第百五十八話 「氷床、怒涛の脱出」
マリィの作戦を聞き、俺はミランダさんを呼び止め、簡潔に状況と提案を伝えた。
部下たちに呼ばれ、今まさに氷を殴り壊しに行こうとしていた彼女は、腰を上げたままふわぁっと伸びをして、「よいしょっと」と気の抜けた声で準備運動を始めていた。
めんどくさそうに首を回し、肩を鳴らし、何ならその場でスクワットまで始めそうな勢いだった。
戦闘前はそんなことしてなかったのに……よほど面倒臭かったんだろうな。
だが、話を聞き終えた瞬間──
「えー! いいじゃないっ! ウチらしいやり方だわ!」
ぱあっと笑顔を咲かせて、両手をぱちんと打ち鳴らした。
地道に削るより、派手に吹っ飛ばす方が好きだと。
うん。まさにミランダさんらしい反応だ。
「セローン! ルーフスー! ガリユー! 上がってきなさーい!」
ミランダさんの声が、船下へと響き渡る。
「おい! 今の俺の一撃、絶対一番でかかっただろ!?」
「はァ? てめえのは表面に浅く広がっただけだろうが!」
「やれやれ……数値化できない勝負は不毛だと言っただろうに」
下から返ってきたのは、氷を砕きながら始まっていた“曖昧すぎる勝負”の喧騒だった。
たった一振りで誰が一番氷を割れるかで揉めていたらしく、三人が言い争いをしている。
しかし、ミランダの声で、しぶしぶ喧嘩しながらも戻り始めていた。
俺は今一度、ステータスを確認する。
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ステータス
名前 :フェイクラント
種族 :人族
職業 : ゲスト海賊
年齢 :30
レベル :35
神威位階 :顕現
体力 :181
魔力 :30
力 :105
敏捷 :86
知力 :23
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げ……さっきは気づかなかったが、いつの間にか誕生日が来ている。
ということは、誕生日は冬なのか。
──うん、最近見てなかったけど、俺もずいぶん成長してるな。
っていうかゲスト海賊って……もう『冒険者』じゃダメなのか?
で、肝心のマリィは──
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ステータス
名前 :マリィ
種族 :人族
職業 :なし
年齢 :5
レベル :28
神威位階 :覚醒
体力 :132
魔力 :88
力 :1005
敏捷 :129
知力 :87
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五歳……。
お前も冬誕生日なのか。
で、力は四桁突入と。
このゲーム、三桁が限界だと思ってたのだが……。
俺が十倍界◯拳使ってようやくマリィと同格程度なのか。
まぁ、神威で底上げしたら、少しは追いつくんだろうけど。
結局のところ、神威で変化しているのは間違いない。
顕現位階である俺は無理だが、マリィの状態は『神威の常時展開』のようになっているのだと思う。
だからこそのこのパワー。
そして、そのパワーだからこそ──
「本当に、大丈夫なんだな……?」
念のため、もう一度だけ訊いた。
それに対するマリィの答えは──
「うん!」
その声音は、無邪気な少女のものではなかった。
確かな意思と、穏やかな覚悟に満ちていて──その瞳に浮かぶ“信頼してほしい”という光を、俺は見逃さなかった。
「でも……フェイの方が、負担大きいかも。少なくとも、"裂け目"くらいは無いと、私の力も意味ないから……フェイこそ、ちゃんと調整できる?」
ぐぬっ。
犬コロだったくせに、生意気なことをぬかす。
そりゃあ、俺の神威はまだ第三だし、調整できるようになったとはいえ、"全力"でやるとなると、また動けなくなるかもしれないが……。
「全力でやるしかないだろ。何度もトライできる余力は残らないだろうし……。威力も微妙なところかもしれないが……やるしかない」
──そういった直後、甲板にセロンたちがぞろぞろと上がってきた。
「何をする気だ、フェイクラント」
「……二人で氷床を砕きます」
「二人ぃ? 俺らの力はいらねえってことかよ?」
「おいおい、俺の斧のが強えって証明されたばっかだろうがッ!」
ルーフスさんとガリユさんが鼻息荒く詰め寄ってくる。
……うん、言いにくいけど、正直ちょっと邪魔。
「そんなことが可能なのか?」
セロンさんだけが冷静に訊いてきた。
ありがたい。
さすがはクール系常識人代表。
「ええ。俺が氷に裂け目を作って、そこにマリィの全力を叩き込みます。終わったら、ミランダさんが風で船を飛ばす。……相当な衝撃になると思うので、どこかに掴まっててください」
「あぁ!? 俺が振り落とされ──ぶっ!?」
吠えかけたガリユさんの顔面に、ミランダさんの鋼鉄の拳が突き刺さる。
「つべこべ言わないの! 副船長命令よ」
「ぐぇ……っ、悪かったよ。でも……本当に行けんのか? 結構でけぇどころじゃねぇぞ……この氷」
不安と期待と、わずかな諦念。
いろんな感情がガリユさんの顔に交差するのを、俺はまっすぐ見つめて──
「わかりません。でも、俺とマリィの力を合わせれば……きっと、やれると思います」
「えへへ…………」
腰に手を回してマリィを引き寄せる。
彼女は少し驚いたように目を丸くした後、嬉しそうに、そしてどこか照れくさそうに頬を赤らめていた。
「ルーフスさん」
「ん?」
返事と共に、大剣の柄を担いだ青年が振り返る。
その背には分厚い鋼鉄のグレートソード。
鍛え抜かれた力がなければ到底扱えない代物。
「その剣、貸してください。借りた剣でもいいんですが、どうせ一撃しか振らないんで……できるだけ、重くてデカい方がいい」
「……お前が、それを? ハッ、正気かよ」
ルーフスは一瞬ぽかんと口を開けた後、愉快そうにニッと笑った。
「気に入った。へへっ、折るなよ? こいつ、こないだ打ち直してもらったんだからな」
肩から下ろされたそれを両手で受け取る。
……重い。腕が軋むほどの質量。
だが──たしかに頼れる一振りだ。
「マリィ、乗れ」
「……うんっ!」
俺がしゃがみ、背を差し出すと、マリィは迷いなく俺の背中に飛び乗った。
かつては軽すぎるくらいだったその身体は、今や驚くほどの密度を持っている。
けれど、重さではなく“信頼”を乗せられているようで、なぜか心は軽かった。
「準備はいいか──?」
「もちろん!」
魔力を練り上げ、空間の座標を繋げる。
目標地点は、真上。
「『転移魔術』ッ!!」
閃光と共に、俺たちの身体は空を裂いて移動した。
──空中。
上昇気流が頬を切り裂く。
空の青がどんどん遠ざかっていき、船と氷塊が玩具のように小さく見え始める。
風が、視界を奪い、音を飲み込んだ。
だが、それでも。
「よし、行くぞ! マリィ!」
「うん!!」
最高高度の頂点。
俺の合図に応え、マリィが俺の背中を蹴って跳び上がった。
まるで空を翔ける白鳥のような跳躍。
彼女は俺よりさらに高く、空へ舞い上がっていく。
「ォオオオオオオオオッ!!」
落ちる。
加速する。
剣を両手で構え、魔力を全身に集中させる。
地を穿つ一撃のための、すべての神威を、剣へと収束させる。
大気が震える。
全身の骨が、血管が、臓腑が──悲鳴を上げる。
初めて神威を使った時を思い出す。
ここまで放出すれば、きっと俺も無事では済まない。
……だが、止まる理由にはならない。
「オラァァアアアアアアアアッッ!!!」
咆哮と共に、氷の大地へ斬撃を放つ。
落下の重力。
最大限まで増幅させた神威の魔力。
そして、ルーフスの剣が持つ質量。
それらすべてを叩きつけるようにして、俺は氷塊を斬り裂いた。
──轟音。
天地を割るような爆音と共に、氷の表面に巨大な切れ目が走る。
真っ白な世界に、まるで黒い稲妻が走ったように。
ひび割れは氷塊の中心から放射状に広がり、まるで大陸の陥没のように大地が軋みをあげる。
だが、割れはしない。
これはあくまで“導火線”だ。
この剣は──柱に過ぎない。
「ふんッ!!」
着地と同時、剣を垂直に突き刺す。
その刃が氷に深く喰い込み、地面と一体化する。
神威を帯びた剣は、衝撃を伝える“芯”となった。
そして。
「マリィッ!!」
俺の叫びに応え、上空から落下してくるマリィ。
その手に、何も持っていない。
だが、必要なかった。
彼女の“力”こそが、最強の武器。
風を裂き、音を追い越して、マリィが降下してくる。
その拳が──
「はぁああああああッ!!」
突き出された。
狙いは、突き立てた大剣の柄。
──衝撃が、氷の世界を撃ち抜いた。
衝突と同時に、地面が歪む。
大剣を介して伝わった“質量の塊”が、亀裂の中へと収束していく。
マリィの一撃は、ただの打撃ではなかった。
彼女の神威覚醒による桁違いの力と落下エネルギー──それらが一つとなり、氷塊の構造そのものを破壊していく。
割れる。
砕ける。
氷の大地が、真っ二つに。
裂け目から噴き出す水飛沫。
その奥に見えたのは、太陽の光を受けてきらめく──海。
地鳴りにも似た音と共に、巨大な氷塊が軋み、裂け目の縁から次々と崩落していった。
割れた端から分裂していくように、海面に向かって滑り落ちる氷の塊は、次々と水飛沫を巻き上げていく。
船が揺れる。
着水しかけた船体が、氷塊の分裂と共に不安定に傾いた。
船体の端がすでに氷の破断面にかかっており、周囲にはもはや氷床の囲いのみ。
そして──
ドンッ。
鈍く、しかし確かな“風の衝撃音”が、遥か後方から届いた。
──聞き覚えのある音だ。
そう、出港のとき、マストに風を通した、あの“元締め老害の一撃”。
「ナイスフェイ君! 想像以上だわ!」
そう叫びながら、ミランダさんが後方甲板から風魔術をぶちかます。
船のマストがバサリと風をはらみ、帆が音を立てて膨らむ。
その反動が、船全体を一気に前方へと押し出した。
小さくなった氷床の囲いなど、あの船にとってはただのゴミだ。
半分着水していた船は、ゴゴゴゴゴ……と軋む氷上を無理やり進みはじめ──
ガリガリと氷を削りながら、見事──元の海へと着水した。
「よしっ……!」
思わず、そう呟いた。
成功したのだ。
意識が混濁する寸前でも、その実感は確かだった。
マリィも無事だ。
もう一度、なんとか彼女の手を掴んで、転移で船に──
……そう思ったのに。
視界が、霞んでいく。
さっきまで確かに見えていた空と海が、にじみ、ぼやけ、形を失っていく。
力が、入らない。
全身の筋肉が、ひとつずつ機能を停止していくような錯覚。
──久しぶりだな、神威の反動の感覚。
わかっていた。
想定の範囲内だ。
でも……もう少し、保つと思っていた。
「っ……!」
立っていられない。
手も、動かない。
船が進んでいく音だけが、遠く聞こえている。
動けない俺は、割れて小さくなった氷床から滑り落ち、冷たい海に落ちていく。
その中で。
「フェイっ!」
俺を追って飛び込んでくる彼女の声が、確かに聞こえた。