからよ……」
「む……ザリーナ、私は間違えてはいない。ただ、フェイと呼ばれていたので、フェイクラントとは別人だと思っただけだ……」
後ろからぴょこぴょことついてくるツバキが、ぼそぼそと反論する。
だが、その尻尾はしゅんと項垂れており、明らかに気まずそうだ。
どうやら、麓で出会った時は既に俺たちを迎えにきていた算段だったらしい。
だが、マリィが『フェイ』とあだ名で呼ぶもんだから、別人とツバキは捉えてしまったと。
いやしかし──
「フェイだけの名前のやつもいるだろうが、それでも頭文字合ってんだから聞いてみりゃいいだろーが。言い訳すんな」
「うぅ……」
まあ、ザリーナの意見に尽きる。
まぁ、元々迎えがあるとは聞いていなかったので、こちらとしては責めたいわけでもないのだが。
「おっと、こっちの道は一キロくらい先にもう一体ザウルグロスがいるな……道を変えよう」
ザリーナの白いウサギ耳が、ぴこぴこと常に動く。
微かな風の流れにも反応するように動き、周囲の気配を事細かに探っている。
「……ザリーナは、なんかスキルでも使ってるのか?」
「へっ、違う違う。耳さ、耳。こいつで気配を探ってんのよ」
ザリーナがにやりと笑って、自分の白いウサギ耳を指で摘んで見せる。
まるで生き物のように、ぴこぴこと絶え間なく動いていた。
左右非対称に、時に微かに、時にぴくりと大きく。
「空気の揺れ、足音、羽音、魔素の流れ……ぜーんぶ、拾ってるぜ。うちの里じゃ、《風聴の兎》って呼ばれてたくらいなんだからな」
「へえ、すごい……」
素直に感心した。
特別なスキルがあるわけでもなく、身体能力と長年の経験で磨かれた“耳”。
それだけでこの過酷な山中を、まるで散歩道のように進んでいけるとは。
しかも、周囲の魔物の気配を察知するだけでなく、それを避ける最適ルートまで即座に判断している。
彼女の一歩先を歩く背中には、経験に裏打ちされた“狩人”の貫禄があった。
しかし、その一方で──
「……おお、ユキハムシ。この季節にもまだいるのか」
ぴょこぴょこと三角耳を跳ねさせながら、雪面に落ちた小さな虫に目を輝かせているのがツバキだった。
立ち止まり、しゃがみ込み、ふわりと袖を払って虫を見守る。
もはや戦場にいた時とは別人である。
「戦闘だけなら……ツバキはウチで最強なんだけどな。それ以外ではちっとも集中しやがらねぇ」
ザリーナがため息交じりに言った。
「考え事してる時は、こっちの声も届かないし、獣の気配も全部すっぽ抜ける。耳も俺ほどじゃないにしろ、いいはずなのに、もったいねぇっつーか……なんつーか」
「……まぁ、わかる気がするよ」
焚き火の時もそうだった。
あれだけ熱を込めて語った“火の尊さ”も、彼女にとってはどうでもよさそうだった。
たぶん、気になることが頭の中にあると、それだけに集中して他は入らなくなるタイプなのだろう。
戦闘では敵の動きしか見えず、今は虫しか見えていない──
なんというか、極端すぎる。
天才肌ってやつか。
けれど、そんな彼女たちの先導によって、俺とマリィは着実に目的地へと近づいていた。
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──霧が晴れる。
氷結した枝葉をかき分け、最後の急坂を越えた瞬間、目の前に広がったのは──
「……なんだ、これ」
言葉を失った。
そこにあったのは、現実離れしたような風景。
山肌を縫うように築かれた石畳の道。
幾重にも重なり合うように並ぶ建造物は、和風とも中華風とも形容しがたい独特の様式で──
朱塗りの柱と、翡翠色の瓦屋根が連なるその街並みは、どこか幻想的な風情を漂わせていた。
白く煙る霧が、建物の輪郭をふわりと包みこむ。
遠く、岩肌に沿って吊り橋のように架けられた回廊が、風に揺れる。
建物の間には、大小さまざまな水流が走り、そこに浮かぶ水車や風鈴が小さな音を奏でている。
「ここが俺らの里、霊峰レヴァンの里だ」
カイエン山脈のほぼ頂上近くに、こんな里があったなんて。
この場所は、ゲームではまったく存在しなかった。
というより、この山脈自体が「通過するだけのダンジョン」だったはずだ。
街と街を繋ぐための“イベント”として作られただけの、背景的存在だった。
それなのに──
ここには、息づく“生活”があった。
通りを歩くのは、獣人たちだった。
耳を揺らす猫族の女性が市場で果物を吟味していて、
犬耳の子どもたちが焚き火の周囲で追いかけっこをしていた。
その表情に、緊張や不安はない。
戦う日々を生き抜く者たちの、確かな平穏があった。
「……すげぇな。ここ」
「へへ、誇りに思っていいぜ。ここは霊峰に選ばれた者だけが辿り着ける場所だからな」
ザリーナが、どこか誇らしげに言った。
なるほど、だからか。
高ランクの魔物の巣窟だというのに、この場所には、まるで魔物の気配がない。
おそらく簡単には近づけない何かがあるのだろうか。
ていうか、もし二人に見つけてもらえなかったら、どうやってたどり着くんだよ。
「一番奥……あそこが、師の住まいだ」
ツバキが指さす先──
断崖の頂上に建つ一軒の屋敷。
他の建物よりも遥かに高く、重厚で、荘厳。
真紅の屋根瓦と、白銀の柱を持ち、まるで空の神殿のような佇まいだった。
道の途中には、霊獣を模した石像が並び、風が吹くたびに幟がはためいている。
その全てが、ただの権威ではなく、“信仰”と“畏れ”に根ざした重みを帯びていた。
──ベアトリス。
サイファーとレイアが“師”と呼んだ存在。
俺の名前を知り、ここまで導かせた存在。
ようやく──その人物に、辿り着ける。
「フェイ……?」
背中で眠るマリィが、微かに声を洩らす。
「……気がついたか? もう大丈夫だ……ゆっくり休める」
「………………ん」
俺の言葉に、マリィはほんの僅かに身じろぎする。
「……会い、たかったね……」
「うん?」
だが、よくわからないことを一言呟いただけだった。
呼びかけに応えるように見えたのは一瞬だけで、彼女のまぶたは重く閉じたまま。
微かな寝息だけが、俺の肩越しに穏やかに落ちてくる。
──それは、先ほどからずっとそうだった。
意識が戻ったかと思えば、何か小言を呟いて、すぐにまた遠ざかる。
まるで夢と現実のあわいを、あてもなく漂っているかのように。
ときおり、寝言のような囁きを洩らすこともあった。
意味を成さない言葉の断片。
何かにすがるような、誰かを呼ぶような……そんな声だった。
でも、それ以上は覚醒しない。
目を開けようとせず、俺の呼びかけも届かず。
その小さな身体は、まるで力の抜けた人形のように、俺の背に預けられているだけだった。
それでも、俺は今のところあまり焦っていない。
理由の一つとして、彼女の呼吸は安定しているし、脈もある。
神威が暴走しているとかいう気配も感じられない。
だから、恐らくきっと、疲れで眠っているだけ。
……そう、自分に言い聞かせている。
本当は、喉の奥がずっと乾いたままだ。
背に感じる彼女の体温が、いつか急に冷えるのではないかという恐怖を、俺は振り払うように歩いている。
「安心しな、ババアはすげーやつだからよ。きっとすぐに治っちまうって」
先を行くザリーナが、振り返らずにぽつりと呟いた。
その言葉に、嘘はない。軽口のようでいて、どこか本気の信頼が滲んでいた。
「あぁ……」
思わず笑いそうになる肩書きの最後に、かろうじて口を閉ざした。
でも、少しだけ心が軽くなる。
だが──
一体、マリィの身に、何が起きている?
静かに、思考の沼が再び心を覆う。
女神の呪いの影響か。
気づかないうちに何かの魔物の毒でも食らったか。
それとも──もっと深い、根源的な“なにか”か。