第百六十五話 「勝利の宴、夜風に溶けるそれぞれの距離」
──夜が深まっていた。
船は緩やかに波を裂きながら進んでいるが、甲板に満ちるのは昼間の喧騒とはまるで違う、静けさと淡い酔気だけだった。
誰もが戦いの疲れを癒すように酒をあおり、騒ぎ、時に眠りこけている。
宴は続いているが、どこか夢の中のようにぼやけて見える。
俺は、そんな中でそっとマリィの右手に手袋を嵌めてやった。
「……よし、これで一旦“右手”だけは大丈夫かもな」
「うん…………」
柔らかな声。
ほっとしたような表情。
心なしか、彼女の肩がわずかに緩んだ気がする。
この手袋は、プレーリーを出る時に俺がずっとお守りのように持ち歩いていた、クリスの形見──左手の方は、たぶん燃え尽きてしまったが、右手だけはなんとか残っていた。
あいつも……クリスも、かつてアルティアの呪いをその身に宿していたはず。
だからずっとこの手袋を外さなかった。
つまり、これには呪いを抑えるか、障壁となってくれる力がある──少なくとも、そう信じたかった。
……それにしても、生魚で実験するのは精神的にキツい。マリィがそれを掴むたびに毎回魚がバタリと動かなくなるのを見るのは、地味に心が削れる。
なので、さっきアジトを出た時にミランダさんがついでに乗せていった“例の木”に実っていた果実を一つもぎ取り、マリィに手渡した。
「……どうだ?」
俺がそう言うと、マリィは小さく頷き、ゆっくりと右手で果実を掴んだ──
……変化は、無い。
「……うん、大丈夫みたい」
「ふぅ……」
本当に、心底ホッとした。
もし手袋すら貫通するレベルの呪いだったら……と思うと、少し前まで背筋が凍る思いだった。
けど、この様子なら右手だけでも通常の接触は大丈夫そうだ。
ちなみに、服の方もあまりにパツパツだったので、ミランダさんとレベッカさんが自分の服をいくつか出し合ってくれて、着せてくれた。
風を受けたらバサバサとたなびきそうな服だ。
海賊らしくなってしまった。
うーむ、なぜか毎回都合よくマリィの体型とぴったりの女性がいるのはありがたい。
正直女性用の服を買ったことがない俺だと、きっとオシャレとはかけ離れてしまうのだろう。
ただし、左手はまだ危険すぎる。
迂闊に誰かに触れでもしたら──たとえそれが事故であっても、取り返しのつかない悲劇を招くかもしれない。
だからこそ、念には念を入れて、船の仲間たちにはマリィの“左手には絶対に触れないように”と事前にしっかり通達しておいたのだが──
「なぁ、マリィちゃんの手、触ってみてもいい?」
「ばっかだろルーフス!? 魔族が一瞬で死んだんだぜ!? お前が耐えられるワケねーだろッ!」
案の定、馬鹿がいた。
興味津々でうずうずしていたルーフスさんに、思いっきり真っ当なツッコミがガリユさんから炸裂する。
しかし当の本人は、まったく気にしていないようで、むしろノリノリで言い放った。
「でもさぁ! その手に触れて死ななかったら、俺はまた一段と強くなれる気がするんだッ!!」
いやいやいやいや。
死ぬんだって。
強くなる前に、物理的に死ぬんだってば。
「一回だけっ! 一瞬だけでいいから! 先っちょだけ!」
「えっ……あ、その……えっと…………」
マリィが困り顔で、俺を見てくる。
──助けを求める視線だ。
「ルーフスさん、マリィを人殺しにさせる気ですか?」
「ぐぅっ……ッ!」
流石にその一言が効いたのか、ルーフスさんは唇を噛みながら退却モードに入る。
だがその横から、さらに強烈な一撃が飛んできた。
「ほら、マリィちゃんを困らせてんじゃないわよ。そんなに死にたいなら、私が火だるまにしてあげるから──ほら、行くわよッ!」
酒瓶片手に仁王立ちしたレベッカさんが、そのままルーフスの耳を引っ張って連行していく。何かもう、色んな意味でありがたい。
……ほんと、この船の連中って……最高にめちゃくちゃだよな。
その一方で──
「船体に一つ、大きめの穴があった。あれは最初の氷塊への衝突で出来たものだろうな」
「ガルレイアまでは持つと思うけど、船体構造的に次はないわね。要注意ってところかしら」
俺たちと共に船室から出たきたクロードさんとミランダさんが夜風に当たりながら話し合っている。
どうやら酒を片手にしながらも、二人は船の状態を確認していたらしい。
それを聞いた瞬間、俺の背筋に冷たいものが走る。
──あの氷塊。俺の見張り当番の時だった……!
「あっ、すみません! 俺がもっと早く気づいていれば……!」
慌てて駆け寄って頭を下げる。
ほんの数秒でも早く報告できていれば、ぶつかる前に対処できたかもしれないという罪悪感がこみ上げてきた。
しかし──
「ふふっ、フェイクラントくんが謝ることじゃない。あの濃霧じゃ、気づけなくて当然だ」
まぁ確かに、あの状況ではどうしようもなかったかもしれないが……。
それでも責任は感じる。
しかしクロードさんはそんな俺を見て、ふっと穏やかに笑うだけだった。
その隣で、ミランダさんが小さく鼻を鳴らす。
だが、どこか緩んだ口元がすべてを物語っていた。
「なぁに、ダメな時は海の上を歩いて帰るさ」
クロードさんが冗談めかして笑う。
その背中に海風が吹きつけ、コートをなびかせた。
「何よそれ、そんなこと出来るのアンタだけでしょ……ヒック」
ミランダさんは、顔を赤らめながら少しふらつき、クロードさんを見上げる。
酒のせいなのか、風のせいなのか――あるいは、彼女の中にある淡い感情のせいか。その頬の紅は、まるで少女のように初々しかった。
……それはまるで、恋人に甘えるような、くすぐったい眼差しだった。
「沈んだら、ちゃーんと新しい船に乗って戻って来てよね。アタシは海の上でも、待ってるんだから……新しい船は、装飾がもっといっぱいで、派手で可愛くて〜……」
甘えたように続けるその声音には、どこか拗ねたような響きもある。
どんなに武骨で冷静な副船長を演じても、その奥にある“ただの一人の女”としての彼女が顔を覗かせていた。
クロードさんは、そんなミランダさんにゆっくりと手を伸ばし──
「いつまで経ってもわがままなお嬢様だな……お前は」
撫でる──と思ったが、彼女の頭に被せていた帽子をそっと取り上げた。
「あっ……」
ミランダさんの瞳が見開かれる。
その光景は──あの時と同じだった。
かつて、ジルベールとの一騎打ちに向かう前。
ステージに赴くクロードさんが、ミランダさんに託した帽子。
「もう……」
小さく漏れたその言葉には、たくさんの意味が込められていたのだろう。
けれどクロードさんは、それに何も答えず、ただ背を向けて夜風の中へ歩き出す。
「俺はもう寝る。あとは頼んだぞ」
その背中は静かで、強くて、優しくて──どこか、遠くを見据えているようだった。
ミランダさんはしばらくその背を見送っていたが、ふいに、はっとしたように誰かを思い出したような顔をして振り向く。
「……あの、クロード船長……!」
呼び止めたのは、ロイドだった。
そっか。
そういえば、まだ彼は船長にだけは謝れていなかった。
全員の前で頭を下げたとはいえ、やはり当事者としてのけじめをつけたかったのだろう。
「ご迷惑をおかけして……本当にすみませんでした」
ロイドは両手を握りしめ、緊張にわずかに声を震わせながら言った。
「ふふ、それはもういいさ。あの魔族を止めた火球、よかったぜ」
「は、はぁ……やけくそでしたが……」
「それでもいいさ、仲間を救ったんだ」
ロイドが照れたように頬をかきながら、バツの悪そうに笑う。
「落ち込むのも飽きただろう。アイツらと一緒に酒でも飲みな」
そういって差し出された親指の先では、ロイドがどうだのとは全く気にすることもない様子ではしゃぐ海賊団のメンバーがいる。
腕相撲をしているルーフスさんとガリユさん。
それを応援するレベッカさんとセロンさん。
あそこにロイドを仲間外れにするという空気は考えられない。
……本当に良いメンバーだ。
「はい……ありがとうございます」
ロイドのすすり泣きは、海風に乗ってかき消された。
俺もそれを見て、自然と頬が緩んだ。
ようやくロイドも、背負っていたものを少しだけ下ろせたんだなって。
──ん?
……ていうか、ちょっと待てよ。
クロードさん、あんだけ船から離れてたのに……ロイドが火球を放ったこと、なんで知ってんだ?
視界的にも、距離的にも、たぶん見えてなかったはずだ。
となると……誰かから聞いた? あるいは、感じ取った?
それとも、ただの“勘”か……?
「も〜、すぐ男とばっかり話して……」
ふいに頬を膨らませながら、ミランダさんがロイドたちの輪から離れ、軽く踵を返す。
その背中はどこか拗ねているようで、それでいて軽やかだった。
「レベッカ〜お酌して〜!」
そのまま酒に身を任せたように、仲間の輪に戻っていく。
俺はその姿を見送りながら、ふと、妙な疑問を思い出す。
──ずっと気になっていたが、クロードさんって、戦闘前になると必ずミランダさんに帽子を預けるよな。
……あれって、なんなんだ?
「セロンさん」
すぐ近くにいたセロンさんに、俺はそっと声をかけた。
「ん?」
「クロードさんって、戦う時にミランダさんに帽子を預けますよね。けど今は……」
「あぁ、アレね」
セロンさんはグラスをくるくる回しながら、肩をすくめて教えてくれた。
「グランティスには、昔からそういう迷信があるのさ。自分の大事なものを、陸にいる“特別な人”に預けてから海に出ると、必ず無事に港に戻ってこられるってね」
「へぇ……」
だから俺と戦った時も、「大事なものはちゃんと預けておけ」って言ってたのか……。
……………。
ってことは、あの二人って──
「ちょっとー! 男同士で何話してるのよ〜〜っ!」
「ぬおっ!?」
俺とセロンさんの両肩に、レベッカさんが全体重を乗せて飛びついてくる。
鼻にツンとくるほどの酒臭さが、思考力を根こそぎ奪っていく。
「フェイく〜ん! マリィちゃんも寂しそうにしてるよ〜? こっちきて飲めぇ〜〜〜ッ!!」
全力のテンションに、もはや俺もセロンさんも苦笑いするしかなかった。
──そして夜は、ゆっくりと、深く、更けていく。