表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

177/227

第百七十一話 「凍えるような距離」

 ──入山五日目。


「フェイ! 今日はそろそろ休む? 私はまだまだいけるよっ!」

「あ、あぁ……どうするかな……」


 深く積もった雪を踏みしめながら、俺はマリィの元気そうな声に曖昧な返事を返した。

 あれから、俺たちは山の中腹を超えたあたりまでなんとか進んだ。


 そしてこの三日間、彼女はずっと“元気そうな”ふるまいを貫いている。

 二日目の昼過ぎ──俺の手を強く振り払ってしまった、あの瞬間以降。


 それ以来、彼女はまるで何事もなかったかのように振る舞っている。

 笑って、ふざけて、いつも通りに俺に話しかけてくる。


 けれど──


 彼女は、もう三日間、一度も俺に触れていない。

 夜は同じ焚き火を囲んでいても、膝が触れるほど近くには座らず、眠る時もいつの間にか俺から距離を取るようになっていた。

 まるで、出会ったばかりのマルタローが俺にしていたのと同じように。


 疲れが溜まっているのだろうか……とも考えたが、あまりそういう気はしない。

 それが原因だったとして思い当たる節があるとするなら、まだ俺がこの世界に来てまもない頃、クリスを過労で倒れさせてしまったことが頭に過ぎる。

 今も同じ、戦えないことはないが、明らかにマリィが担う負担の方が大きい戦闘の連続で、知らずの間に疲弊させてしまっているか。


 どちらにせよ、無理はさせたくない。

 けれど、無理をしなければ共倒れになってしまう状況ならば、彼女は意地でも無理をするだろう。


 しかし彼女は──


「私は本当に大丈夫だからね! 疲れてなんかないし、むしろ調子がいいのっ!」


 笑顔のまま、マリィはむんっと力こぶを作って見せる。


 情けないな、俺。

 その言葉にさえ、俺は甘えてしまいそうになる。


「……無理し過ぎないように、とは思うけど……そういうなら、あの木までは行こうか」

「うん! もちろん! 今日もいっぱい食べたから、全然余裕!」


 元気いっぱいにそう答えながら、マリィはにっこりと笑ってみせた。

 その笑顔は、確かにいつもの彼女らしく見える──けれど。


 その瞳の奥に、どこか薄氷のような脆さを感じたのは、きっと気のせいではない。

 俺はそんな違和感を見て見ぬふりするように、軽く笑いながら口を開く。


「ふっ、そうだな。食べた分は、働いてもらわないとな」


 いつもの調子。

 冗談めかした軽口と共に、いつものようにマリィの肩をぽんと軽く叩いた──


 ──それだけのはずだったのに。


「あっ……、きゃあぁぁぁあああッ!!」

「……っ!?」


 マリィが甲高い悲鳴を上げながら、三日前と同じように俺の手を振り払った。

 顔を真っ赤にしながら、まさに"否定"するかのように。

 それだけならまだしも──


「わっ──」


 バランスを崩したマリィの足が、小石に引っかかる。


 彼女の身体がふわりと宙に浮き、雪の斜面に向かって転倒していく。

 尻餅をついた音が、やけに乾いた響きと共に耳に残った。


「……お、おい。肩を叩いただけで、そんなに驚くか……?」


 雪を払って立ち上がろうとするマリィに、俺は慎重に声をかけた。

 怒鳴るでも、責めるでもなく──ただ、理解したかった。


 何が、彼女をそんなに追い詰めているのか。


「ご、ごめん……つい……フェイの顔を見たら、その……なんだか……ううん……」


 顔を真っ赤に染め、うつむいたまま、マリィはごにょごにょと声を濁す。

 目は合わない。

 手はぎゅっと拳を握り締め、肩が小刻みに震えている。


 ──これはもう、間違いない。


 彼女の中で、何かが壊れかけている。


 見えない傷。

 俺にはまだわからない“何か”が、マリィの中でずっと燻っている。


「……マリィ、何かあるんだろ?」


 俺はそっとしゃがみ込み、彼女の目線に視線を合わせた。

 雪に尻餅をついて震えている彼女の両肩へ、ゆっくりと手を伸ばす。


「大丈夫。ゆっくりでいいから……ちゃんと話してほしい。俺は、お前の力になりたい」


 だが──その手が、マリィの肩に触れた瞬間。


「っ──!」


 びくん、と彼女の身体が跳ねた。

 触れているのは薄布の肩越し、それでも──まるで熱湯をかけられたような拒絶。


「マリィ……?」


 戸惑いを込めてもう一度声をかける。

 しかし、彼女は唇を震わせ、その視線は俺の顔から逸らしている。

 怯えるように震えながら、ぽつりと──


「……やめて……」


 か細く、泣き出しそうな声だった。

 眉を寄せ、肩を震わせながら、マリィは俺の手を押し返そうともせず、ただ俯いた。


 明らかに異常だ。

 拒絶ではない。逃避でもない。

 けれど、その表情に浮かんでいたのは──恐怖にも似た、怯えの色。


「……ごめん。俺、何もわかってないけど──」


 教えて欲しい。

 マリィが今、何に怯え、何に悩んでいるのか。

 それすらもわかってないダメな俺に、全部ぶちまけて欲しい。


 自分の無力さが、痛いほど突き刺さる。


 しかし、俺がもう一歩マリィに歩み寄ろうとした瞬間──


 ──ドゴォォォォンッ!!


 吹き飛ぶ雪。凍土を割る大地の咆哮。

 そして、響き渡るのは耳を劈くような、野獣の咆哮──


「ッ……!」


 俺は反射的にマリィを抱き寄せ、振り返った。


 視界の向こう、岩壁を突き破るようにして姿を現したのは、背中に硬質な黒鎧を纏った大型魔物。


 《鋼背竜ザウルグロス》


 背面を覆う無数の骨鎧が、鉄鉱石のようにきらめくBランク魔物。

 肩から背にかけてはまるで戦車の車体のように重厚で、鼻先にはバルド鉱のような角が一対、鋭く突き出している。


 その巨体が、雪を爆ぜさせながらこちらへと突進してきた。


 マリィの悲鳴に嗅ぎ付けて来たか!?

 とにかく、今すぐにでも避けなければ、俺たちは二人とも轢き殺される。


「っくそ……マリィ、今は動けるか!?」

「……っ、あ…………ぁ…………」


 俺の腕の中で、マリィの身体がかすかに震える。

 だが、その視線は焦点を結んでおらず、口元から漏れる声ももはや言葉になっていない。


 ──ダメだ。完全に意識が飛んでる。


 あの悲鳴、あの転倒、そして俺が不用意に肩に触れたこと。

 そのすべてが引き金となり、彼女の中で何かが崩れ落ちた。


 なんだ……?

 俺の何が彼女を傷つけているんだ!?


「グォオオオオオオオッ!!」


 しかし、このままではザウルグロスの質量を前に吹き飛ばされてしまう。

 俺が前に出て神威で受け止めても、衝撃波がマリィを襲うだろう。

 かと言ってマリィを担いで逃げるにしても、間に合うかどうか──


「っ……!」


 背後に迫る雷鳴のような踏み鳴らし。

 逃げることも、真正面から迎え撃つことも不可能。

 

「く、そぉッ!」


 瞬時に神威でマリィごと身体を包み込むように展開。

 淡い光が俺たちを包む。


 しかし、それで防げるというわけではない。

 大ダメージは覚悟の上だ。


 だけどせめて──せめて、マリィだけでも守れれば。


 俺は彼女の小さな身体を胸に抱き寄せる。

 震えるその肩に、自分の鼓動を重ねるように。


 突進音が、耳を裂くような悲鳴となって迫ってくる。


「──────!」


 その、瞬間だった。


 ──キィィィインッ!!


 空気を切り裂いたかのような剣音。

 そして──


「──《凍牙・一閃》」


 それは、囁くような小さな声だった。

 だが、たしかに耳に届いた。


 刹那、ザウルグロスの突進軌道を、凍てついた青白い閃光が真横から断ち切った。


 ──ドゴォォォン!!


 地響きを伴って、巨体が横薙ぎに吹き飛ばされる。

 黒鋼の甲殻が砕け、鋭く隆起した氷の棘がその脇腹を貫いた。


「っ、な──!?」


 あまりに唐突で、理解が追いつかない。

 ザウルグロスは転がりながら数メートル先の岩壁に激突し、そのまま雪煙に呑まれていく。


 俺はマリィを抱き締めたまま、呆然と立ち尽くす。


 ──助かった、のか?


 しかし、それよりも先に浮かぶのは、ただ一つの疑問だった。


 誰だ……今のは?


 視線を巡らせる。

 雪の帳の向こう、岩陰に浮かび上がる人影がひとつ。

 白銀に染まる世界のなかで、ひときわ深い紅を宿した瞳が、こちらをまっすぐに射抜いてくる。


 ──見覚えがあった。

 その少女は、山の麓で出会った“狐女”だった。


 柔らかな装束の裾が風にたなびき、背後に広がるのは、絵巻物のように美しいもふもふの尻尾。

 そして、腰に佩いた一振りの刀は、すでに静かに鞘へと収められていた。


「……無事か?」


 それは、あまりにも簡潔で、あまりにも静かな声だった。

 けれど、その声は、今にも崩れ落ちそうな俺の内側に、すっと冷たい風を吹き込む。


 目の前で、明確に“殺意”を見せた魔物を瞬時に排除したというのに、彼女の呼吸は乱れていない。


 山の麓で、アホみたいな焚き火をしていた少女とは思えない凛とした姿が、そこにはあった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
巫女さん数日ぶり?やはり刀持った巫女さんは強いな(偏見 マリィは問診すらできないんじゃ原因もわからん…どなたかお医者様はおられませんかー!
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ