第百四十六話 「クロードは〇〇歳」
──出航から、七日が過ぎようとしていた。
海賊団アジトからダイナミック出航してから、、俺たちはひとまず港町グランティスに立ち寄り、ベルックさんの積荷を受け取った。
そこから本格的な航海が始まったわけだが──
「……おっ……おぉお……」
この七日間、意外なほどに平穏が続いている。
交代制で甲板の見張りや船体の点検、補給物資の整備などをこなしつつ、毎日が単調に過ぎていく。
──戦闘は、今のところゼロ。
これは、航路自体が魔物の活動が比較的穏やかなルートを選んでいることに加えて、少量ずつ聖水を海に流し続けているという工夫の成果らしい。
魔物というのは、基本的に“聖”の気配を忌避する傾向がある。
特に弱くて小型のやつらは、船に近づくことすら嫌がるそうだ。
てっきり毎晩海魔とのデスマッチが繰り広げられるのかと覚悟していたが──
拍子抜けするほど静かな旅路だった。
──ただし、問題がないわけではない。
「おぷっ……おごぉおお……」
甲板の縁にすがりつき、聖水と共に胃の内容物まで大放出している青年がひとり──ロイドである。
「なんだよ、お前、まだ吐いてんのか……?」
思わず声をかけると、ロイドは振り向く間もなく、呻き声を漏らした。
「うっ……フェイクラントさん……す、すみません、おぶっ」
いや、謝られても困る。
こんなんで、ほんとにやっていけるのか?
囚人船でも船酔いする奴はいたが、それでも数日もすれば身体が勝手に順応していった。生存本能ってやつだ。
それが、こいつときたら──
「しっかりしろよ。ミランダさんにいいとこ見せなきゃ、お前、マジで降ろされるぞ?」
俺なりに激励のつもりで言ってやったんだが、
「でっ、ですが……」
「ですがじゃねぇよっ!」
──バキンッ。
「あたっ!?」
音を立てて、俺のチョップがロイドの頭頂を捉えた。
力加減はしたつもりだ。
でもな、どうにも昔の船乗り気質が抜けねぇ。
“ゲロ吐く暇があったら動け”が信条だった環境に慣れすぎて、つい荒っぽくなる。
……職業病ってやつか。
「ロイド、そういう時はできるだけ床との接地面積を広くして、身体を揺らさないようにすればいい」
ぽん、と。
近くで荷物の整理をしていた、妙にインテリ風な船員が口を挟んできた。
そして見本を見せるように、甲板に仰向けで寝そべる。
「ほら、こう。重心を下げると内耳のズレが軽減されるから、酔いがだいぶマシになるよ」
「こ、こうですか……?」
ロイドも言われるがままに、ぱたんと甲板に寝そべる。
「……あ、なんかちょっとマシかも……」
マジか。
案外、理に適ってるのかもしれん。
いやでも──
「頑張ってもらいたいところだがな……」
俺が腕を組みつつ、ぼやいたそのとき。
「が、がんばりますっ! それでは──見張りを始めます!!」
ロイドが勢いよく望遠鏡を取り出し、そのまま寝そべった状態で海を覗こうとする。
「床に寝っ転がって見張りができるかよッ!!」
思わず足で小突いた。
ぐいっと軽く蹴り転がすと、ロイドはぺたんと横転しながら「ひゃうっ!?」とか情けない声を上げた。
「まったく……もし戦闘になったら、船酔いだのなんだの言ってられねぇんだぞ」
「うぅ……はい……」
俺の声に、しょぼんと項垂れるロイド。
──しまった、ちょっとキツく言いすぎたか?
こいつはまだ正式な海賊団の一員じゃない。
あくまでクロードの“お試し同行”って立ち位置で、なにかと肩身も狭いだろうに。
それに、なんかこう──船員たちも、妙にロイドには甘い。
積荷を運ぶ時以外はほとんど怒らないし、ミランダさんもあんだけ文句言ってたわりにはスルー気味だし。
……たぶん、あえて“放置して様子を見ている”状態なんだろう。
つまり今、ロイドは試されている可能性が高い。
その結果──なんだかんだで、俺が一番怒る立場になってしまっている。チクショウ。
「ちょっと休んだら、また働くんだぞ!? いいな!」
と、その時だった。
「フェイ、ロイドにいじわるしすぎじゃない? かわいそうだよ!」
「おうっ!?」
──背中にビリビリと電撃の拳が炸裂した。
反射的に振り返る。
そこには、頬をぷくーっと膨らませたマリィが仁王立ちしていた。
「そんなに強く言わなくたっていいじゃん! もう!」
「俺は別に間違ったことは言ってねぇぞ……?」
そもそも、あいつがちゃんとやれれば、怒る必要もないわけで……
「いじわるするフェイは嫌いっ! ふんっ」
「いじめてねぇって……」
俺の言葉を聞かずに、マリィはロイドに水を手渡す。
うーむ、なんだか、マリィはロイドと仲が良くなった気がする。
やはりマリィもイケメンがいいのだろうか。
---
仕方なく、役に立たないロイドの代わりに、見張りの持ち場へ向かう。
そこにいたのは──インテリ風な雰囲気の、あの船員だった。
細身の身体に黒縁の眼鏡。
癖のない髪を後ろで束ね、手には古びた航海日誌。
まるで学者かと思わせるほど整った佇まいなのに、船上の雑務も淡々とこなしているあたり、只者ではない。
「よ、よろしくお願いします」
「ああ、よろしく。こっちの方が静かで落ち着けるよ」
軽く会釈を交わしつつ、俺はさりげなく名前を尋ねた。
「……セロンさん、ですよね?」
「うん、セロン・カリウス。まぁ、気軽に“セロン”でいいよ」
名前まで賢そうだ。
にしても、今思えばサイラスに紹介すらされてなかったのはちょっとかわいそうだな。
「セロンさんは、この船に乗って長いんですか?」
「二年くらい、かな。あ、でも敬語はなしでいいから。先輩といっても別に偉くない」
「いえ、この船では先輩ですから……!」
──実際、絶対年下だと思うけど。
こういうの、一度染みつくと中々取れないものである。
俺たちは並んで甲板を見渡す。
空は晴れ、風は穏やか。
潮騒の音が船体に優しくぶつかり、空と海の境界が霞むように揺れている。
「しかし……風で船を動かすなんて、やっぱりすごいですよね。あの魔力と制御……普通じゃ考えられませんよ」
「同感だね。俺も初めて見たときは耳を疑った。……まぁ、あれが出来るのは、元締めと、船長、副船長くらいだと思うが……」
セロンは鼻で笑いながらも、どこか尊敬を滲ませた口調だった。
「一度だけ急な任務で、グランティスからヴァレリスまで三日で行ったことがあるんだがね──あれはもう、地獄だったよ」
「は!? 三日!? 普通の船なら一ヶ月以上かかる距離でしょう、それ……!?」
思わず声が裏返った。
まさか、そんな距離を三日で──?
いや、あの狂った出航速度を思い出せば、納得せざるを得ないのか……?
というか、それに耐えきったこの船の方がやばいんじゃないか?
俺はちらりと舵の方を見やる。
クロードはいつものように無言で舵を取り続けていた。
表情の読めなさは相変わらずで、その瞳の奥が何を見ているのか、まるでわからない。
──そのすぐ後ろ、ソファで豪快に寝そべっている副船長の姿があった。
手足をだらしなく投げ出し、幸せそうな寝顔を晒しているその姿は、下町の昼寝おばちゃんと何ら変わらない。
「……あの二人って、どういう関係なんですか? 昔からずっと一緒に海賊を?」
「俺も詳しいことまでは知らないんだが……副船長は確かどこかの貴族の家の娘で、船長はその貴族が所有していた船で働いていたらしい」
「え、ええっ!? あのミランダさんが……貴族……?」
あんな陽キャの権化が……?
「ふふ、俺も信じられないと思ったがね。だが十一年前、二人が乗ったその船が何者かに襲われて、船は沈められたそうだ。なぜ海賊になったかはわからないがね」
「ふつう、そんな目に遭ったら、船に乗ること自体がトラウマになりそうですけど……」
逆に海に執着するようになったのか、それとも復讐か──
いずれにせよ、想像していたより、ずっと根の深い過去を持っているらしい。
「まぁ、あの二人はどっちも変わり者だからな」
セロンは肩をすくめて笑った。
「はは、いいんですか? そんなこと言って」
「いや、変わっているだろう。船長はああ見えて二十二歳だからね。どう考えても落ち着きすぎている」
「………………は?」
声が漏れた。
いや、漏れただけじゃない。完全に裏返った。
「に、にじゅ……二十二!?」
「ああ、実年齢。信じられないだろう? あの風格と落ち着きで、二十二」
──信じられるか。
俺、もう三十なんだけど?
「……で、ところでフェイクラントさんの年齢って──」
「えっ!? え?」
急に話題を振られて、動揺が隠せない。
な、なんで急に年齢聞く!?
「実は、皆で賭けをしててね。フェイクラントさんがいくつなのかを。副船長は二十三で張ってるんだが、俺は──」
「ちょ、ちょっと待ってください……っ!」
えっ、俺そんなに若く見られてんの!?
でも船長よりは年上だろうと思われてるのか……?
確かに修行して筋肉はある方だし、最近はヒゲとかもちゃんと処理してるから……。
ちょっと待て落ち着けフェイ、落ち着──
脳内が慌てふためいていたその瞬間。
──スゥ……
海面から、霧が立ち上った。
ほんの数秒のうちに、視界がぐにゃりと歪み、
遠くの水平線が、まるで“削り取られた”かのように白く塗りつぶされていく。
「な、なんだ……霧……?」
「いや、違う。これは……」
セロンの声に、俺も慌てて望遠鏡を取り出した。
視界の先、前方の海面に──
「……っ!?」
それは、“島”かと思った。
だが違った。
あれは──
「でっけぇ……氷塊……ッ!?」
空と海を分断するように現れた、巨大な氷の山。
まるで氷河が割れて浮上したかのような、異様な塊が、俺たちの進行方向を塞いでいた。
「クロードさんッ!!」
全力で叫ぶ。
「前方、氷塊ッ!! 右でも左でもいいッ!! 舵をッ!!」
船体がギィィッと軋む。
船首の先に、迫る氷壁──