第百三十九話 「海賊談話」 【三人称視点】
──海岸洞窟
奥の私室にて。
「……っ……」
薄明かりの下、クロードが無言で袖をまくった。
皮膚の下、赤く浮いた痣のような痕がじわりと広がっている。
戦いの最中、彼は一度として苦悶の色を見せなかった。
圧倒的な実力差の中、最後まで余裕すら滲ませた堂々たる振る舞い。
しかし今、こうして一人静かにその腕を見つめている様は──勝者というより、深く何かを考える“戦士”の顔だった。
「……痛むか?」
背後からかけられた声に、クロードは軽く振り返った。
そこに立っていたのは、全裸のまま悠然と髭を撫でるサイラス。
ただ、その姿の異様さとは裏腹に、その眼光だけは鋭く、まるで相手の身体を透かしてでも見通すかのようだった。
「ええ、受けた時はさほどの衝撃はなかったんですが……今になって鈍く芯を焼かれるような痛みが残ってます」
「……そういう技なんじゃよ。神威というのは」
サイラスの声は、僅かに湿った石壁に反響し、妙に深く響く。
「魂を凝縮し、肉体と魂の両方へ同時に打ち込む。それが神威の理。いかに表層で防ごうと、芯にまで浸み込む。防御不能とは言わんが……厄介な技じゃ」
クロードは黙ってその言葉を聞いていた。
思い当たる痛みと、魂に刺さるような違和感。
技術では測り切れぬ、“未知”の触感。
「元締めの兄、サイファーという方が──この技を?」
彼に教え込んだのでしょうか、と問いかけた瞬間、サイラスはニヤリと口角を上げた。
「いや、兄貴にはできんよ。あいつは不器用じゃからな。……それに、神威自体、本来人族の技ではない。教えたのは、おそらく……レイアじゃろう。兄貴の家に一緒に住んでいる魔族の女じゃ」
「……魔族?」
クロードの目がわずかに見開かれる。
その反応も無理はない。この西方の地では、魔族の存在自体が“敵”として語られてきた。
ゆえに、神威が“異種の術”と知れば、警戒するのも当然だった。
「チビじゃよ。チビで大人しい。それに──人族に恋をして、もう牙を抜かれたようなもんじゃ。今では料理ばかり作っておる」
サイラスの言葉は、やたらと軽やかだった。
ゆえに、クロードの肩から警戒を溶かしていく。
「……まぁ、東方に行けば魔族も亜人も珍しくはない。争いを嫌って人族と共に生きる集落も、少なからずあると聞きますからね」
そう、これから目指す東方大陸──ガルレイアには、遥かに多種族が混在する世界が待っている。
クロードの視線は遠くの風を感じるように宙を漂い、やがて静かに戻る。
サイラスは短く頷き、岩に背を預けた。
「神威もそうじゃが、あやつは確かにサイファーの弟子でもあるな。魔素を体内に取り込んでおる。お前の『鳴海螺旋』を受けても立ち上がってきたのは、強力な魔物の魔素を体内に入れておる結果じゃな」
「……魔素?」
「うむ。強力な魔物の核を“喰った”か、“取り込まされた”かまでは知らんがな。神威だけじゃない。あの頑丈さも、魔素による肉体強化の産物じゃ」
納得するには十分だった。
思い返せば、あの男──フェイクラントは、並程度の冒険者程度では全身打撲で数日は立つことさえ出来ぬであろう攻撃を受けながらも、しぶとく喰らい付いてきた。
今回は試験的だったので、彼が立ち上がらなければ回復魔術で治療する予定ではあったが、まさかそのまま立ち上がってくるとは思いもよらなかった。
「……では、彼は」
クロードの問いは言葉の形を取らず、胸の内にだけ流れた。
それでも、サイラスは全てを察したように、言葉を継ぐ。
「お前と同じ“役目”を持つ者か、という問いじゃろ?」
クロードは静かに頷く。
「……いや、まだ“候補”と、あの手紙にはそう書いてあった」
サイラスの声音が、ふっと遠くを思うように沈む。
「じゃから、あやつはまだ何も聞かされとらん。ゆえに──余計なことは話すなよ、クロード」
その忠告に、クロードは黙して応える。
指先で袖を整えながら、ゆっくりと腰を下ろした。
「……では、彼は何のためにアステリアへ?」
「さぁな。何かを求めておるようじゃが……そこまではわからん。本人に、いずれ聞いてみたらどうじゃ」
ふう、と吐き出した息が、冷たい海風と混じり、洞窟の隙間から吹き抜ける。
──だが。
「……アステリアには、もう一人おるからのう。お前と同じく“選ばれし者”。ミルクレープ──」
「ミルフィーユ王女です」
即座に訂正が入る。
クロードの視線が少しだけ鋭くなる。
「そうじゃそうじゃ、そのミルなんとか王女。たった半年の修行でお前と並ぶ力をつけたらしい。……いやはや、女というのは強いのう」
「……まったくです」
クロードは小さく笑った。
それもそうだろう。
ミランダといい、どうして女性というのはこうも強いのか。
しかしその瞳は、決して緩まない。
「まぁ……ベアトリスに会いに行かせる兄貴たちの魂胆はわからんが……」
ふと、サイラスが瞼を伏せた。
「フェイクラントが……お前と同じ“役目”を背負う日が来るかもしれんのう」
重く、深く、意味ありげに落ちたその言葉は、湿った岩壁に吸い込まれるように静かに消えていった──。