第百六十六話 「堕聖女は、封印の地へ」【三人称視点】
──水晶の向こう。
揺らめく映像が消えてなお、室内の空気には、戦の残滓が濃密に染みついていた。
煌罪の魔王、ロータス・カールグレイヴは、静かに指先を組むと、その端正な顔をわずかに傾ける。
「…………失敗、ですか」
声はひどく穏やかで、温度もない。
ただの独り言のように吐かれた言葉だった。
「…………はっ……」
その前に、深々と膝をつく女がいた。
レイ・シルヴァリア。
ロータスの寵愛を受けし、死者を操る異能の女。
だがその姿はいま、砂のように崩れ落ちそうなほど脆く、惨めだった。
──首を垂れ、言葉も無く。
傲慢も気高さも消え失せ、敗者の汚名を全身に纏っていた。
その姿は、彼らが重んじる「強さの象徴」としての振る舞いからすれば、あまりにも滑稽で、愚かで、救いがない。
「……全ては私の見通しの甘さが原因。女神の写身とはいえ、あれほどまでの速度で進化するとは……」
レイの声は、微かに震えていた。
反論の余地はなかった。
言い訳の言葉も、もはや無意味だと悟っていた。
ヴォドゥン──水魔の王。
あれほどの脅威を放ちながら、敗北。
ブリジット──ロータスより預かった護衛も、死。
マリィの写身を確保するどころか、ただ彼女を"目覚めさせただけ"の愚行に終わった。
この一連の作戦、どこを切り取っても"完全な失敗"以外に形容しようがない。
「……いかなる罰も、甘んじて受けます。猊下──」
レイは己の膝に力を込めた。背筋を伸ばすでもなく、頭を上げることすら恐れ多いと、顔を床に近づけたまま続ける。
「……あの少女は……もはや、私一人でどうこうできるような存在ではありませんでした。……異質です。規格外……とでも言えばいいのでしょうか」
どこか呆然とした口調だった。
それは言い訳に他ならなかったが、彼女にとってはそれが素直な報告だった。
誇りを失ったわけではない。
ただ、自分自身が戦場で“それ”に触れてしまったからこそ、理解してしまったのだ。
──触れられれば、死ぬ。
あれは、もはや「人」ではない。
死神か、はたまた災厄か。
いずれにせよ、彼女は世界の天秤を傾け得る存在になってしまっていた。
「……レイ」
ロータスの声は、呼吸するように自然なものだったが、それは女の背を緊張で貫いた。
「顔を、上げなさい」
震えるように、レイが視線を上げる。
だが──そこにあったのは、叱責でも嘲笑でもなかった。
黄金にきらめく眼鏡の奥、真実を映すような双眸に怒りも失望もない。
むしろ、慈しみすら滲むような柔らかな色を湛えていた。
「……そう自分を責めないでください。私は、おおよその結果を予測しておりましたから」
「……っ、猊下……?」
「あなたが“写身”を奪えたなら、それはそれで吉報。ですが、奪えずとも──確信には、至りましたから」
つまり、自分の差し出した部下も、最初から使い捨てのつもりだったと。
その言葉に、レイは小さく眉を寄せる。
「……確信、とは……?」
ロータスの視線が、水晶の揺らぎの奥──遠く遠く、何か遥かな理に手を伸ばすように、虚空を見据える。
彼の声は、どこか夢を語る者のように淡く、しかし理路整然としていた。
「──レイ。あなたには私の“黄金錬成”の加護を授けました。その力を持って、元はただの人族に過ぎないあなたが、魔族すら凌駕する力を宿し、幾度となく勝利を重ねてきた。それも当然の筈です。なぜなら我らの力は全て、我らが王から賜った力に他ならないのですから」
「……はい……」
「だが、今回は違った。この意味がわかりますか?」
ロータスの眼が細くなる。
嬉々として、喜びを噛み締めるように口角が持ち上がる。
「……あなたが“為す術がない”と判断するほどに、写身は力を得ていたということなんですよ!」
──ふと、彼の口元が綻ぶ。
「……ふふ。あはは……あははははは……!」
それは狂気の産物ではなく、祝祭のような悦び。
深淵に触れ、真理に至った者だけが放てる確信の声。
「レイ……あなたは決して弱くはない。四魔王を除けば、あなたですら世界を手中に納めるほどの力はあるでしょう……だがあの写身は、もはや“数万の魂”を凌駕するに等しい……! 人の身にして、世界を翻す起点となる“奇跡”そのもの!」
歓喜に頬を染めながら、ロータスは両手を掲げる。
「──すなわち、あれが真なる“神核”……! この世界を再構築するに足る、至高の触媒!!」
声が、天井を突き抜けて舞い上がるかのようだった。
「だからこそ──あなた如きに捉えられずとも構わないのです。逆に言えば、あなた程度に収まる程度の器であれば、私としては拍子抜けであったでしょうから」
「…………っ!」
レイが、硬い唾を飲み下す。
言葉が刺さったのではない。
──心に、別の痛みが突き刺さったのだ。
ならば、私は……彼にとって、ただの捨て駒だったのか?
写身を“目覚めさせるためだけ”に舞台に上げられた、装置でしかなかったのか?
私は魔に堕ちた時から、己の誇りも、矜持も、魂すらも燃やして戦ってきた。
全ては自分自身のため──愛した彼のため。
「………………」
レイの外套の奥、胸元に吊された仮面が、カタリと震える。
死人の仮面──死者の魂を留めるための器。
それが彼女の胸の奥にある激情に共鳴し、淡く揺れていた。
怒りではない。
悲しみでもない。
ただ、喪失だった。
それを悟られぬように、レイは静かに震える仮面へ手を添える。
──今は、抑えねばならない。
「……なるほど。やはり我が選んだ“写身”に狂いはなかった」
ロータスは静かに笑みを収め、椅子の背に身を預ける。
その瞳は、まるで地平の先──遥か彼方にある女神の魂を見つめているかのように、揺るぎなく、輝いていた。
「……すべては、王のために。焦らなくても良い。いずれ写身は我が手に落ちる。その時こそ、世界は生まれ変わるでしょう……」
まるで恋慕にも似た囁きだった。
だが──その瞳の底に宿るのは、果てしないまでの冷徹なる“確信”のみ。
椅子に凭れかかるロータスは、ふと目を細めた。
表情はあくまで柔和で、声音は穏やか。けれど、その実、どこまでも鋭く鋭利な気配が、彼の周囲の空間をぴんと張り詰めさせていた。
「……おっと、失礼。少々、感情的になってしまった。気分を害されましたかね?」
「……いえ」
レイは、かろうじて感情を押し殺した声で応じる。
だが、その爪先は微かに震え、視線の奥には怒気と苦悩が潜んでいた。
気付かれまいとしていた。
だが──彼の眼差しは、全てを見通している。
「ならば、良かった」
ロータスは微笑み、ゆっくりと指を組み直す。
その所作はまるで祈るように整っていて、しかし内包するのは冷酷な戦略家の計算だった。
「さて、レイ。あなたには本来の指令に戻ってもらいましょうか」
ぴたり、と空気が凍る。
「……覚えておりますね? “シュヴェルツ”に戻りなさい。もともと、あなたにはそちらの追跡を委ねていた。よって、今回の件における失敗について、私は一切咎めるつもりはありませんよ」
静かに、淡々と告げられた言葉は、優しさでも赦しでもなかった。
それは“関心が薄い”からこそ与えられる、残酷な形式的許容だった。
だが、レイは表情を変えない。
それすら、想定内の態度として飲み込んだ。
「……封印場所の方は、掴めましたか?」
「えぇ、既に。──今回の件さえなければ、今頃には封印を解いていたでしょう」
その口ぶりは、冷ややかで、あくまで業務的。
敗北の悔しさを滲ませるでもなく、忠誠の言葉を添えるでもない。
ただ、進捗報告に過ぎない声音。
それでも、ロータスの微笑は崩れない。
……いや、崩れないどころか、より深く──愉しげにすら見えた。
彼の視線が、ゆっくりとレイの顔へ向けられる。
──いや、それはもっと深く。
外套の奥に吊された、死人の仮面へと向けられていた。
まるで、仮面の奥に潜む“何か”を見透かすように。
「……ふふ、魔王の復活のために……あなたは彼の“身内”に手を下すおつもりですか?」
その言葉は、甘やかな毒針だった。
レイは僅かに睫毛を揺らしながら──それでも、即座に返す。
「……それが、私の使命であるのならば」
冷たく。
薄く。
乾いた応答。
それは揺らがぬ忠誠の証などではなく、すでに感情の一部を殺した女の、自己防衛に過ぎなかった。
だが、ロータスはその反応にすら満足気に頷いた。
それでこそ、とでに言うように。
「では、ゆきなさい。あなたの歩む先にこそ、我が理想の礎があると信じていますよ」
──瞬間、水晶の揺らぎが細波のように広がり、通信魔術が静かに途切れる。
残されたのは、薄暗い部屋の静寂と、名残を惜しむような魔力の残滓。
そして──
「………………」
レイはそっと、胸元の仮面に指を添える。
その仕草は、懺悔か。
あるいは、祈りか。
感情はすでに焼き切れていた。
ただ──それでもなお、この仮面を手放せないことが、彼女の内なる弱さの証だった。
ぽつりと、独り言のように呟く。
「……仕方ないでしょう。だって、あなたの弟が──邪魔してるんですもの」
吐き捨てるように囁かれた言葉の裏に、疼くような痛みと、諦めに似た深い陰りが潜んでいた。
外套の影に揺れる仮面が、カタリ、と低く鳴った。