第百七十二話 「獣人の案内人」
「……無事か?」
変わらぬ静けさで、俺に手を差し伸べてくる狐女。
凍れる空気に染み込むような──柔らかな声だった。
マリィを片手で支えたまま、俺はその手を借りて立ち上がる。
「あ、あぁ……助けてくれて……ありがとう」
入山する前に、キバ亭で会った焚き火も起こせない天然さんだったとは思えない。
いや、どう見ても別人レベルだろ。
まさに神業のような一撃だった。
「な、なんでこんなところに──」
ジロ、ジロ……
「うおっ!?」
何故こんな山奥にいるのか尋ねようとした瞬間、なぜか距離ほぼゼロで視線がぶつかった。
気がつけば、目の前でじーっと見つめられている。
頭のてっぺんから足先まで、まるで何かの資料を照合するような──そんな目線で。
あまりにも朱の瞳が綺麗すぎて、視線を逸らせない。
しかも、相変わらず三角の大きな狐耳は……ぴこ、ぴこ、ぴこ。
……すげぇ美人でクールな印象なのに、可愛さまで持ってるとか卑怯すぎるだろ。
ほのかに甘い香りが……男としての感覚をくすぐる。
って、無駄に感心している場合じゃない。
思わず一歩後ろに退く。
「なっ、なんすか?」
俺がそう言うと、狐女は静かに袖から一枚の羊皮紙を取り出し、それと俺の顔を交互に見比べ始めた。
なんじゃそりゃ……指名手配書みたいなもんじゃねぇよな……?
と、次の瞬間──
「お前が……“フェイクラント”か?」
「えっ!?」
狐女の口から出てきたのは、俺の本名だった。
いや、焚き火の時に名乗った覚えはないし……マリィも俺のことを呼んではいたが、それは“フェイ”って愛称を呼んでただけのはずなんだが。
「違うのか?」
俺が一人で困惑していると、狐女は再び淡々と尋ねてきた。
「い、いや、そうだけど……。なんで俺の名前を……?」
「ふむ、そうだったか。実は──」
狐女が口を開いたその瞬間。
──ゴゴゴゴ……
瓦礫を押しのけるような音が背後から響く。
視線を向けると、倒れたはずの《鋼背竜ザウルグロス》が、再び身体を起こし始めていた。
「ちょっ!?」
まだ生きてたのか!?
いや、あの体躯じゃ一撃で倒すのは流石に無理だったか。
構え直す俺とは対照的に、狐女はまるで気にする様子もなく、話の続きを紡ぎ始めた。
「私は“ツバキ”という。師──“ベアトリス”の使者として、お前を迎えに来た」
「今それどころじゃねぇだろ!! 後ろ、後ろっ!!
全速力でこっちに突っ込んでくるザウルグロス。
あの質量に正面から衝突されたら、いくら神威があってもただじゃ済まない!
俺は咄嗟に神威を脚部に集中させ、マリィを抱えたまま跳躍しようとした──その瞬間、
「む、人の話はちゃんと聞きなさいと教わらなかったのか?」
ツバキが、俺の腕をがっちり掴んできた。
「は!? いやいやいや! 魔物が突進してきたら逃げろって教わらなかったのかよぉおおおッ!!」
叫び返す俺とは裏腹に、彼女はふっと目を閉じた。
「──心配いらん」
その言葉が落ちると同時に。
──キィイイイイイン!!
大気が凍りついた。
ザウルグロスの足元から爆発するように走る氷の筋。
瞬く間に広がる冷気が、竜の巨体を中心にして四方八方に走り、その咆哮ごと凍てつかせた。
「……っな……!?」
派手な音もなく、ザウルグロスの突進が止まった。
まるで時間が凍ったかのように。
黒鋼の鎧ごと氷結し、その巨体は淡い蒼の彫像と化していた。
俺は言葉を失ったまま、ただ見つめるしかなかった。
ツバキの足元から吹き上がる霧氷が、静かに風に舞い上がる。
それはまるで──彼女の呼吸が、空気そのものを支配しているかのようで。
「……お前……何者だよ……」
ツバキは、ほんの僅かに微笑を浮かべた。
「言ったはずだ。“我が師・ベアトリス”の使者だと」
──氷のように凛とした、その声が胸の奥に刺さる。
氷のように澄んだ声が、白い風を切り裂く。
その言葉が、俺の胸の奥に不思議な余韻を残した。
ベアトリス──サイファーから預かった手紙の宛先。
レイアさんも、その名を口にしていたはずだ。
そのベアトリスの“使者”ってことは、つまりこのツバキは弟子ってことか?
いや、それよりも……なんで俺の名前を知ってるんだ?
サイファーが俺のことを伝えていたのか?
いや、そもそも俺に手紙を出させる時点で他に連絡手段があるとは思えないし……。
……あぁもう、謎が多すぎる。
混乱する思考をなんとか押さえつける。
でも、ひとつだけわかることがある。
ツバキは、俺たちを迎えに来た。
この地のどこかにいるベアトリスのもとへ、案内するために。
……ってことでいいんだよな?
俺が確認しようとした、そのときだった。
「ツバキー! 先行くなっていつも言ってんだろぉ!?」
朗々とした声が、崖の上から響いた。
反射的に見上げたその先──
雪煙を巻き上げながら、一人の獣人が岩の尾根から飛び降りてきた。
身軽な身のこなしで着地し、真っ直ぐこちらへと歩いてくる。
ピンと立った白いウサギ耳。
艶やかな焦げ茶の髪を無造作に束ねた、精悍な女性だった。
背には弦を外した巨大な弓。
肩にかかる矢筒は満載で、どう見ても本職のスナイパー。
機動力重視の簡素な装束は、動きやすさを意識しているのだろう。
戦士というよりは、猟兵……いや、狩人か。
「む、心配ないザリーナ。もう二度と道には迷わないと──」
「何回目だその言葉ァ!!」
──ごんっ!!
叫ぶや否や、ザリーナと呼ばれた彼女はツバキの頭にゲンコツを叩き込んだ。
「あうっ……!」
鈍い音を立て、ツバキがその場でしゃがみ込む。
狐耳がぴこーんと震えた後、しょぼんと垂れた。
頭を抱え、涙目でうずくまるその姿は、さっきまでザウルグロスを凍らせた“氷刃の使い手”とは思えない。
「…………いたい……」
蚊の鳴くような声が、耳に届いた。
……なんだこれ。
こっちがツッコミ入れたくなるくらい落差激しすぎないか?
「俺が見つけてやんなきゃいっつも迷子になってんじゃねーか! おん? 探すこっちの身にもなれってんだよ、なァ、ツバキィ!?」
「ひゃい……」
怒鳴りながら、ザリーナが耳を引っ張る。
まるで姉が妹を叱っているような光景だった。
いや、それにしても手加減ゼロ。
涙目になりながらしゅんとするツバキを見ていると、先ほどまでの戦闘との落差に脳がバグりそうになる。
……焚き火のとき、きゃあ! って叫んでたのも、素だったのか。
戦闘時とのギャップがえぐい。
この二人──仲間、なのか?
「ん? そいつらは?」
ザリーナと呼ばれた兎女がようやく俺とマリィの存在に気づいたのか、ふっと眉をひそめる。
「師が言っていた人だ……」
「そうか。じゃあ早く行こう」
ザリーナは手早く弓を背負い直し、俺たちに背を向けて歩き出した。
その背中には、風雪すら拒むような自信と貫禄がある。
「師が待っている。話したいことがあると……同行願えるか?」
ツバキは、先ほどまでの涙目が嘘のように真顔に戻り、静かに俺へと問いかけた。
切り替え早すぎんだろ……。
でも、確かにこれは好機かもしれない。
ベアトリス──直接の面識はないが、サイファーの知人であり、レイアさんとも関わりがあるという。
つまり、敵ではない可能性が高い。
彼女の口から俺の名前が出たことも、それなら納得がいく。
ただ、手紙を届けに来ただけ……だったはずなのに、「話したいことがある」とまで言われるとなれば、何か引っかかるものはある。
それに、マリィはまだ意識を取り戻していない。
このまま山中を彷徨い続けるよりは、安全な拠点へ避難する方が先決だし、目的地の方から来てくれたのであれば、願ってもない。
「……わかった。よろしく頼む。マリィのことも診てほしい。さっきから目を覚まさなくて……」
俺は小さく頷いて、マリィを背負い直す。
まずはマリィのことが心配だ。
「承知した、我々の里で診るとしよう。案内する」
「案内するのはお前じゃなくて俺だけどな」
ツバキの凛とした口調に、すかさずザリーナのツッコミ飛んでくる。
「……ザリーナが案内してくれる」
「はぁ……もう、頼むから二度と先走んなよ?」
ため息をつきながら、ザリーナが振り返る。
その表情には、呆れを超えた“諦めの慣れ”のようなものが滲んでいた。
けれど、そのやり取りに、どこか温かさを感じるのはなぜだろう。
この二人──きっと長い付き合いなのだろう。
言葉少なでも、確かな信頼が見える。
雪を踏みしめ、俺たちは新たな目的地へと歩き出す。
「とにかく……一応目的地までは辿り着けそうだな……」
……疑問はあった。
なぜ俺のいる場所がわかったのか。
あと、サイファーやレイアさんがどうやって俺のことをベアトリスさんという人に伝えた手段とか。
たしかに二人は俺の「師」だが、詳しくは知らないんだよなぁ。
昔のことは聞いても話したがらないし。
ベアトリスさんも友人なら、二人のことを聞くいい機会になるかもしれない──
「マリィ、もう大丈夫だからな。向こうに着いたら、ゆっくり休憩しよう」
「……だ……き…………あ…………った……」
「抱き合った?」
マリィは気を失いながらも、寝言のように言葉を放っていた。
それがなんなのかはわからない。
夢を見ている……なんて程度であればいいのだが。