第百七十一話 「凍えるような距離」
──入山五日目。
「フェイ! 今日はそろそろ休む? 私はまだまだいけるよっ!」
「あ、あぁ……どうするかな……」
深く積もった雪を踏みしめながら、俺はマリィの元気そうな声に曖昧な返事を返した。
あれから、俺たちは山の中腹を超えたあたりまでなんとか進んだ。
そしてこの三日間、彼女はずっと“元気そうな”ふるまいを貫いている。
二日目の昼過ぎ──俺の手を強く振り払ってしまった、あの瞬間以降。
それ以来、彼女はまるで何事もなかったかのように振る舞っている。
笑って、ふざけて、いつも通りに俺に話しかけてくる。
けれど──
彼女は、もう三日間、一度も俺に触れていない。
夜は同じ焚き火を囲んでいても、膝が触れるほど近くには座らず、眠る時もいつの間にか俺から距離を取るようになっていた。
まるで、出会ったばかりのマルタローが俺にしていたのと同じように。
疲れが溜まっているのだろうか……とも考えたが、あまりそういう気はしない。
それが原因だったとして思い当たる節があるとするなら、まだ俺がこの世界に来てまもない頃、クリスを過労で倒れさせてしまったことが頭に過ぎる。
今も同じ、戦えないことはないが、明らかにマリィが担う負担の方が大きい戦闘の連続で、知らずの間に疲弊させてしまっているか。
どちらにせよ、無理はさせたくない。
けれど、無理をしなければ共倒れになってしまう状況ならば、彼女は意地でも無理をするだろう。
しかし彼女は──
「私は本当に大丈夫だからね! 疲れてなんかないし、むしろ調子がいいのっ!」
笑顔のまま、マリィはむんっと力こぶを作って見せる。
情けないな、俺。
その言葉にさえ、俺は甘えてしまいそうになる。
「……無理し過ぎないように、とは思うけど……そういうなら、あの木までは行こうか」
「うん! もちろん! 今日もいっぱい食べたから、全然余裕!」
元気いっぱいにそう答えながら、マリィはにっこりと笑ってみせた。
その笑顔は、確かにいつもの彼女らしく見える──けれど。
その瞳の奥に、どこか薄氷のような脆さを感じたのは、きっと気のせいではない。
俺はそんな違和感を見て見ぬふりするように、軽く笑いながら口を開く。
「ふっ、そうだな。食べた分は、働いてもらわないとな」
いつもの調子。
冗談めかした軽口と共に、いつものようにマリィの肩をぽんと軽く叩いた──
──それだけのはずだったのに。
「あっ……、きゃあぁぁぁあああッ!!」
「……っ!?」
マリィが甲高い悲鳴を上げながら、三日前と同じように俺の手を振り払った。
顔を真っ赤にしながら、まさに"否定"するかのように。
それだけならまだしも──
「わっ──」
バランスを崩したマリィの足が、小石に引っかかる。
彼女の身体がふわりと宙に浮き、雪の斜面に向かって転倒していく。
尻餅をついた音が、やけに乾いた響きと共に耳に残った。
「……お、おい。肩を叩いただけで、そんなに驚くか……?」
雪を払って立ち上がろうとするマリィに、俺は慎重に声をかけた。
怒鳴るでも、責めるでもなく──ただ、理解したかった。
何が、彼女をそんなに追い詰めているのか。
「ご、ごめん……つい……フェイの顔を見たら、その……なんだか……ううん……」
顔を真っ赤に染め、うつむいたまま、マリィはごにょごにょと声を濁す。
目は合わない。
手はぎゅっと拳を握り締め、肩が小刻みに震えている。
──これはもう、間違いない。
彼女の中で、何かが壊れかけている。
見えない傷。
俺にはまだわからない“何か”が、マリィの中でずっと燻っている。
「……マリィ、何かあるんだろ?」
俺はそっとしゃがみ込み、彼女の目線に視線を合わせた。
雪に尻餅をついて震えている彼女の両肩へ、ゆっくりと手を伸ばす。
「大丈夫。ゆっくりでいいから……ちゃんと話してほしい。俺は、お前の力になりたい」
だが──その手が、マリィの肩に触れた瞬間。
「っ──!」
びくん、と彼女の身体が跳ねた。
触れているのは薄布の肩越し、それでも──まるで熱湯をかけられたような拒絶。
「マリィ……?」
戸惑いを込めてもう一度声をかける。
しかし、彼女は唇を震わせ、その視線は俺の顔から逸らしている。
怯えるように震えながら、ぽつりと──
「……やめて……」
か細く、泣き出しそうな声だった。
眉を寄せ、肩を震わせながら、マリィは俺の手を押し返そうともせず、ただ俯いた。
明らかに異常だ。
拒絶ではない。逃避でもない。
けれど、その表情に浮かんでいたのは──恐怖にも似た、怯えの色。
「……ごめん。俺、何もわかってないけど──」
教えて欲しい。
マリィが今、何に怯え、何に悩んでいるのか。
それすらもわかってないダメな俺に、全部ぶちまけて欲しい。
自分の無力さが、痛いほど突き刺さる。
しかし、俺がもう一歩マリィに歩み寄ろうとした瞬間──
──ドゴォォォォンッ!!
吹き飛ぶ雪。凍土を割る大地の咆哮。
そして、響き渡るのは耳を劈くような、野獣の咆哮──
「ッ……!」
俺は反射的にマリィを抱き寄せ、振り返った。
視界の向こう、岩壁を突き破るようにして姿を現したのは、背中に硬質な黒鎧を纏った大型魔物。
《鋼背竜ザウルグロス》
背面を覆う無数の骨鎧が、鉄鉱石のようにきらめくBランク魔物。
肩から背にかけてはまるで戦車の車体のように重厚で、鼻先にはバルド鉱のような角が一対、鋭く突き出している。
その巨体が、雪を爆ぜさせながらこちらへと突進してきた。
マリィの悲鳴に嗅ぎ付けて来たか!?
とにかく、今すぐにでも避けなければ、俺たちは二人とも轢き殺される。
「っくそ……マリィ、今は動けるか!?」
「……っ、あ…………ぁ…………」
俺の腕の中で、マリィの身体がかすかに震える。
だが、その視線は焦点を結んでおらず、口元から漏れる声ももはや言葉になっていない。
──ダメだ。完全に意識が飛んでる。
あの悲鳴、あの転倒、そして俺が不用意に肩に触れたこと。
そのすべてが引き金となり、彼女の中で何かが崩れ落ちた。
なんだ……?
俺の何が彼女を傷つけているんだ!?
「グォオオオオオオオッ!!」
しかし、このままではザウルグロスの質量を前に吹き飛ばされてしまう。
俺が前に出て神威で受け止めても、衝撃波がマリィを襲うだろう。
かと言ってマリィを担いで逃げるにしても、間に合うかどうか──
「っ……!」
背後に迫る雷鳴のような踏み鳴らし。
逃げることも、真正面から迎え撃つことも不可能。
「く、そぉッ!」
瞬時に神威でマリィごと身体を包み込むように展開。
淡い光が俺たちを包む。
しかし、それで防げるというわけではない。
大ダメージは覚悟の上だ。
だけどせめて──せめて、マリィだけでも守れれば。
俺は彼女の小さな身体を胸に抱き寄せる。
震えるその肩に、自分の鼓動を重ねるように。
突進音が、耳を裂くような悲鳴となって迫ってくる。
「──────!」
その、瞬間だった。
──キィィィインッ!!
空気を切り裂いたかのような剣音。
そして──
「──《凍牙・一閃》」
それは、囁くような小さな声だった。
だが、たしかに耳に届いた。
刹那、ザウルグロスの突進軌道を、凍てついた青白い閃光が真横から断ち切った。
──ドゴォォォン!!
地響きを伴って、巨体が横薙ぎに吹き飛ばされる。
黒鋼の甲殻が砕け、鋭く隆起した氷の棘がその脇腹を貫いた。
「っ、な──!?」
あまりに唐突で、理解が追いつかない。
ザウルグロスは転がりながら数メートル先の岩壁に激突し、そのまま雪煙に呑まれていく。
俺はマリィを抱き締めたまま、呆然と立ち尽くす。
──助かった、のか?
しかし、それよりも先に浮かぶのは、ただ一つの疑問だった。
誰だ……今のは?
視線を巡らせる。
雪の帳の向こう、岩陰に浮かび上がる人影がひとつ。
白銀に染まる世界のなかで、ひときわ深い紅を宿した瞳が、こちらをまっすぐに射抜いてくる。
──見覚えがあった。
その少女は、山の麓で出会った“狐女”だった。
柔らかな装束の裾が風にたなびき、背後に広がるのは、絵巻物のように美しいもふもふの尻尾。
そして、腰に佩いた一振りの刀は、すでに静かに鞘へと収められていた。
「……無事か?」
それは、あまりにも簡潔で、あまりにも静かな声だった。
けれど、その声は、今にも崩れ落ちそうな俺の内側に、すっと冷たい風を吹き込む。
目の前で、明確に“殺意”を見せた魔物を瞬時に排除したというのに、彼女の呼吸は乱れていない。
山の麓で、アホみたいな焚き火をしていた少女とは思えない凛とした姿が、そこにはあった。