第百六十九話 「狐と焚き火と、新たな出会い」
それから、俺、マリィ、狐女の三人は焚き火を囲んで座り込んだ。
焚き火の輝きが、彼女の金の瞳に反射して揺れている。
「……でな。焚き火というのはただの熱源ではなく、古来より人類の営みを支えてきた文化の核心だ。燃え上がる炎の中心には、生命を守る揺らぎがある。火があることで獣は近づかず、冷気は退き、人は人であり続けることができた。つまり焚き火とは……」
──俺の情熱溢れる焚き火への愛情。
本来の"俺"にはもともとなかったが、この世界に来てから"フェイクラント"に学んだ焚き火の素晴らしさ。
それはいつの間にか俺のものへと昇華しており、今では全ての人へ伝えたいと思っている。
焚き火を囲った人々の輪は物理的にも精神的にも暖かく、この空間がいつまでも続けばいいとさえ感じる。
──しかし。
「すまない、難しい言葉が多くて分からなかった。文字に起こしてくれないか?」
「なんでだよ! っていうか、それをしたらしたで今度は『読めない』とか言うんだろ!?」
「……フェイ……もういいじゃん……」
マリィの止めに、俺もようやく諦める。
ふと見ると、狐女の耳がぴこぴこと横や後ろに揺れている。
どうやら話を聞いている“ふり”だけで、思考はあっちこっち飛んでいたようだ。
──ま、いいか。
今となっては、怒りもすっかり鎮まり、ただ静かに火を見つめる自分がいた。
「へっへっへ……久しぶりだぜ、この感触……やっぱたまんねぇな……」
船の上では火を使うこともできなかったからな。
火が風に踊らされず、穏やかに身を包み込んでくれる──それがどれほど贅沢なことか、今は骨身に染みてわかる。
「はあ……」
隣ではマリィがため息をつく。
が、今の俺は気づかないふりを決め込んだ。
いいんだ。そんなに急いで山を登らなくても。
時間はある。荷物も整えた。
……だから今くらい、寄り道しても罰は当たらないだろ。
ふと視線を巡らせると、狐女も焚き火の揺らぎを瞳に映し、静かに手をかざしている。
……やっぱ、絵になるな。
炎に照らされる紅い瞳。
ぴくりと揺れる狐耳。
そして、風にたなびく和装の裾と、ふわりと広がる見事な尻尾。
「狐火」という言葉があるくらいだし、狐と炎の親和性ってすごく高い。
もしかしたら、この人も火属性の魔術が得意だったりするのだろうか?
とか考えていると──
「ふふ。私に火は扱えない。どちらかと言うと、氷属性の方が得意だ」
「へぇ……そっか──って、え?」
ぽかんとした俺を、狐女は微笑んで見つめ返す。
……あれ、今のって、俺、声に出したか?
否。
今のやりとりに、マリィも目を丸くしてこっちを見てる。
ってことは、少なくとも俺は口に出していない。
つまり、心でも読まれたのか?
「火をつけてくれて感謝する。おかげで、友人を待っている間も凍えずに済む」
「友人?」
「ああ。キバ亭に買い出しに来ていてな。本来なら私も行きたかったが……“お前は目移りして勝手にどこかに行くだろうから、ここで大人しくしていろ”と、言われてしまってな」
「あー……あはは……」
なるほど。
この人、どうやら見た目以上に“うっかりさん”らしい。
焚き火のくだりといい、俺の話を右から左へ受け流した件といい、その友人さんの判断は正しい。
とはいえ、だからといってこんな寒空の下に待たせるのもどうかとも思うが……。
そんなことを思いながら、俺は火にくべる薪を一本手に取った。
──その瞬間だった。
ふわ、と。
手首が、細い指に掴まれた。
「え……?」
「むむっ!?」
マリィの眉間にしわが寄り、鋭い目線が俺の隣に突き刺さる。
けれど狐女は意に介さず、俺の手を自分の前に引き寄せ、両手で包み込むようにしてまさぐり始めた。
「えっ、ちょ……何?」
質問には答えてくれず、彼女は黙ったまま、俺の手のひらを凝視している。
まるでそこに魔術刻印でも刻まれているかのような食いつきっぷりだ。
さすがにマリィが飛びかかりそうな気配を感じた俺は、慌てて手を引き抜いた。
「む」
「な、なんですかいきなり!? なんか手に変なもんでも……」
「あぁ、いや悪い。非常に“珍しい”感覚がしたので、つい気になってな……」
「はぁ……」
心が読めると思ったら、今度は手相占いでも出来るのか?
この人、本格的に何者なんだよ。
「それで。俺の何が分かったんですか?」
思わず身を引きながら問うと、彼女はまっすぐ俺を見つめ──
「……強い“運命力”を感じた」
「……運命、力?」
「常人ならば一度で命を落とすような修羅場を、いくつも、くぐり抜けてきた。だが、それは奇跡ではなく必然……おそらく貴殿の魂が“選ばれている”のだ。そういう者の手は、独特の熱を帯びている……だから、非常に魅力的に感じた私は、思わず触れてみたくなったのだ」
「~~~~っ!!」
その涼やかな声が、やけに耳の奥に残る。
顔が……熱い。
火に当たりすぎたせいじゃない。
なんだこの天然獣人さん。
涼しい顔して、よくそんなトンデモ発言を……!
美人がそんなことサラッと言うと、男ってのはすぐ勘違いするんだからな!?
あぶないあぶない!
それに、“運命力”ねぇ。
思い返せば、確かに色々と死線を潜ってきた気もするけど……生憎、俺はモブ寄りの存在だ。
そう言いかけたが、頭をよぎるのは、大魔王と同じ魂を持つ“特異性”。
……まぁ、そう言われても否定できない部分があるのは確か、か。
「はい! もう終わり! フェイ、行くよっ!」
むくれるマリィに、ぐいぐいと腕を引かれる。
「って、ちょ、ちょっと待てって!」
「待たないっ!」
怒ってはいるが、その口調は妙に可愛らしい。
けれど目は笑ってない。
笑顔なのに、殺気がにじんでいる。
犬特有の独占欲でも出ているのだろうか。
ミランダさんにはそこまで怒らなかったくせに。
もしかして、相手が獣人だからか?
「あなたも! 勝手に人の手をベタベタ触ったらダメなんだからね!? そんなに見たいなら、私の手も見る? ねえっ?」
それ、笑顔で言ってるけど、全然笑ってないからね。
──それに、お前の手は触れたらこの人死ぬから、冗談でもやめとけ。
しかし、狐女はマリィの差し出した手を見て──すっと、視線を逸らした。
「……いや、よしておこう。流石に私も“呪い”には触れたくないのでな」
「な、な、なんですってぇぇぇぇぇ!?!?」
見事な地雷を踏んだ。
マリィの頬がぷくっと膨れ、眉がぴくぴくと震え始める。
怒りゲージMAXだ。
「事実を言ったまでだが……」
「この、失礼なメギツネぇぇっ!!」
マリィが跳ねる。
いや、跳ねたというより、完全に飛びかかる勢いだった。
──さすがにヤバい。
「お、おい! やめろマリィ、落ち着け! この山に来てまだ血の雨は早すぎるって!」
だが聞いちゃいない。
むしろその怒りの火種に、狐女の沈着冷静な表情が無遠慮に油を注いでいく。
「よしておこう」とか「呪いには触れたくないのでな」とか、なんでそう、本人を前にして平然と地雷を踏み抜けるかな!?
いやまぁ、本当に触れたら触れたで大変なことになるのはそうなんだけどさ。
──仕方ない。
俺はぐい、とマリィの腕を掴み、そのまま肩に担ぎ上げた。
「っ、フェイ!? な、なにすんのよ!?」
「はいはい撤収撤収! とにかくもう出発するぞ! はいお開き!」
「うぅ~あのメギツネっ! 覚えてなさいよぉ~っ!!」
悔しさにわななくマリィをなだめつつ、俺は焚き火の温もりを背にして歩き出す。
──と、その背中に静かな声が届いた。
「行くのか。気をつけてな。その方角は、魔物の気配も濃い」
振り返ると、狐女は相変わらず落ち着いた様子で炎を見つめていた。
和装の袖がふわりと揺れ、狐耳がぴくりと動く。
「──ああ。助言、感謝しとくよ」
俺は少しだけ目を細めて、彼女に言葉を返す。
「けど、お前も気をつけろよ。どうにも、“うっかり地雷を踏む”性格らしいからな」
「……ふふ。そうらしいな。お前も、良き旅を」
微笑む彼女の目元には、あの焚き火と同じ柔らかい光が宿っていた。
……変な獣人だったな、ほんと。
見た目は巫女っぽくて気品に溢れてるくせに、焚き火ひとつ満足につけられず、人の話は右から左。
だけど、なぜだろう。
その“妙なズレ”が、嫌な感じじゃなかった。
むしろ、少しだけ名残惜しいくらいだ。
「いやいや」
俺は今、マリィと一緒に山を登らなきゃいけないんだ。
登山だ、登山。
今ここで妙なフラグ立ててる場合じゃない。
「フェイ~、もう降ろしてくれてもよくない?」
担がれたマリィがぷくっと頬を膨らませ、もがいている。
……はいはい。
まずはお前の機嫌取りから、だな。
俺はマリィの腰をそっと下ろすと、再び吹きすさぶ冷気の中、山道の入り口へと足を踏み出した。
そして始まる、冬のカイエン山脈越え。
──異邦の巫女のようなあの獣人との出会いは、後に思えば、嵐の予兆だったのかもしれない。