第百四十五話 「海の底、陰謀は静かに蠢く」【三人称視点】
海底。
さらにその地殻の裂け目に沿うように穿たれた、天然の洞窟群。
かつて何千、何万という魔物が生まれ、そして死んだとされる忌まわしき海底洞。
そこは紛れもなく、人が決して足を踏み入れてはならない領域だった。
巨大な眼球を持った深海魚型のスライム。
沈没船の破片に埋もれた、半ば朽ちた海賊のアンデッド。
長い腕を持つ半魚人たちが、群れを成して静かに獲物の気配を探っていた。
それらの存在全てが、薄暗い“海底の広間”──
中央に空気の溜まった空間へと続く、最奥の祭壇めいた場所を守っているかのようだった。
そこには、王がいた。
頭部にサンゴの冠を戴き、巨大な魚の尾と禍々しい腕を持つ半魚人。
肩には血のように赤い鱗をまとい、双眸は光のない黄色に濁っていた。
その名は“黒鰭のヴォドゥン”。
この洞窟を縄張りとし、幾度もの略奪と殺戮を重ねてきた海底洞の首領である。
座していたのは、血塗られた海賊船の舵輪を流用した王座。
まるで腐敗した王が、未だにその海を統治しているかのような──そんな凄みがあった。
──だからこそ。
「仕事……ですか?」
不意に現れた人物に対し、ヴォドゥンは“跪きもせず”、ただ静かに問うた。
来訪者の正体を、すでに理解していたかのように。
そう。
彼女はただの人族ではない。
ゆらり、と潮流のように姿を現した女──
それは、かつてシュヴェルツの大聖堂でシスターを装っていた、レイ・シルヴァリアその人だった。
だが、今の彼女の姿は、あの神の国の敬虔な聖女とはまるで別人だった。
人の耳ではない、細く長く尖った耳が露出し、頭部からは優雅に曲がるヤギのような漆黒の角が生えている。
肌は蒼白く、瞳は冷たい氷のように沈んでいた。
──仮面を脱いだ“魔族”の本性。
ここには隠す必要などない。
だから彼女は、飾りも偽りも纏わない。
「そうね。ある船を襲ってもらいたいの」
レイの声は柔らかかった。
だが、その音の奥に潜むのは、獲物を狙う蛇のような冷徹さ。
恐怖も、緊張も、魔物たちに対する警戒すら、微塵も感じさせない。
むしろ“当然のように”命じていた。
それも当然だった。
彼女は彼らからすれば上位存在。
ゆえに──
「そっ、そりゃあ、高位魔族様の頼みとなりゃあ……へ、へっへへへ!」
ヴォドゥンがすかさず営業スマイルを浮かべた。
──それは明らかに不釣り合いな、媚びへつらう姿。
この海域の主を自負していた男が、まるで下っ端商人のように腰を低くしている。
「まぁ……でもその……あっしらは、どこにも属していないもんで……。もし成功すれば、これを機に……えへへ……」
見え透いた打算。
上位勢力に属し、立場を得たい──ただそれだけ。
レイは口元にうっすらと笑みを浮かべ、頷いた。
「分かっているわ。成功すれば、猊下の軍門にて、あなたに一隊を預けるとお約束するわ」
その言葉に、ヴォドゥンの目がぎらりと光る。
「う、うおおっ! ありがとうございやす!!」
周囲の魔物たちからも、どよめくような歓声が湧き起こった。
下劣で、浅ましく、単純。
だが、“駒”としてはそれで十分。
(まったく……どこまでも下らない連中ね)
レイは目を細め、心の中で小さく嘆息した。
(けれど……この程度の雑兵でも、命を投げ出してくれるのならば優秀と言えるか)
彼女は懐から一枚の水晶板を取り出す。
透き通ったその魔道具は、魔力を流せば遠方の様子を映し出す、“視界共有”の秘具であることは見れば分かる。
「映しなさい、ブリジット」
そう命じると、魔水晶がふわりと宙に浮かび、白濁した魔素の中にぼんやりと像が現れる。
──最初に映ったのは、何もない空。
海も、空も、ただの青。
『あれー、これ合ってるんす? あーテステス、レイ様〜? 聞こえますか〜?』
水晶一杯に、少女の顔がドアップで覗き込んできた。
「聞こえているわ。いいから、さっさと船を映しなさい」
『ちょっと〜! 気づかれないように、めっちゃ離れて飛行してるんですからねー!? あたしの苦労も考えてほしいな〜〜!』
ぶーぶーと文句を言うブリジットに、レイはやれやれとため息をついた。
「……分かったわ。今回うまくいったら、好きなものを何でも買ってあげる」
『ほんとですかっ!? じゃあ速攻映します!!』
あからさまな掌返しとともに、水晶の像がぐるりと旋回し──映し出された。
白銀の船体。三本マストの巨大帆船。
帆には十字と波を象った意匠が刻まれ、風を裂いて突き進んでいる。
「これよ……クロードという人族の船……」
その名前を聞いた瞬間──
「キャッ、キャプテンクロードゥッ!!?」
ヴォドゥンの顔が引きつった。
思わず跳ね上がるように立ち上がり、震える声を上げる。
「……何? 知っているの?」
「い、いえっ……いやその……す、少しだけ……!」
ヴォドゥンの額から、大粒の冷汗が滴り落ちた。
──キャプテンクロード。
何度も死にかけた、悪夢のような存在。
海の怪物ですら“獣のような直感”で恐怖を覚える、規格外の人族。
(ぐおぉ……やっぱり俺の一族はついてねぇ……胃が痛い……)
と、そのとき──
「ボスッ!!」
仲間たちの声が飛んだ。
「やりましょう! 新人たちも増えて、戦力は充実しています!」
「今こそ、キャプテンクロードを討ちましょう!」
「ぐっ……」
ヴォドゥンの視線が、後方の“新人”たちへと向く。
海難事故で死んだばかりの海賊たち──その肉体をベースに再構成されたアンデッド兵たち。
彼らは無垢な期待に満ちた目でこちらを見ていた。
(お前ら……あの化物の恐ろしさを知らんから、そんなことが言えるんだよ……)
だが──ある部下が言った。
「ですが、今回は船の位置が正確に分かっています。罠を張って足止めできれば、包囲して一気に……!」
その一言に、ヴォドゥンの目が鋭くなる。
たしかに。
逃げられなければ、あるいは──
「大丈夫なの?」
レイの声が、冷ややかに降る。
心配の色はない。
ただ、“無理なら他を当たる”──そう言っているだけの圧力。
「へ、へっへ……任せてくだせぇ……!!」
口が勝手に動いていた。
もう、引き返せない。
「それで、船と船員を片付ければいいんで?」
「いや、猊下からは“あるもの”を奪えとの命を受けていてね。あなたたちは──私が仕事を遂行する時間を稼げばいいの」
「ほっ……時間稼ぎなら……!」
ヴォドゥンの顔がぱっと明るくなった。
クロードに勝つのではない。足止めするだけ。
それならば──いや、それでも怖いが、かなり可能性は上がる。
「で、ですがその“奪うもの”ってのは……積荷ですかい? なんならあっしらも手伝──」
「それは、知らなくていいわ」
レイの表情が、氷のように冷たくなる。
「知ってしまうと……あなたを“消さないといけない”かもしれないから」
ぞっ、と。
ヴォドゥンの背骨が凍りついた。
「……へ、へい……」
その言葉に抗うすべなど、彼にはなかった。
「追って連絡するわ。それまでは、好きに準備していなさい」
ふっと──潮の気配とともに、レイの姿が掻き消える。
直後。
「……チクショォッ!!」
ヴォドゥンが拳を握りしめ、洞窟の壁を叩き割った。
砕ける岩。跳ね散る泡。
「なんなんだあの魔族女ぁッ! 図に乗りやがってぇ!!」
「お、落ち着いてくださいボスッ!」
「もともとあいつは脆弱な人族だったんだろ!? それが今じゃ“魔王に気に入られてる”からってよぉッ!!」
吠えるような怒声。
だが──
(……やるしかねぇ。やるしか、ねぇんだよ。戦果を上げて、今度は俺が……)
海底にこだまする、敗者の咆哮。
海の底でひとつの陰謀が、確かに動き出した。