第百四十九話 「魔物化した小悪党」
──氷塊の上。
斬撃の風が、悲鳴を裂く。
「はぁあああッ!!」
「ぐげぇえっ!」
銀の稲妻のように駆ける細剣の軌道が、魚人の胸部を貫通して霧散させる。
セロンさんだ。
細身の身体を翻しながら、足運びひとつに淀みもなく、敵の急所へと寸分違わず突きを打ち込んでいく。
その所作はまるで舞踏──否、殺戮のダンスだった。
だが、敵はそれだけではない。
船へと向けて魔力の弾丸が飛び交い、海上の空気を鋭く切り裂いていた。
防衛を任されたレベッカさんが、火球で氷弾を狙撃で迎撃しているのが見える。
まさに洋上の混戦。
地が氷なら、空は炎だ。
剣戟と呪文と怒号が交錯する戦場の中、俺はミランダさん、セロンさんのいる場所へと向かう。
「姐さん、これは……敵が多いです……ねッ!」
二人の眼前に迫るのは、槍を構えた半魚人の集団。
数も配置も計算されたように隙がない。だが──
「あははっ、そうね、燃えてきたっ!」
ミランダさんの瞳が爛々と輝く。
相手の槍をしなやかに躱し、回避と反撃の合間に使い勝手のいい初球、中級魔術を叩き込み、さらに剣を振り抜く。
斬る、燃やす、避ける、駆ける。
すべての動きが淀みなく、まるで彼女のために戦場が設計されているかのようだ。
……すげぇな。
ただの剣士じゃない。
ただの魔術師でもない。
それらを同時に成立させる上級冒険者の“格”。
──だが、俺だって。
この船に乗った以上、ただ眺めてるだけの旅路なんて、望んじゃいない。
「ぐぉおおッ!!」
「ふっ──!」
ミランダさんの背後から飛びかかる魚人へ、即座に俺は踏み込み、神威の力を両脚へ集中。
跳躍の反動をそのまま乗せ、相手の腹へとカウンターの蹴りを叩き込む。
「げぇええッ!?」
「フェイくんっ!」
悲鳴が空に吸い込まれる。
注意を引いた俺に向かって、周囲の敵がわらわらと集まってくる。
こっちに来るか……なら──
迫る敵の一人を蹴り上げ、回し蹴りの勢いのまま地面に叩きつける。
別の魚人が突き出す槍を紙一重で躱し、その懐へ飛び込むように跳躍。
そのまま、呪文を紡ぐ。
「燃え滾る火の力よ、我が命ずるままに怒り狂え。その咆哮にて包み焼けッ──『焔衝撃』!」
──爆ぜる。
空気を裂く熱風とともに、敵兵が吹き飛ぶ。
躊躇はしない。
魔物だろうと、こっちを殺しに来てる連中だ。
ためらってたら、殺されるだけだ。
「ひゅ〜っ! かっこいいっ!」
ミランダさんが笑う。
その笑顔に安堵と驚きと、ほんの少しの好奇心が混ざっていた。
「すみません、遅れました……!」
「やるね、フェイクラントさん」
セロンさんの冷静な声が背後から届く。
「どうも」
──褒められるのは、やっぱり悪くない。
高揚感が、ほんの一瞬だけ心を満たしてくれた。
だが、それも一瞬のことだった。
ロイド……。
奴の情けない姿が脳裏をよぎる。
震えて、逃げて、ただ呪文みたいに「ごめんなさい」を繰り返していた顔が、離れない。
「ミランダさん……」
「ん?」
魔法陣を展開しながら、ミランダさんが横目で俺を見る。
「……ミランダさんが言った通りでした。ロイドのやつ、船で……」
“怯えて縮こまっている”──
その言葉を、どうしても口に出すことができなかった。
「今はマリィと一緒にいます、でも──」
「……話はあとよ」
その先を言おうとした瞬間、ミランダさんはふっと目を細め、雷のような斬撃で迫る敵を一掃した。
──わかってる。
今は戦えないやつのことを気にしてる場合じゃない。
視界を覆う蒸気。
足元で崩れた氷の破片が、まるで小さな山のように積もる。
氷を溶かした熱が水蒸気となり、あたり一面を真っ白に染めていた。
炎による攻撃は確かに成功した。
だが、それが同時に──この視界不良を生んでしまった。
……やっちまったか……。
自分の魔術で霧を濃くするとは、皮肉な話だ。
気温差の激しい洋上、氷と火の交錯。
視界は絶望的だ。
──そして、その霧の中から。
「ケケケケッ……」
耳障りな嗤い声が、霧の向こうから滲み出す。
「──!?」
ミランダさんとセロンさんが、同時に霧の奥へと鋭く目を向ける。
俺も息を呑み、声の方向に意識を集中させる。
やがて、姿を現したのは……“人影”。
「ようやく、お目にかかれたぜ」
人族……? に見えるが、何かが決定的に違う。
霧をかき分けて現れたその男が、嘲るような笑みを浮かべながら言った。
その背後には、同じように歪んだ気配をまとう者たちが十数名。
どれも、ただの人族ではない。
だが、俺は奴らを知っている。
過去の記憶が脳裏を焼くように蘇る。
「あいつら……!!」
肌は死人のように白く、瞳には真紅の光が灯っている。
魂を宿すべき器に、代わりに瘴気を詰め込んだかのような、人の皮を被った“何か”。
──ジルベール。
そうだ。
こいつは、かつてグランティスの酒場でミランダさんと大喧嘩を起こし、最終的にクロードに吹き飛ばされたあの“Bランク冒険者”。
「おいミランダ。俺ァ、あの時の屈辱を……忘れたことがねぇぜ……!」
恨み節のように、低く、ねっとりとした声が響く。
「いつかテメェらをぶっ殺すために……俺は、ある“決意”をしたんだ……!」
その表情に、もはや人としての誇りも羞恥もない。
ただ、執着と憎悪だけが燃え残っている。
だが、ミランダさんは何も言わなかった。
視線をそらすでもなく、敵意をむき出しにするでもなく──ただ、無表情に見つめていた。
「見ろッ! この姿をッ!!」
叫びとともに、ジルベールの身体から邪悪な魔素が奔流のように吹き出した。
霧を押しのけ、空気を震わせる、荒れ狂う瘴気。
「くっ……!」
身構えると同時に、あふれ出た瘴気が大気を圧迫する。
彼の身体に奔る異形化が、目に見えて加速する。
筋肉が肥大し、腕には鱗のようなものが浮かび上がる。
人としての輪郭が徐々に失われていく。
「魔物の力を借り……俺自身も、魔物と化したッ!」
ジルベールの顔が、醜く歪む。
頬は痩け、歯茎が露わになり、指先は爪が変質して獣のような形に変わっている。
「この力は……人族の時とは比べ物にならねぇ! ヴォドゥンの力を利用して、俺は変わったんだよッ!」
けれどその目にあるのは、ただの恍惚でも、狂気でもない。
復讐という名の空虚な執念。
「だが──勘違いするなよ? ヴォドゥンの下につくのは、“今だけ”だ」
そして、口角を引き裂くような嗤いと共に、両手を天へと広げる。
「テメエらを殺った後は、ヴォドゥンとその手下どもも皆殺しだ! 俺達がこの海を支配する!!」
──自己陶酔の極致。
暴走する妄執が、戦場の空気を濁らせる。
「そして、Bランク冒険者ジルベールは改め!」
「…………」
ミランダさんが、わずかに目を細めた。
そして──その数瞬後。
「我ら海の王者──キャプテンジルベ──」
声が、止まった。
ジルベールの目の前に、“何か”が転がっていた。
小さな、鉄製の球体。
そこから伸びる導火線には、すでに──
バチバチと火花が走っていた。
「……えっ?」
その一言を最後に、空気が引き裂かれる。
──轟音。
「「ギャァァアアアアアアッ!!!!」」
爆風が炸裂し、周囲の霧と魔物と“ジルベールの仲間たち”を一瞬で呑み込んだ。
木片が吹き飛び、魔素の波が空を走り、硝煙と血の匂いが混ざり合う。
爆風の中心で、肉片のようなものが舞い上がったかと思えば、地面に叩きつけられてぐちゃりと潰れる音が響く。
「──あ」
ミランダさんが小さく呟く。
その顔は、笑顔でも怒りでもなく──ただ、困ったように眉を下げていた。
「ねぇ、セロン……今の、誰? あんたの知り合い?」
「えぇ……?」
遠ざかる爆煙の中、消し飛んだ名と顔に、合掌でもしてやるかと少しだけ思った。