第百六十八話 「獣人の大地」
地図を頼りに、俺とマリィは海岸線を離れて西へと向かった。
目的地は、クロードさんたちと待ち合わせ場所にもした《黒鋼の牙亭》──通称“キバ亭”と呼ばれる宿場だ。
ゲーム内では、体力が回復できる便利なセーブポイント兼、中継地点として扱われていた小規模宿屋である。
……が、実際に来てみて思う。
めちゃくちゃ雰囲気いいな、ここ。
小高い丘の陰にひっそりと建つログハウス風の建物。
その外観は黒い瓦と焦げ茶の木材で構成されており、年季の入った表札には《黒鋼の牙亭》の名が風に軋んで揺れていた。
宿とは言え、宿泊機能だけに留まらない。
建物の一階にはバー形式のカウンターがあり、地元の酒や料理を楽しめるダイニング兼休憩所が広がっていた。
端には保存食を中心とした物資売り場、奥には掲示板に似た“登山者向け注意報”や地元の魔物分布図まで掲げられていて、まさに万屋も顔負けの“冒険者のための拠点”といった趣だ。
──そして、なにより目を引くのは……その住人たちである。
受付、スタッフ、客まで、全員が揃いも揃って獣人族だった。
毛並みの整った狼耳の店主。
メニューを運ぶ、しなやかな体つきの虎耳娘。
隅の席でごろごろしている、完全にだらけきった猫耳の青年。
人懐っこい笑顔のラパン族(ウサギ系)の商人が、ふわふわの耳をピョコピョコ揺らしながら話している。
ここまで見事に人族がいない空間は、むしろ清々しいレベルだ。
──そう。
東方大陸ガルレイアでは、これが“普通”なのだ。
種族の多様性は当たり前。
人族も魔族も妖精も、果ては植物や岩のような亜種まで、「自分らしく生きろ」がスローガン。
人族至上主義の西方セルベリア大陸とは真逆の、カオスな自由主義が支配する大陸。
思い返せば、かつて囚人船で東方に一時上陸した時もそうだった。
初めて“本物”の獣人たちと触れ合い、俺の中の何かが目覚めてしまった記憶がある。
……そう、魔物使いでもある俺は“毛”に弱い。
ふさふさした耳、もふもふの尻尾、肉球の柔らかさ──それらを前にしたら、理性なんてカカポくらいの羽毛しか持ち合わせていない。
こうなってしまったのは、俺に"ラヴ"を教えたサイファーとレイアさんのせいにしておこう。
そして今、まさに俺の理性が試されようとしていた。
「にゃぁぁ……ごろごろ……」
受付カウンター。
そこには、猫耳の女性獣人が、上半身をカウンターに預けて昼寝していた。
ゆるくカールした白髪の長髪に、三角形の耳がぴくりと揺れている。
表情はとろんと緩く、喉を鳴らしながら、尻尾がゆらゆらと……実に幸せそうに揺れていた。
──自由度が高すぎる。
猫だから許されてる感がすごい。
──身体が震える。
今にでも"撫で回したい"という欲を抑える俺。
しかし、そんな震える俺の横で──
「わふぅー!!」
「ちょっ!? マリィっ!?」
突然、隣でマリィが爆発した。
いや、正確には爆走だ。
犬だった頃を思い出した彼女は、そのまま受付で揺れていた猫耳獣人の尻尾に向かって猛突進──そして
──がぶりっ!!
「ん゛にゃぁああああッ!?!?!?」
「なんでぇえええ!?」
尻尾を噛まれて断末魔を上げる猫娘。
慌ててマリィを引き剥がす俺。
何がどうしてこうなった。
「いきなり何するにゃぁあ!?」
「ご、ごめんなさいっ! ふわふわのしっぽがあまりにも魅惑的で……つい……っ!」
マリィは土下座しそうな勢いで謝っているが、猫娘の方も特に怒っている様子はなかった。
なんなら噛まれたにも関わらず、よほどの睡魔に負けたのか、そのまますぐに眠ってしまった。
いや、仕事しろよ。
とも思ったが、まぁこれがガルレイアの良さでもある。
思えば、マリィも獣人という枠にも収まるのだろうか?
元プレーリーハウンドから人族になったわけだし……犬耳とか尻尾はないけど。
いや、獣人は生まれた頃から獣人だし、そう考えるとマリィは本当に特別な事例なんだろう。
そんなことを考えながらも、俺はバーのカウンターで情報収集に入った。
「カイエン山脈の登山かい?」
片目を細めたバーテンのジャッカル獣人が、グラスを拭きながら首を振る。
「やめといた方がいい。特に今の時期は山頂の方は吹雪ばかりって話だ。旅人の数だって、この時期に向かうのなんて……ゼロだにゃ」
あ、この人はカッコいいなって思ったけど、最後の「にゃ」で随分可愛くなってしまった。
その可愛さを差し引いても、話を聞いてテンションガタ落ちですが。
確かにガルレイアは、四大陸の中でも最も魔物のレベルが高く、環境も過酷。
その上で“冬のカイエン山脈”って……。
ようやく、サイラスが「装備を整えてから行け」と言っていた意味がわかった。
ただでさえ危険地帯であるというのに、季節はよりによって“冬のど真ん中”。
馬鹿か、俺は。
人類が侵入を拒むような山々を、寒波と猛吹雪がご丁寧にコーティングしてくれてるんだぞ。
常識的に考えれば、「やめとけ」の一言で済む話だ。
……だが、行かねばならぬ。
「はぁぁ……」
ため息混じりにグラスを置き、俺はマリィと共に食料と防寒具、そして登山に必要な簡易装備一式を買い込み、外へ出る。
---
キバ亭のドアを開けた瞬間。
「……さぶっ!!」
刺すような冷気が顔面にビンタを食らわせてきた。
船の上でも寒かったが、ここは格が違う。
凍てついた風が肌を剥ぎ、肺に突き刺さる。
しかし、そんな中でも目を引く存在があった。
キバ亭の裏手、小さな林のそば。
一本の倒木の前にしゃがみ込む影があった。
……その後ろ姿は、まるで異邦の巫女。
厚手の和服を思わせる装束。
長く切り揃えられた黒髪。
そして、頭からぴこぴこと動く、見事なまでにふさふさの狐耳。
腰には、一振りの直刀が佩かれていた。
──これはまた、やたら雰囲気のある獣人が出てきたな。
「うーむ…………」
その狐耳の女は、しゃがんだまま何かとうなっていた。
腰のあたりから突き出た尻尾が、もふもふと左右に揺れている。
彼女も冒険者なのだろうか。
何をしているのか、何者なのか、俺は色々な興味に任せて、そっと後ろから覗き込み──そして、悟った。
…………はぁ、ダメだな。
まるでなってねぇ。
ホントわかってない、もうね……薪が可哀想。
それが、俺の率直な感想だった。
彼女は火打ち石を、太い薪に直接打ちつけている。
立ててもいない、風も通さない。
太く湿った薪を地面に寝かせたまま、パチパチと火花を無駄に散らせているだけ。
火をつけるという行為において、ここまで“燃えない”構えを取れることに感動すら覚える。
──寒さで鳥肌が立ったわけじゃない。
俺の中の、焚き火マスターの魂が悲鳴を上げたのだ。
だから俺は──
「フェイ……?」
マリィの困惑した声を無視しながら、狐女の背後に立ち、叫んだ。
「焚き火を舐めるなッッッ!!!!」
「きゃああっ!?」
その場で尻尾も耳も逆立った。
狐耳の女は飛び上がり、瞬間、刀の柄に手をかけて振り向く。
殺気すら漂う臨戦態勢。
けれど、俺の怒りもまた収まらなかった。
「…………む、何だ?」
静かな声。
武士めいた、気品のある佇まい。
けどな。
「お前が『何だ?』だよ! ばっきゃろい! え? 何? 何してんの? なんでちゃんと薪組まないの?」
ぴしっと寝かせられたままの薪を指差す。
「なんで寝かせたままの薪に直接火打ち石押し付けてんの!? バカなの!? そんなので火がつくわけないじゃん! 薪さんも燃え上がることもできずに、火花だけを何度も何度も浴びせられて『痛いよ! 助けて!』って泣いてるよ!」
マリィが俺の背後で「フェイ……?」とおろおろしているが、今の俺は止まらない。
焚き火とは神聖なる儀式であり、命を紡ぐ“対話”なのだ。
しかし──
「…………その、すまない。早くて聞き取れなかったので、もう一度言ってくれないか?」
狐女は真顔で、そう返してきた。
ただ、ほんの少し眉を下げるだけ。
その冷静さに、少しだけ我に返る俺。
「……よし。じゃあ順を追って説明しようか」
俺は静かに、薪を丁寧に組み、火口を置き、風の流れを意識して石を打つ。
火花がこぼれ、乾いた枝が小さくパチパチと音を立て始める──
その間、わずか十数秒。
焚き火が、力強く燃え上がった。