第百六十話 「海上戦線、決着」【三人称視点】
崩壊していく。
周囲を包んでいた氷塊孤島──数十の海魔の魔力にて生成した巨構造物は、もはや無残なまでに砕け、海上へと霧散しつつあった。
真冬の海が、怒りに打たれた水鏡のように凪ぎ、歪み、軋む。
「……んな、アホな……」
青ざめた肌を震わせながら、ヴォドゥンが呻く。
その巨体からは“海の支配者”たる威厳は完全に失せていた。
──たしかに、あの船は仕留めたはずだった。
氷床に乗せられ、閉じ込められ、逃げ道などあるはずがなかった。
あの氷は特別製。通常の火魔術にも耐性を持ち、物理手段を取るにしてもかなりの時間がかかるはずだ。
だが、あの一撃ですべてが瓦解した。
船も、氷も、支配の構図も、すべて。
「どうやら、お前の部下は……全滅のようだな」
海面。
立てるはずのない、その一点に。
──クロードは立っていた。
足裏に展開された細密な魔力の波紋が、螺旋を描くように揺れ、海水との間に薄膜を形成する。
自然の摂理すらねじ伏せるような“微細制御”によって、水上に立脚しているのだ。
「くぬぬぬ……!!」
牙を噛み締めるヴォドゥン。
当然、ここは彼のホームだ。
海という戦場において彼に勝る者は、本来いない。
水の抵抗を受けずに泳ぐことができる。
視覚も聴覚も、全てが人族と比べ段違い。
すべての地形的利が、ヴォドゥンに傾いている──はずだった。
……だというのに。
目の前の男に対しては、どうしても“勝てる”という未来が想像できない。
(バケモンだろ……こいつ……)
しかし、一瞬の隙さえ生み出せば逃げ切れる。
深海まで潜れば流石に追ってこれまい。
今までも、そこまで追われることは無かった。
「ま、待て……! ちょっと待ってくれ!」
声を震わせながら叫ぶ。
この状況で彼が選んだ手段は、舌を使う以外に無かった。
「オレたちは元々……お前らを襲うつもりなんてなかったんだ。さっきの魔族どもに頼まれてよ……仕方なく、手を貸しただけで……!」
言葉を濁しながら、背中に回した槍──三叉の魔槍を静かに海へと沈めていく。
──音を立てるな。泡も立てるな。
全神経を指先に集中させ、魔力操作で槍を制御していく。
「……話す道理はないんじゃなかったか?」
「おいおいィ! そんなツンツンすんなよ! なァ? 俺たちは同じ“海”を愛する者同士だろ? 話せば、きっとわかり合えるって……!」
だがクロードの目は、変わらない。
獲物を仕留める寸前の、研ぎ澄まされた刃のような沈黙が続く。
「オレたちは魔族に脅されてたんだよ! そうさ! 元々お前にはもう手出ししないと、以前戦った時に言ったじゃないか!」
「…………そうだったかな」
魔力を操り、海の中で槍を動かす。
そのままクロードの立っている海面の真下へと……。
「アイツらが何を狙っていたか教えてやるぜ!? お前らだっていきなり襲われて情報が欲しいんじゃないのか? 見逃してくれるなら、お前の欲しい情報を渡す! どうだ!?」
その言葉に、クロードはピクリと反応した。
如何にクロードといえど、仲間の心配はする。
あの魔族はなんの目的があったのか。
ヴォドゥンの言うことが真実なのかは他として、聞いてみるのも悪く無いと──
一瞬──そう思った。
「──回答次第だな」
その言葉に、ヴォドゥンの口元がわずかに歪む。
(──乗ったッ……!!)
当然、ヴォドゥンにそのような情報などありはしない。
レイたちからは目的など、何も聞かされていない。
故にこれは油断を引くためだけの口実。
槍はすでに、クロードの足元に届いている。
──そうだ。
油断しろ。
お前のその余裕が、命取りになる。
「よぉし!! じゃあよぉく聞けよ! アイツらの目的はな──」
聞き取りにくくするために声を細める。
──その声に、わずかにクロードの耳が傾いたように見えた。
そう、それでいい。
乗ったな。
ヴォドゥンの心中に勝利の鐘が鳴る。
「教えるわけねぇだろ! ボケがァッ!!」
叫びと共に、海面が炸裂した。
爆ぜるように飛び出したのは、三叉の魔槍。
海流に乗せて制御し、クロードの足元を正確に狙った、一点集中の奇襲。
避けさせない。
防がせない。
言葉の隙を突いて、確実に心臓を貫く必殺の一撃は──しかし。
「──ッ!?」
ヴォドゥンの目に映ったのは、“蹴り”。
槍が水面から頭を覗かせた、まさにその瞬間──
クロードの脚が、音もなく動いた。
──バカな、ありえない。
心臓が跳ねる。
槍の出現位置を把握するには、気配の察知か、水流の揺らぎを読む必要がある。
それができるにしても、“魔力の気配を完全に殺していた”はずだ。
ヴォドゥンが裏切ると警戒したところで、槍の位置までは特定できていなかったハズ。
それなのに、この男は──
まるで最初から、この位置から槍が飛んでくると知っていたかのように──
クロードの踵が、魔槍の柄に正確に触れる。
単に跳ね飛ばすだけではない。
その軌道、その重さ、その速度──すべてを計算に入れた“制御された蹴撃”。
風と体重を乗せた脚で弾かれた魔槍は、冗談のような速度で反転。
──向かう先は、ヴォドゥン自身。
「っ──が、あああああッ!!」
回避は不可能。
鋭く返された槍は、そのままヴォドゥンの左腕を裂いた。
筋繊維が弾け飛び、青黒い皮膚が裂け、鮮血が氷のような海面に滴り落ちる。
激痛と混乱の中、ヴォドゥンは咄嗟に跳ね退く。
飛び退き、海へと身を沈め──水中へ逃げ込む。
『グゥッ……! い、いてぇッ!!』
くそっ、くそっ、くそっ……!!
こんな奴とバカ正直に殴り合いなんてできるかよ!!
畜生め、覚えてやがれ……いつか絶対にぶっ殺してやる──
心の中で罵声を吐き続ける。
血反吐混じりの悲鳴を残し、ヴォドゥンは海へと沈んだ。
己の血で染まった海面を泡立たせながら、彼の巨体は瞬く間に深みへと逃げていく。
──だが、クロードは追わなかった。
当然だ。
この男にとって、“追撃”など不要。
獲物がどこに潜ろうと関係はない。
海の底であろうが、地の果てであろうが、必要なのはたった一つ──
「……逃がさん」
小さく、しかし確かな意志を宿した呟き。
その瞬間、彼の足元に展開されていた魔力の螺旋が、逆転した。
海面を揺蕩わせていた細波が渦を巻き、中心へと吸い込まれる。
『なァッ!?』
「──『鳴海螺旋』」
瞬間、海が吼えた。
轟然たる音と共に、周囲百メートルの海域が、中心へと吸い込まれるように激しく渦を巻いた。
海面に直撃した風が、瞬時に広範囲の海水を巻き上げたのだ。
突如、海中から天へと駆け昇る竜のような風柱が現れた。
それはまさしく、風による昇柱──『昇る柱』であり、あらゆるものを“下から上へ”引きずり上げる昇風の極致。
空を裂き、海水が竜巻状に螺旋を描いて舞い上がる。
嵐の如く唸る風と、それに引きずられて天へと跳ね上がる水柱。
その中心から、黒い巨影が、否応なく吐き出されるように姿を現した。
「ぬ、ぐあああッ!?」
逃げ込んだはずの海が、背中から彼を突き上げる。
魔力すら掻き乱される強風。
重い身体が、あっという間に海面を越えて空中へと吹き上げられた。
無様に仰向けに浮かび上がるヴォドゥン。
眼下には、渦巻く水柱と、薄く笑うクロードの姿。
「……どうやら、ここがお前の最後らしい。"俺の眼"には、そう見える」
その声に応じるように、クロードが踏み出した。
空を蹴るように跳躍し、風を纏った足が振り上げられる。
「『風裂槍脚』──ッ!!」
発動と同時に、空間が“抉れた”。
脚先に収束された風が螺旋を描き、雷鳴のような轟音と共に空気が破砕される。
──超圧縮された風を、螺旋の槍に変えて叩き込む、至高の蹴撃。
脚を振り抜いた瞬間、風の魔力は鋭槍と化し、あらゆる物質を貫通・断裂する。
──穿つ。
螺旋する風の槍が、真下のヴォドゥンへと一直線に突き進んだ。
『や……やめ──』
最後の懇願すら口にできぬまま、風槍はその胸部を貫いた。
音もなく、ただ“風の砕ける音”だけが辺りに残る。
──刹那。
ヴォドゥンの巨躯が、空中で弾けた。
肉が裂け、骨が砕け、悲鳴すら許されない速度で──
巨体が、無様なまでに吹き飛び、空を舞った。
水面に叩きつけられたその躯体は、す二度と起き上がることはなかった。
──決着。
風が止む。
渦が静まり、ただの海が、そこに戻ってくる。
「じゃあな…………」
海上に立つのは、ただ一人。