第百七十話 「異変」
カイエン山脈──入山二日目
吐く息は白く、頬を撫でる風は凍えるほどに冷たい。
だが、眼前の魔物は容赦なく牙を剥いていた。
「ッ……オラァアアアッ!!」
喉が裂けるほどに叫びながら、俺は地を蹴った。
身体を大きく捻り、足裏に全身の反動を乗せる。
狙いは、目の前に立ち塞がる魔物《灰鋼のマンモーニス》。
象に酷似した巨大魔物で、厚い皮膚と鋼鉄のような牙が特徴。
このカイエン山脈に陣取る、中型クラスの強敵だ。
大上段から叩き下ろした剣が、マンモーニスの首元に深く食い込む。
──ズドン!!
そのまま巨体が大地に崩れ落ち、雪が爆ぜ、地面が揺れる。
「ふぅ……」
肩で息をしながら剣を引き抜く。
……やっぱり、想像以上に骨が折れる。
ゲーム時代にこの辺りへ到達していたエミルのレベルは確か40を超えていたはずだ。
一方の俺は、ようやく35を越えたばかり。
神威で一時的にステータスを底上げできるとはいえ、基礎能力の差は如実に出る。
一体仕留めるだけでも、これだけ時間がかかるなんて──
──ズサリッ
「な……っ!? まだ動けるのかよ!?」
倒れたはずのマンモーニスが、痙攣しながらも四肢を動かし始めた。
ずるり、と長い鼻が唸りを上げる。
反射的に身を引こうとした次の瞬間──
「ブォオオオオオオン!!」
「げっ──!?」
巨体からは想像できない速度で、鼻が横薙ぎに振るわれた。
避ける間もなく、俺の腹部に直撃。
──ドゴォン!!
鈍い音と共に、俺の身体は宙を舞った。
地面を転がり、雪煙を巻き上げながら背中から着地。
痛みの感覚より先に、肺から空気が抜けた。
「……っ……!」
それでも起き上がろうとした刹那──
マンモーニスが咆哮し、巨大な前足を振り上げる。
まるで山が落ちてくるかのような圧。
「くっ……!」
咄嗟に剣を構え、神威を込める。
だが。
──ズガアァァァァン!!
振り下ろされた蹄の一撃が、剣ごと俺を地面に叩き潰す。
雪原が砕け、クレーター状に抉れる大地。
「が……はッ……!」
そのまま、鼻の追撃──
「うおっ!?」
鼻に蹴り飛ばされるように転がり、またしても雪を撒き散らす。
息が乱れ、関節という関節が軋む。
だが、なんとか片膝をついて体勢を立て直す。
「いたたたたたっ……!」
クソ……人をボールみたいに蹴りやがって。
けど──
「……あんな巨体に踏まれても、折れてねぇな……」
サイファーから譲り受けた魔素の“常用”は、知らぬ間に俺の肉体を随分と強化していたらしい。
レベル差があっても、普通じゃこうはいかない。
「でも、火力は足りてねぇんだよなぁ……」
攻撃力だけは別の話だ。
防御と耐久が上がっても、一撃の重さは自分の力頼み。
俺は再び剣を握り直し、吼えるマンモーニスに向かって突っ込む──!
──が、
「フェイーッ!!」
次の瞬間、獣の咆哮を割って飛び込んできた影。
風を裂く音と共に、俺の横をマリィが駆け抜けた。
「はぁああああっ!!」
振りかぶった脚が、真横からマンモーニスの脇腹に炸裂。
凄まじい破壊音と共に、マンモーニスの数トンある巨体が宙を舞った。
……あの鈍重そうな塊が、まるで羽根のように軽く跳ねる光景に、脳が処理を諦める。
そのまま、マンモーニスは石壁へ激突。
骨の軋む音と断末魔が響き──
「ぶぉおおおおおおんッ!!」
直後、崩れた瓦礫にその身を埋められ、ようやく動かなくなる。
「フェイ!! 大丈夫!?」
「あ、あぁ……助かった……」
息を切らしながら頷いた。
……くそ、やっぱ覚醒してるだけ別クラスだよなぁ。
俺もあれくらいの怪力があったら、もっと余裕持って戦えるのに。
だが、安堵も束の間だった。
──ギャアアアアアアアアッ!!
空が、鳴いた。
風を裂いて舞い降りてきたのは、二体の飛竜種──《嵐翼ワイバーン》。
鋭く湾曲した翼に、雷のような斑紋が走る異種個体。
カイエン山脈の空域を縄張りとする、空の魔物だ。
「ぐッ! マリィは一体引きつけてくれ!!」
「分かった!」
マリィが左のワイバーンへと走り出す。
俺は右側の個体と対峙し──剣を構える。
だが、
「ッ──!」
手にした剣の刃が、細かく欠けているのに気づく。
「クソ……もうお釈迦かよッ!!」
これでは戦えない。
俺は使い物にならなくなった剣を投げ捨て、神威の剣を創造。
神威は折れない剣としては有用だが、かなり体力を使ってしまう。
が、気にしている場合ではない。
ワイバーンが喉奥から風圧を膨らませ──
「ブレスか……!」
その予兆を感じ、即座に回避行動を取る。
荒れ狂う風の奔流が俺の立っていた場所を薙ぎ払い、雪原が一瞬で吹き飛ばされる。
……だが、その瞬間。
「……こっちの番だ」
神威を解放。
俺の腕から伸びる神威が光り輝き、空気が震える。
跳躍──そして一閃。
「────ッ!!」
斬撃が、風を裂き、空を駆ける。
──ズバアアアアッ!!
飛翔するワイバーンの首が、無音のまま地面へと転がった。
倒れるまでの時間差。
風すらも置き去りにする、一撃必殺の神威の剣。
「……っしゃあ」
飛翔するワイバーンの首が、無音のまま地面へと転がった。
山風すら切り裂く一閃。
着地と同時に、俺は雪の上で膝をつき、息を整える。
──ギリギリ、だな。
剣を握る手が震えていた。
体内で暴れ回る神威の余波が、筋肉と神経を容赦なく削っていく。
そんな俺のもとへ、吹き飛ばされた雪煙の向こうから──
「フェイっ!!」
マリィが駆けてきた。
ぴょん、ぴょん、と。
凍結した岩肌の上を器用に跳ねるようにして、俺の元へ一直線に。
「……あぁ、大丈夫だ」
目の前まで来たマリィの髪をくしゃっと撫でながら、微笑む。
少しでも安心させたかった。
──けれど、疲労は限界に近い。
「今日は、もう無理はしない。初日に休んだ地点まで戻ろう」
「うん……」
マリィも素直に頷く。
彼女の頬はうっすらと紅潮し、額には細かい汗が浮かんでいる。
──無理をさせているのは、俺の方なんだ。
「転移魔術──」
掌を掲げて詠唱を終えると、空間の歪みと共に、俺たちは一瞬で掻き消えた。
---
──カイエン山脈、東麓の休憩地点。
小さな洞窟のように岩がせり出した天然のくぼ地。
風の入り込みも少なく、野営にはちょうどいい。
「ふぅー……」
洞窟の隅に転がる岩に腰を下ろし、俺は壁にもたれかかった。
今にも凍りつきそうな空気を、吐息が温かく染めていく。
「フェイ、すごかったね! あんなデッカい魔物に踏まれてもなんともないなんて!」
「いや、めちゃくちゃ痛いよ……マジで……。戦ってる間はアドレナリンでごまかされてただけだからな。剣も……もう使い物にならねぇし……」
「……そっか……」
マリィも俺の隣に腰を下ろした。
その仕草はいつも通りに見えるけど、どこか、無理をしているような……そんな気がした。
雪に白く染まったブーツ。
泥と返り血に汚れた裾。
それでも、疲れた顔を見せまいと微笑む彼女に、胸が締めつけられる。
──全部、俺の未熟さのせいだ。
魔術は数発放てば魔力切れで息が上がる。
神威だって、使えば代償がデカすぎる。
結局、数回攻撃すればすぐにバテて、あとはマリィ任せ。
それじゃ……いつか、本当に後ろに倒れるしかなくなる。
しかも、目的地であるベアトリスさん──あの人は、この山脈の頂上付近にある《霊峰レヴァンの集落》にいるらしい。
……こんなペースで、本当に辿り着けるのか?
「ふぅ……ふぅ……」
隣から、マリィの荒い呼吸が聞こえる。
氷のように冷えた空気を吸い込み、吐き出すたびに、彼女の肩が細かく揺れる。
首元から零れる汗が、雪の中に吸い込まれていった。
「マリィ……?」
声をかけながら、じっと彼女の様子を窺う。
紅潮した頬、薄く開いた唇。息遣いは荒く、肩の揺れが落ち着かない。
しかし、俺の呼びかけは聞こえなかったのか、マリィはうつむいたまま動かない。
「マリィ、大丈夫か?」
気遣いを込めて、もう一度声をかけながら、そっと顔を近づける。
すると──
「えっ」
小さく跳ねるようにして、マリィが顔を上げた。
その瞳が、一瞬、どこか虚ろに見えた気がした。
まるで、俺が近づいたことにまったく気づいていなかったかのように。
意識が少しだけ、ここから離れていたような──
そして、ぼんやりとしたまま俺を見つめ返しながら、唐突に、こんな言葉を口にする。
「あ……うん、そうだよね! 二人で頑張ればきっと登りきれるよね!」
「え……あぁ、うん」
俺は、登り切れる話なんて、一言も言っていない。
ただ、「大丈夫か?」と聞いただけだ。
それなのに、まるで“そう言われたのだろう”という前提で返してきた。
俺に合わせようと、空気を読もうとしているかのような──少しだけ、痛々しいほどの笑顔。
……やっぱり、無理をさせすぎてしまったのかもしれない。
身体だけじゃない。
心にも、疲れが溜まっているのだ。
「……今日は、もう早めに休もう」
そう提案すると、マリィは一瞬だけ表情を固くした後、作り笑いのように笑って言った。
「わかった。じゃあ……わ、わたし……焚き火用の薪、取ってくるねっ!」
その笑顔には、どこか“ごまかし”の色が見え隠れしていた。
俺を気遣っているのか、それとも自分の中の何かから目を逸らしたいのか。
けれど──
「──っ!?」
立ち上がったその瞬間、マリィの身体がふらりと傾いた。
「マリィっ!」
反射的に手を伸ばし、その腕を掴んで支える。
けれど──
「……さわらないでっ!!」
「なっ!?」
その手は、思いがけないほど強い力で振り払われた。
突き放すような、拒絶するような力。
まるで、咄嗟に敵の攻撃を防ぐような、条件反射的な拒絶。
「……マリィ?」
思わず言葉が漏れる。
だが、彼女は顔を伏せ、唇を噛みしめながら、小さく震えた声で返した。
「あ……ごめん……その、反射で……うん……さ、察して。わ、わたし、女の子だから!」
たどたどしい言い訳。
そのまま、視線を合わせることなく、背を向けて──
「……っ、すぐ戻るから……!」
逃げるように、マリィは雪の中を駆けていった。
「…………」
その小さな背中を、俺はただ、見送ることしかできなかった。
いつもなら、どこか抜けていて、俺にじゃれついてくるマリィ。
けれど今は、どこか遠くに感じる。
距離ではなく、心の奥の何かが、そこにあるような気がして。
「……クリスのツンデレ成分がまた悪さしてる、って感じでもなかったな……」
呟いてみたものの、違和感は拭えない。
あの時の拒絶は、単なる照れ隠しではなかった。
もっと深く、鋭く、彼女の中で疼いている何か──
マリィの抱えているもの。
俺の知らない痛み。
もしかすると、それが今、彼女の心と体を蝕み始めているのかもしれない。