第百四十七話 「使えない」
「どっちでもいいッ!! 早くッ!!」
叫ぶ俺の声が甲板に響いた、その刹那。
──クロードは、すでに動いていた。
まるで未来を読んでいたかのように、舵を思い切り切る。
船体がギギィと軋む音を立てながら傾き、氷塊を避けるように進路を滑らせていく。
──それでも。
「ダメだ……間に合わないッ!!」
目の前に迫る巨大な氷塊の斜面──
逃げ切れず、船体の下腹がそれを乗り上げるようにぶつかる。
──ズガガガッ!!
船底を擦る音が轟き、振動が甲板全体に伝わる。
「ぐっ……!?」
「うぉおおおっ!!」
乗組員たちがよろめき、荷物が滑り、海水が跳ね上がる。
衝突ではない。
だが、衝撃は十分すぎた。
斜面に乗りかかる形で滑り込んだのは、クロードの咄嗟の判断がなければ成し得なかった芸当だ。
助かった──とは言い切れない。
けれど、最悪の事態は間違いなく避けられた。
「ちょっと! どうしたのよッ!?」
轟音と揺れに飛び起きたミランダが、ソファから跳ねるように立ち上がって駆け寄ってくる。
寝起き特有の乱れた髪と表情のまま、甲板の様子を睨みつけた。
「クロードさん!」
「船長……い、いきなり前方に氷塊が……!」
俺とセロンは急いで状況を伝えようとするが、口から出てくるのは断片的な言葉ばかりだった。
……そりゃそうだ。
あんな規模の氷塊、見張りをしていても気づけるはずがない。
視界は晴れていた。
気配もなかった。
霧は──ほんの数秒で立ち込めた。
まるで、何かに“作られた”ような不自然な霧。
クロードは舵から手を離し、無言のままゆっくりと甲板に降りてくる。
そして、片手で自分の海賊帽を外すと、無造作に──いや、自然な流れのようにミランダの頭にポスッと被せた。
「……あら?」
面食らうミランダ。
だがクロードは何も言わず、ただ静かに──周囲の気配を探るように目を細めていた。
その眼光は、まるで霧をも見通すかのように鋭く。
「魔物だ……」
「──魔物?」
思わず聞き返してしまう。
だが、その言葉に一点の曇りもなかった。
氷塊が浮上した理由、霧が立ち込めた理屈、そのすべてを──最初から分かっていたかのような、落ち着いた声だった。
「魔物が……この霧を呼んでいる。氷塊はその一部……“罠”だな」
船員たちもぞくぞくと集まり始める。
異変に気づき、武器を持って甲板に姿を現す。
「敵か!?」
「見張りはどうした!」
ざわめきと緊張が、船全体を包み込む。
そして──
クロードが指をすっと上空に向けた。
その先、氷塊の上。
霧が割れるように風が吹いた一瞬、そこに、影が立っていた。
全身を黒い鱗に覆われた異形の半魚人。
肩には赤黒い外骨格のような装甲、背には大きく裂けたヒレ。
血塗れのマントのように、どす黒い粘液がその身を纏う。
そして、頭に冠のように突き刺さるサンゴ。
威厳と呪詛を凝縮したかのような双眸が、こちらを睨み下ろしていた。
「──ヴォドゥン……」
クロードが、誰にでもなく、ぽつりと名を呟く。
その静かな声には、怒りも憎しみもない。
まるで、よく知っている厄介な顔に出くわした時のような──そんな、面倒くさそうな響きがあった。
「ギャハハハハハハァ!!」
その笑い声は、海の底から響き上がるように濁っていた。
「まさかまさかぁッ! こんなに上手くいくとはなァ、キャプテンクロードォ!!」
ヴォドゥンが高笑いしながら両手を広げる。
その口元には、腐りかけた獣のような鋭い歯列。
粘液を滴らせながら、氷塊の頂から見下ろしてくるその姿は、もはや魔物と呼ぶのも生温い。
「なっ、なんですか、あれは……?」
思わず問いかけた俺に、セロンが答えかけた──その瞬間。
ヴォドゥンの腕がぶん、と動く。
大気を裂いて唸る音。
目にも止まらぬ速さで、三叉の長槍が投げ放たれる。
──三メートルはあるだろう。
海魔が振るうにはあまりにも人外な武器が、一直線にこちらへ飛来する!
「危ない!」
しかし、俺が叫ぶよりも早く、クロードがそれに手を伸ばしていた。
──ガシィィッ!!
鈍く、重々しい金属音。
彼の掌が、飛来する三叉槍の柄を見事に受け止めた。
寸分の狂いもなく。まるでそこに槍が来ると知っていたかのように。
風が凍りつく。
誰もが、言葉を失っていた。
「げっ……! や、やるじゃねぇか……」
ヴォドゥンの目が見開かれ、焦りを隠せない様子で呻く。
……明らかに余裕がない。
この魔物、強そうな顔はしているが、クロードとの力量差は“とうの昔に痛感している”ようだった。
となれば、あれか──
よく絡んでくる地元のヤンキーみたいなもんか。
向こうは顔を赤くして啖呵を切ってるのに、こっちはそれに付き合う気もなく、「ああ、またか」みたいな。
「いつもうちの船を見るなり、逃げるように潮の底へ潜っていくくせに……今日はお前の方から仕掛けてくるんだな? 何の用だ?」
クロードが、三叉槍をくるりと回し、柄の底を甲板に“カツン”と突き立てる。
あくまで無関心を装った口調で尋ねる。
その態度に、ヴォドゥンはついに激情を爆ぜさせた。
「決まってんだろっ!! 今日こそお前をぶっ殺すためだよォッ!!!」
──瞬間、怒声と共に、周囲の海面が泡立つ。
「掛かれぇええええッ!!」
ヴォドゥンの咆哮と同時に、氷塊の陰から姿を現す、異形の群れ。
海魔、深海魚型スライム、半魚人の小隊──その数は十や二十ではない。
氷と霧に包まれた洋上を、数十の魔物たちが、怒涛の勢いで船に殺到してくる!
「ルーフスは船前方へッ!! レベッカ、後方から魔術で牽制! 船に近づけさせないでッ!!」
副船長ミランダが、指揮官としての顔を見せる。
「ガリユ、ロイド! 側面から援護! 突入を防いで!」
凛とした声が、甲板全体に響く。
すでに武装していた船員たちが、次々とポジションにつき始めていた。
「セロンとフェイくんは、私と一緒に下に降りましょ。大暴れさせたげるっ!」
ミランダがこちらを振り返り、にっと笑った。
「了解です」
「わ、わかりました!」
返事をするだけで精一杯だった。
けれど、初戦から副船長と組むとは──やはり、多少は期待されてるってことなんだろうか……?
「フェイ……私は?」
一人、ミランダから指示を受けなかったマリィが、不安そうな顔で後ろから近寄ってくる。
……強いのは認めるが、正直マリィをあまり戦わせたくはない。
神威も扱いこなせていないし、不安定な状態で戦わせるのは危険だ。
「マリィ、お前は前に出るな。よく考えて、みんなの助かることをするんだ」
「……うん!」
マリィがうなずき、後方へ下がっていく。
あの子なら、きっと何かを見つけてくれる。俺たちじゃ気づけない“何か”を。
──その一方で。
「ロイドっ!」
俺は横目にいたロイドへ声を飛ばす。
みんなが既に船から降りて行った中、ロイドだけは船の上で固まっていたからだ。
「どうした!? まさかまた船酔いなんて言わねぇよな、行くぞ!?」
俺なりに、あまりキツくなりすぎないように言ったはずだった。
……だが、返ってきたのは、顔面蒼白の呻き声のみ。
「あ、あんな……あんなにたくさんの魔物が……っ」
ロイドの目は恐怖に塗り潰されていた。
「か、勝てるんですかっ!? あんな数に! み、みんな死んじゃいますよ……!」
「……はぁ?」
──頭の奥が一瞬で冷める感覚。
「お前、クロードに憧れてるって言ってただろ? あんな風になりたいって」
「……っ!」
ロイドの顔が、さらに強張る。
だがその口から、返ってくる言葉はなかった。
代わりに、彼の膝が砕けた。
「こ……こんなの……俺が想像してたのと違う……し、死にたくないっ!」
その声はもう、誰の言葉も届いていないかのようだった。
「フェイッ! 上っ!!」
マリィの叫びが、雷のように響く。
「っ!?」
咄嗟に空を見上げる。
空気が震えていた。
氷塊の上空から、槍のような氷のつららが、雨のように降り注いでくる──!
「っくそぉおおッ!!」
俺は腰の剣を引き抜き、迫る氷塊を何本も斬り払っていく。
それでも、全ては防ぎきれない。
つららの一撃が、船体を突き抜ける。
──バシュンッ!
「ぐっ……! 船に穴が……ッ!!」
木板が裂け、水飛沫が跳ねる。
甲板が悲鳴を上げるように軋む。
そしてその異音が追い討ちになったのか、ロイドは完全に崩れた。
「うぅ……ごめんなさい……ごめんなさい……」
膝を抱え、頭を垂れ、呪文のように謝罪の言葉を繰り返している。
ダメだ……もう、何も言う気になれねぇ……。
今のロイドは、もはや戦力どころか──足手まといですらある。
「マリィ……」
「ん?」
「あいつのそばにいてやってくれ。見張っててくれ。今のロイドは、一人にしちゃダメだ」
「……うん、分かった」
頷くマリィに任せて、俺は最後に一言だけ背を向けて叫ぶ。
「──ミランダさん! 俺も今、行きます!」
答える暇はない。剣を手に、脚を動かすだけだ。
甲板を蹴り、混戦の中へ──
船と仲間を守るために、俺も今、“海の戦場”へと飛び込む。