第百五十六話 「それぞれの戦い」【三人称視点】
──氷塊。
否、それはもはや氷でできた孤島だった。
砕けた氷の欠片が浮かぶ荒れ狂う海、その中心。
冷気が渦を巻き、霧氷が視界を削るその極地で、二つの影がぶつかり合っていた。
片や、風のように軽やかな剣閃を振るう海賊頭──キャプテン・クロード。
片や、漆黒の鱗を持つ巨大な海竜にまたがる──黒鰭のヴォドゥン。
戦場の四方を取り囲むかのように、波は逆巻き、氷塊が砕け、しぶきが上がる。
まさに、邪魔者の入らぬ一対一の決闘。
──といえば聞こえは良い。
だが、それはあくまで外見上の話に過ぎなかった。
「……クソ、やっぱり無理か」
ヴォドゥンの喉奥から漏れるのは、戦士の咆哮ではなく、敗北者の吐息。
彼は最初から分かってはいた。
“正面からではクロードには勝てない”──その事実を、骨の髄まで痛感していたのだ。
だからこそ、手を組んだ。
あの忌々しい魔族の娘たちと。
自分は陽動に過ぎない。
彼女たちが“本命”だ。
──作戦さえ終われば、即撤退。それがヴォドゥンの選んだ保身の道だった。
だが。
「……なんだ、あの魔力は?」
クロードの呟きが、風の中で凍る。
彼の視線の先、遠く海上の戦場から──
消えていく。
まずは悪魔の魂が──そして次に、禍々しい闇の魔力と共にヴォドゥンに話を持ちかけた魔族の存在が消えていく。
先程の一筋の鮮烈なる光の現出にも驚いたが、今回のはさすがにヴォドゥンの気力を奪っていく。
「ッ……」
ヴォドゥンは咄嗟に目を細める。
あったはずの協力者二人の気配が、まるで糸が切れたように途切れた。
「あいつら……消えた……? クソ、失敗したのか!?」
ヴォドゥンは苛立ちを隠せなかった。
作戦は成功するはずだった。
自分は囮に徹した。
クロードの足止めは完璧だった。
──それでも、失敗した?
ならば、ここに留まる理由など皆無だ。
「……お前にしては随分と手が込んでると思ったが……今逃げた奴らの入れ知恵か?」
「げっ」
図星。
あまりにも露骨な反応に、クロードは肩をすくめてため息を漏らす。
「わかりやすすぎるんだよなぁ、お前は……」
やれやれ、と言いたげな仕草。
しかしその眼差しは、海よりも深く、氷よりも鋭い。
「今回の奇襲の目的は何だ? 逃げた奴らは何者だ?」
「う、うぬぬぬぬっ!! それをオマエに話す道理などないッ!」
ヴォドゥンの声は、どこか哀れだった。
虚勢と恐怖の混じったそれは、まるで大将を失った小悪党のそれ。
彼の脳裏にあるのは、もはやただ一つ──《逃走》。
「海竜ッ!!」
甲高い命令と共に、鱗の巨躯が咆哮する。
「ギャオオオオオオオオッ!!」
「『吹雪の息』ッ!!」
海竜の口から放たれたのは、凍てつく極寒の魔息。
大気を凍らせ、視界を奪い、あらゆる存在を氷像へと変える滅気のブレスだった。
──だが。
「『旋刃烈舞』!」
無詠唱によるクロードの中級風魔術。
真空の渦が生まれ、吹雪の息を反転させる。
「なっ……!?」
海竜の放った極寒のブレスは、そのまま押し戻された。
氷気が跳ね返り、ヴォドゥンと海竜の視界を完全に奪う。
風が、吹雪ごと逆巻く。
重心が崩れ、ヴォドゥンの体勢が一瞬乱れた──その瞬間。
「どこだ!? どこに──ッ!」
叫ぶ声が風に紛れる。
クロードの姿は、どこにもなかった。
そして、次の瞬間。
「……ッ、ギャォオオオォォッ!」
鈍い衝撃音。
海竜の鱗が軋むように砕けた。
ヴォドゥンが気づいた頃には、クロードの足が、その腹部に叩き込まれ──
巨体は無様に海へ沈んでいるところだった。
ヴォドゥンの思考は、もはや停止せざるを得ない。
「ば、ばかな……!? たった一撃で……!? アレを……海竜を……!」
──馬鹿げている。意味不明。海の魔物の中でもトップクラスに強い魔物だぞ……と。
海の底からは、もはや気泡が上がるのみ。
頼みの綱を失い、ヴォドゥンの背に冷たい汗が伝う。
「お前が話そうと、話すまいと……どっちにしろ、生かして返す気はないがな」
再び現れたクロードは、氷上に静かに立っていた。
彼の瞳が、青く輝きを宿す。
「お前に殺された人たちの恨み──晴らさせてもらう」
「お、おのれえええええええぇぇっ!!」
吠えるヴォドゥンの声が、極寒の海に掻き消えた。
決戦の鐘は、すでに鳴り響いている。
---
──同時刻。
氷塊に乗り上げた海賊船周辺では、なお激しい戦闘が繰り広げられていた。
「ギャウッッ!!」
耳を裂くような悲鳴と共に、魚人の顎が高く弾け飛ぶ。
それを蹴り飛ばした張本人──副船長ミランダは、己の身体を軽やかに捻ると、そのまま滑るような足運びで一歩後退。
足元に転がる魚人の群れを一瞥しながら、手にした刃──湾曲した鋼鉄の海賊剣を舞うように振り上げる。
「次ッ!!」
刃が唸った。
カットラスの軌道は曲線を描き、海風そのもののように柔らかく、それでいて刃の鋭さは波頭すら断ち割る凶刃。
風鳴りと共に、数体の魚人兵の胴が裂け、鮮血が霧のように空へ舞う。
言わば舞踊のような剣戟。
だが、それは処刑にも等しい精密さと速度を兼ね備えた、美しき死の円舞だった。
細身の身体から繰り出される一振りが、複数の敵の首を同時に刈り取っていく。
鮮やかに。
そして、容赦なく。
「ぐあっ!? ぎゃっ──!?」
魚人たちは自分が斬られたことにも気づかぬまま、弧を描いて吹き飛ばされていく。
だが、その中で。
ただ一体──明らかに異質な存在が、その戦場に残されていた。
「お……おのれぇええっ!! まだ────」
枯れた声で吠えるそれは、既に腐臭を放つ死肉の身体に、貴族風の軍服を纏っていた。
片目には眼帯、口元には血と泡。
だがその動きはなおも俊敏で、剣の構えは只者でない。
──ヴォドゥンの右腕と恐れられた、元海賊頭のアンデッド。
蘇りし亡者となってもなお、闘志だけは消えていない……はずだった。
「────だ?」
だがその叫びが最後まで届くことは、なかった。
首が、飛んだ。
一撃。
ほんの一閃。
気づいた時には、その首はすでに空を舞っていた。
景色が回る。
空が、視界のすべてを覆う。
地面も、敵も、もう遠くにあるようで──いや、これが“死”なのだと、意識は既に理解していた。
「それなりに長い付き合いだったけど……バイバイ、コッコ船長」
ミランダの声が、風に混ざって降り注ぐ。
刃の余熱すら感じさせない、静かな別れの言葉。
それは、慈しみにも似たものだった。
「ぐ……わ、私の名前は、クック…………ダ…………」
空を切る哀れな断末魔。
それが悔しさか、名前すら正しく記憶されなかった悲しみか──
誰にも知る術はなかった。
放物線を描いて飛び、アンデッドの首は、音もなく海へと沈んでいく。
そして。
「ふう……終わったわね」
剣を払うミランダの仕草には、もう一点の緊張もなかった。
整った顔に汗一つ浮かばせぬその様は、まさしく戦場を舞う女神の如く。
──周囲を見渡す。
もはや敵影はない。
あるのは魚人たちの死骸だけ。
いずれもミランダに歯向かうには荷が重すぎた相手ばかりだ。
「セロン、ルーフス、ガリユ。そっちは片付いた?」
その声に応えたのは、死体の山の上で三者三様に佇む、彼女の仲間たちだった。
「ええ、こちらも片付きました」
「なんだよ、手応えなかったなぁ!」
「姐さん待ちだったっつの」
「ふん、言ってくれるじゃないの」
三者三様の返答に、ミランダは口角を上げて笑う。
──その時。
空が、爆ぜた。
「……!」
高く、鋭く、魔力の閃光が空を切る。
そして続く大気の振動。
爆発の跡に、魔術の残滓が残る。
おそらく──あれは、レベッカのものだ。
先程、突如現れた魔族に撃墜されたはずの彼女が、再び船上で戦っている。
──ならば、誰かが癒したのだ。
船上にいたフェイか、それとも、マリィか。
…………ロイドという線は……まあ、あるまい。
「はぁっ……はっ……」
船上で、海賊団の魔術担当であるレベッカが膝をついていた。
白い外套は破れ、額には流血。
だがその瞳には、まだ戦意の炎が宿っている。
「ふー……手間、かけさせないでよね…………」
指先に宿る微光。
それは、敵の魔兵を正確に撃ち抜いた、狙いすました精密魔術の証。
レベッカは──たしかに、目立ちはしなかった。
だが、彼女の行動がなければ、船はすでに沈んでいただろう。
「今回のMVPはレベッカね……終わったようだし、私たちも船に戻りますか」
勝敗は、すでに決している。
だが、まだ終わってはいない。
魔族の真なる目的。
この襲撃の裏に潜む、さらなる“何か”。
戦場が静けさを取り戻しつつある今こそ、疑問の芽が心をざわつかせる。
──けれどまずは、船上の確認と、味方の無事が先決だ。