第百六十一話 「受け継いだ呪い」
──喧騒の中、俺は目覚めた。
「…………ん」
重たいまぶたをゆっくりと持ち上げると、視界に天井の木板が広がっていた。
船特有のきしむ音と、かすかに揺れる感覚。
ここは……クロードさんの船の甲板。
ミランダさんがよく昼寝に使われているソファの上だ。
どうやら俺は、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。
身体が鉛のように重い。
神威を酷使し、転移魔術を連発した挙句に、あの巨漢アンデッドと仮面の魔族を相手取ったのだ。
意識が保てていた方が異常だったのかもしれない。
──どれくらい、眠っていたんだろう。
身を起こすと、階段の下からは陽気な笑い声と、酒瓶がぶつかる音が聞こえてきた。
セロンさんのだみ声に、ミランダさんらしき高笑いが混ざる。
どうやら、戦いは終わったらしい。
勝利の宴。
……おそらくは、そんな雰囲気。
「目覚めたようだな」
「うおっ!?」
声と共に、視界の端に急に現れたのは──クロードさんの無骨な顔。
真顔すぎて心臓が跳ねた。
ほんの少しでいいから、前触れというものを持ってきてほしい。
「いやぁ、はは……寝ちゃってたようですね」
「無理もないさ。ミランダから聞いた。船を氷から解放したのは君とマリィちゃんの二人の力だったと」
クロードさんは静かに頷いた。
その目に、いつものような飄々とした茶化しはない。ただ純粋に、仲間の働きを称える眼差しだった。
「それは……俺にもできないな……」
「いやいや……クロードさんなら、やろうと思えばやれるんじゃ……?」
思わず笑って返したが、それはほとんど本音でもあった。
この人、敵の大将と真っ向からやり合ってきたはずなのに、傷一つない。
というか、服すら乱れていない。
まさに余裕の快勝と言ったところだろう。
「敵は……?」
「全滅したよ。ヴォドゥンを倒し、奴の配下も君やミランダたちのおかげで殲滅。魔族も……一人は転移で逃げたようだが、もう一人の方は──」
言われて思い出す。
仮面をつけた女とは別に、もう一人。
マリィを捕まえていた、あの少女の姿をした魔族。
「──奴は!?」
俺が最後に彼女を目撃したのは、甲板の上で呻く姿。
もし奴がまだ生きているのだとすれば──
しかし、クロードさんは階下を見て、静かに息をつく。
「死んでいたよ。甲板の上でな。……まるで、魂ごと吸い尽くされて干からびたように。…………呪われそうだったから、ミランダが燃やして海に捨てたよ」
「なっ……!?」
状況が、蘇る。
──あのとき、マリィは変化した姿で、あの悪魔の腕を掴んだ。
それだけで、奴は悲鳴をあげ、虚空を落下していった。
そこからは呻くだけで、動くことも抵抗することもなかった。
──そして、同時に思い出す。
あの日、マルタローが初めて人の姿になった夜に見た夢で、あの大魔王オルドジェセルが語っていた言葉を。
『その手で命あるものを触れれば、生命力を吸い取るのではなく、無条件で"命"そのものを奪い去る』
『生まれつき持つ覚醒した"神威"が、"その逆"の性質をもたらした』
──女神アルティアは、触れた者の命を容赦なく奪う。
あれを見せられた時は、恐怖以外の何者でもなかった。
もしもあの“呪い”がマリィに遺されていたらと思うと、背筋が凍る想いだった。
しかし、その心配は杞憂だったようで、シュヴェルツにいた時──マリィがまだ幼女の姿だった時にはその力は無いようで、アーシェに触れても、セレナと手を繋いでも、何も起きなかった。
それが──今回の“変化”で、ついに受け継がれたとでもいうのか?
だとしたら、今のマリィを野放しにするのは──
「こっ、来ないでッ!!」
「いッ……たぁいッ!! なによ、もう!!」
突如、階段下の甲板から飛び込んできた声に思考を遮られる。
驚いて目を向けると、下ではマリィが何かをぶん投げている。
投げた先には、追いすがるミランダさんの姿。
「フェイっ! 助けてッ!」
覗き見る俺に気づいたマリィは、目を潤ませたまま階段を駆け上がり、どすんと俺の寝ていたソファへと飛び込んできた。
まるで逃げ場を求める子猫のように、俺の胸元にしがみついてくる。
──なんだ、この状況。
「あら、おはよう」
遅れてやってきたミランダさんが、少しだけ髪を乱しながらこちらへと歩いてきた。
その顔には……苦笑、というより、明らかに苛立ちが混ざっている。
「お、おはようございます……」
「何か飲む? お酒しかないけど」
言いながら、俺の隣に腰を下ろしてグラスを傾ける。
反対側では、ジト目のマリィがそのミランダさんを睨んでいた。
「…………二人とも、何かあったんですか?」
「別にぃ……? 戦闘で汚れてたから、お風呂でもって誘っただけよ? マリィちゃんなんて冬の海に飛び込んでるし、風邪引かれたら困るでしょ?」
さらりと語られた言葉の後ろには、なかなかにドス黒い空気がにじんでいた。
「だ、だって……そんなこと言われても……」
マリィは小さく呟き、俺の腕にしがみついたまま俯く。
……いや、うん。
これは確かに双方に言い分がある。
ミランダさんの頬には、赤く腫れた痕。
どうやら、ただの拒否ではなく、物理的にぶん殴られたらしい。
「別にね? 一緒に入りたくないはいいんだけど、それにしても断り方ってのがあるんじゃない? ごめんねって、でも服がびしょびしょだから脱ごうねって触ろうとしただけでめちゃくちゃな暴れ方するんだもん」
「めちゃくちゃ?」
「椅子とか、コップとか投げられて、さらに箒で殴られた。ほらここ」
そう言って見せてくれた頬には、なるほど綺麗な顔にアザができていた。
どうやらかなり乱暴な真似をされたらしい。
「さすがにアタシも頭にきたから、引っ叩いてやろうとしたんだけど、この子ね、そしたら逃げるのよ。触っちゃダメとか言いながらダッシュで逃げて、五メートルくらいの距離を保ちつつ投擲、投擲、たまに突き」
「あぅぅ…………」
ミランダさんの語調は一応陽気を装っていたが、その声の端々にはピリピリとした静電気のような怒気が滲んでいた。
「さすがに付き合ってらんないって、フェイくんの看病して一緒に寝ちゃおっかなぁって、フェイくんのところに行こうとしたら、それもダメ! って顔真っ赤にしながら追いかけてきて箒を使った足払い」
いつもの豪快な笑い混じりの語り口ではない。
笑ってはいるが、目が笑っていない。
つまり──これは本気で怒っている時の“大人”の喋り方だ。
「アタシこける。アタシ怒る。起きて追いかけてまた逃げられる。鉄壁の五メートルを維持しつつ、投擲、投擲、突き、フェイくんとこ行こうとしたら足払い……んがぁああ!」
呻き声とも雄叫びともつかない音とともに、彼女は手にしていたグラスを煽るように飲み干す。
赤紫色をした酒が喉を滑り落ちたその瞬間、まるで力尽きたように──
「んにゅ」
ミランダさんの頭が、俺の肩にコテンと落ちた。
「あっ! ちょっと! 離れて!」
直後、反対側からマリィの慌てた声が飛ぶ。
「なぁによ! カップルでも無いんでしょーが! 独占欲出してんじゃないわよっ!」
「むむむむむむ!」
ぷぅっと頬を膨らませながら、マリィの頭が俺のもう一方の肩にどすんと乗る。
片や豪胆な美女の怒り酒、片やジト目の少女の拗ね顔。
……どうしてこうなった。
いま俺の肩は、いわば左右から責め立てられている。
左肩には【呑んだくれ女傑】、右肩には【触れることも拒むツンデレ神性】。
しかも両者、自分の匂いでも擦り付けるように、密着状態である。
いや、でも──恥を忍んで告白するなら、最高の一言だ。
むしろ、今の俺の精神状態を表すなら「至福のトライアングル陣形」とでも命名したい。
……人生のモテ期、いまがピークかもしれない。
そんな甘美な錯覚すら脳裏を過ぎった。
「だからフェイくん、ちょっとくらいこんな態度でも別にいいでしょ? ていうか、だいぶ優しい部類だと思うんだけど」
「はぁ……まぁ……」
否定できない。
この程度で済んでいるなら、むしろ御の字だ。
そもそも、ミランダさんが本気でブチ切れていたら、マリィの身は無事では済まなかっただろう。
甲板ごと真っ二つにされていてもおかしくない。
クロードさんが仲裁に入ったら、それはそれで一悶着、いや、第二次・船上戦争が勃発していたに違いない。
しかし、マリィも別に悪気があったわけじゃないだろう。
というか、そうするしか手段がなかったはずだ。
マリィは、自分に起きた異変を理解していた。
咄嗟に誰にも触れさせまいとしたその行動──
それは恐らく、自分自身が“触れれば命を奪ってしまう”存在に変わったことを察してのことだったのだろう。
自分は毒になったのだと、悟っていたのだ。
それは、本能だったのか、アルティアの記憶なのか、それとも魔族を殺した時に認識したのか。
はっきりしたことは何もわからない。
けれど、マリィがそうしてくれなければ──下手をすれば、ミランダさんは命を落としていたかもしれないのだ。
目覚めにミランダさんの死体が転がっていたらと思うと、身が竦む。
もちろん、それが事実かどうかは試していない。
憶測の域は出ない。
だが、あの魔族の少女に起きたことは紛れもない現実だった。
彼女はマリィに触れられた瞬間、悲鳴を上げ、魂ごと吸い尽くされたように命を絶たれた。
最初に触れられたのが、もし味方だったら──
「………………」
嫌な想像を振り払うように、俺はゆっくりと肩をすぼめる。
そうすると、右と左から同時に顔が押し寄せてきて、二人の体温が襟元に滲み込んできた。
一秒でも長く居座りたい空間だが、マリィの今の状態を皆に認識してもらう必要がある。
彼女の神威の力、なぜ俺には効かないのか、それを証明するために──