第百五十九話 「揺蕩う髪は亜麻の色」
海に落ちていく。
世界が、深く、静かになっていく。
耳の奥で、さっきまで鳴り響いていた氷の破砕音が遠ざかり、代わりに心臓の鼓動がやけにうるさい。
ああ……寒いな。
冬の海って、何分くらいで死ぬんだっけ? 三分? 五分? 十? ……そんなもんか。
感覚が指先から失われていくのがわかる。
目も、まともに開けていられない。
マリィは……無事だろうか?
はやく海面に上がって……転移しないと……。
でも、だめだ。
身体が、まるで他人のものみたいに言うことを聞かない。
……そういや今日、魔術何回使ったっけ。
マリィを助ける時と氷を砕くために転移二回と……混戦中も何度か攻撃魔術使ったな……。
はは、俺の魔力量じゃ、もうとっくに限界超えてる。
これじゃ海面に上がれても、転移できねーよ。
相変わらずの頭の悪さに、思わず笑ってしまう。
ああ──でも、きれいだな。
目の前に広がる海面が、陽光を受けて宝石みたいに煌めいている。
無数の光の粒が、水の波間で揺らめいて、まるで──天国の門みたいで。
その中心から、ひとつの影が、まっすぐに、俺へと向かってきていた。
長い髪が、水中で風のように揺れる。
その先にあるのは、見慣れた──けれど、もう“少女”ではない顔。
幼さは薄れ、キリッとした意志の宿った瞳。
純白の髪を揺蕩わせながら、一直線に泳いでくる彼女の姿。
白銀の髪は太陽の下、どこか亜麻色を帯びていて、まるで……。
──まるで、あの子が天国から迎えに来てくれたみたいだった。
静かに泳ぎ寄ってくるその姿が、あまりに幻想的で。
気を抜いたら、思わず「ありがとう」なんて言って、どこかに連れて行かれそうで。
でも──
マリィは俺の前まで来ると、ほんのりと眉を下げ、やれやれとでも言いたげに笑った。
そして──
『大丈夫だよ』
たしかに、そう言った気がした。
彼女は俺の手を掴み、俺の体重など気にすることも無いように、海面まで引き上げてくれる。
そして、気がつけば、俺は彼女の背におぶられていた。
先ほどと逆の位置。
守るはずの相手に、今度は助けられている。
情けない、と思う気持ちは、今はもうなかった。
ただ、今はマリィに、甘えていたい。
「しっかり掴まっててね」
柔らかい声が、すぐ耳元で響く。
息がかかるほどの距離で、マリィの背中にしがみついた俺は──
ただ、それに従った。
やわらかい。
そして、あたたかい。
もっと、触れていたい。
俺の身体は氷のように冷たくなっていたはずなのに、マリィの肌はまるで春の陽だまりみたいで──
ぎゅ……。
背中から、腕を回す。
「──〜〜エッチッ!!!!」
「がっ……ぶっ!?」
なぜだか怒られてしまった。
全力の肘打ちが、俺の肋骨を襲う。
肺から空気が抜けた気がする。
何か文句を言う余裕もなく、マリィは跳躍する。
海に点在する割れた氷塊を、軽やかに、まるで踊るように──けれど超人的な筋力で跳ね飛んでいく。
大気が圧縮される音と、足場が弾けるような衝撃。
一歩ごとに氷が砕け、しぶきが舞い、空と海がぐるぐると混ざる。
それでも、マリィは飛び続けた。
どれだけ距離があっても、氷が崩れようとも。
たった一人で、俺を背負って──船まで戻ってくれた。
---
気がつくと、甲板の上だった。
眩しい。
強い陽光が、閉じかけたまぶたを射抜いてくる。
「フェイくんっ!!」
真っ先に駆け寄ってきたのは、ミランダさんだった。
いつもの飄々とした態度とは裏腹に、その顔は明らかに取り乱していた。
わずかに乱れた桃色の髪、焦りを隠せない大きな瞳──そのまま、俺の横に膝をついて覗き込む。
「大丈夫か!? 怪我は!? 生きてる!? 何本骨折ってる!?」
「ちょ……ちょっと多すぎませんか質問が……!」
その隣では、セロンさん、ルーフスさん、ガリユさんたちも揃って駆け寄ってくる。
皆、一様に安堵と驚きの入り混じった表情だ。
マリィは、俺をゆっくりと背から降ろすと、そっと床に座らせてくれた。
けれど──俺の足は、もうまともに動かなかった。
「──っと……う……っ」
足が、震える。
筋肉が悲鳴を上げ、関節が軋むように痛んだ。
意識はある。
立つこともできる。
──だが、もう、できれば寝たい。
「だ、大丈夫です……! でも……しばらくは、足腰立たないですね……ははっ」
情けない笑みを浮かべながら、その場に座り込む。
すぐにマリィが隣に膝をつき、肩を支えてくれた。
その手のぬくもりが、ようやく俺の身体の奥深くまで染み込んでいく。
「すごかったわよ、あんたたち!」
そう言って、ミランダさんが近づいてくる。
あのふわっとした笑みとは裏腹に、その目には確かな敬意が宿っていた。
「氷床を粉々よ!? しかも一撃で! 大砲よりド派手じゃない! あーもう、見てるだけでアドレナリン出たわよ!」
ぺちぺちと俺の肩を叩くそのテンションに、俺は目を細めて笑った。
「いやぁ……ルーフスさんの剣のおかげですよ……って、あれ?」
不意に気づく。
──ない。
あの大剣。
氷に突き立てたまま、俺は落ちた。
つまり──
「……お前、もしかして……」
「落としたんだな」
わなわなと叫びそうなルーフスさんを前にして、いつの間にか隣に来ていたセロンさんが、冷静すぎる口調で呟く。
「まぁ、また作り直せばいいだろう。どうせ何回か使えば折れていたんだし」
「気軽に言うなよぉ……!」
当の本人が肩を落として嘆いていたが──どこか誇らしげに笑っている。
「まぁ、でも、斬撃、すごかったな! 俺もアレくらい出来るようになりてぇなぁ!」
その一言に、ちょっとだけ胸が熱くなった。
「……マリィも、ありがとうな。お前がいなかったら、俺はあのまま海の底で死んでたわ」
言いながら、彼女の顔を見つめる。
マリィは、最初こそ「えへへ……」と嬉しそうに微笑んでいたが──すぐに何かを思い出したように目をそらし、ぷいっとそっぽを向いた。
「そ、そんなの、当然でしょ……でも、掴むところは……その、考えて欲しかったな」
「へ……?」
──あぁ。
海中で、俺が彼女にしがみついていたときの感触。
……というか、明確に、胸元あたりをがっつりと。
……え?
俺、そんなとこ掴んでたのか……。
なんともったいない──できれば、もっと身体の感覚が生きている時に触ればよかった。
いや、そんなことをすれば、確実に嫌われるんだろうけど……。
けど、マリィが助けてくれたことは、何よりの救いだった。
そんなふうに少しだけ照れ笑いを浮かべていると──ふと、視線の先にある海が目に入った。
真っ白な氷が砕けて、海面を漂う無数の破片たち。
まるで巨大な鏡が粉々になったように、海一面に散らばっている。
だが、その奥。
まだ、氷が荒れ狂っている領域がある。
「──あとは……クロードさん、ですね」
呟いた声が、誰にも届かなくてもいいと思った。
けれど、全員の視線が自然と、同じ方向へと向いていった。
遥か海の向こう。
氷塊が砕け、砕け、なおも砕け続けている。
その中心に、たった一人で立っている──船長の姿が、確かに見えた。