第百三十七話 「フェイ VS クロード」
──勝負の火蓋は、今、静かに切って落とされた。
徒手空拳の構えを取ったクロードの前で、俺も無言で腰を落とす。
「いや、ちょっと待ってくれ」
だが、動こうとした俺を、彼はあっさりと手で制した。
「……?」
警戒を解かずに問いかけると、クロードは視線を俺の右後方──ポーカー卓の横に置いたリュックサックへ向けた。
「見たところ、君のカバンの中にはいくつか武器が入っているようだが。それは使わないのかい?」
ああ、そういうことか。
カバンの中身はグランティスで新調した細身の剣と、あとは道具屋から持ってきたナイフやガントレットなんかもあるが、使用頻度は生活用の域を出ていないし、戦いの場で“頼りにしてきた”とは言い難い。
道具屋のものなんで買い替えたのは最初の剣一本くらいで、あとはどれも特別な思い入れがあるわけでもないが、クリスとの思い出の品々で手入れだけはしている。
「……素手で大丈夫です。元々、接近戦のほうが得意ですから。それに……あの武器たちは、俺にとってちょっと大事なもので」
戦いの中で、刃を交えることすら憚られる──そんな妙な情の残る品ばかりだ。
クリスとの日々、日常、そんな思い出が詰まった俺の“過去”。
それを今、この闘いに持ち込む気にはなれなかった。
「そうか……だが、大事なものをそんなところに置いておくのはダメだ」
「……え?」
「大切なものなら、ちゃんと預けるか、懐に抱け。人目のある場所に放置してはならない。……それも、戦いの心得の一つだ」
その声音に、どこか“父性”すら感じた。
指導者として、船長として、彼なりの信念があるのだろう。
「……わかりました」
思わず背筋が伸びた。
「マリィ!」
すぐさま彼女を呼ぶ。
マリィはパッと駆け寄ってきて、俺の視線だけで状況を察したように頷いた。
「ちょっと、荷物を頼む」
「うん」
大きめのリュックを手渡すと、彼女は「よいしょ」と軽々と受け取った。
子どもの体格のはずなのに、その動きにまるで不安はない。
──まぁ、こう見えて俺の何倍も力があるし。
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──奥の広間へ。
先程よりもやや狭いが、そのぶん障害物も少なく、戦うには最適な空間だ。
散乱した空の樽、湿った床に残る苔。戦場としては十分すぎる無骨さだ。
後ろからは、ミランダと数人の船員たちがついてくる。サイラスだけは──おそらくまだ自室でふて寝中だろう。
「それじゃあ……始めようか」
クロードの口角が、わずかに上がった。
「……なんか、楽しそうですね」
「そうかい?」
首をコキリと鳴らし、彼は悠然と構えを取る。
全身の筋肉に無駄はなく、どこをどう打っても“効かなさそう”な密度があった。
「まあ……こういうのが好きなんだよ。海賊だからね」
「……そうですか」
少々恐怖を感じながらも、俺も深く息を吐いて構える。
ふと、彼の目が一瞬だけ鋭く光った気がした。
間合いは三メートル。
神威を使えば、一瞬で詰められる距離だ。
──静寂。
洞窟の中、篝火の爆ぜる音が唯一のBGM。
それ以外のすべてが、まるで止まったかのように静まり返っている。
よし、行くか。
「……ふっ!」
一気に足へと神威を巡らせ、蹴り出す。
爆発的な加速とともに、視界が流れる。
まずは正面──フェイントを込めた跳び蹴り!
「おっ」
軽く躱された。
だが、まだだ。
身体をさらにひねり──
「おぉおおっ!!」
回転を乗せた二撃目、逆脚の回し蹴り!
「おっと!」
またしても紙一重で回避される。
──が。
俺は止まらない。
両手を地に突き、逆立ちの姿勢からのローキック!
──ガキンッ!
クロードの脚にガードされた。
だが、構わない!
「はあっ!!」
逆立ち状態から、踵を勢いよく振り下ろす。
──ズシィッ!!
腕でガードされたが、俺の蹴りもただの蹴りじゃない。
クロードの身体が、ズッと地面を滑った。
彼の足元の岩肌が、圧に負けて削れ、粉塵が舞う。
(……よし、今のは効いただろ)
即座に距離を詰め、拳を振りかぶる。
今のところ、俺の優勢に見えるだろうし、そう思える。
だが、今までずっとクロードは躱すか、ガードするか、それだけだった。
「打ってこないんですか──?」
拳を振り上げながら、そう言った瞬間だった。
「じゃあ、行こうか?」
直後。
──ズドォンッ!!!
「ぐぅッッ……っぁ……!」
視界が、跳ね上がった。
いや、跳ねたのは──俺だ。
何が起こった?
突如として、腹の中心に衝撃が突き刺さった。
目の前にいたはずのクロードが、目の下にいた。
気づけば、俺の身体は三メートル以上──空中に放り上げられていた。
(何……だよ、今の……!)
内臓が裏返るような痛み。
ほんの“軽く”蹴られただけにしか見えなかった。
だというのに、その一撃はかつてのオーガの一撃よりも重く、鋭く、鋼鉄の杭のようだった。
意識が飛びかける。
それでも、落下の瞬間──
「ぐっ……!」
俺は腕をクロスして頭を庇う。
そして──
──ガッシャアアッ!!
背からタルの山に突っ込んだ。
乾いた木の音が派手に響き、埃と木片が舞い上がる。
「フェイッ!!」
「ダメよ! マリィちゃん!」
遠くで、マリィの叫び声と、それを制するようなミランダの声が聞こえた。
大方、飛び出しそうなマリィの手を掴んで止めたってところか。
身体の芯を貫いた衝撃は未だに尾を引き、肺の奥がまともに空気を取り込ませてくれない。
腹の深部に鈍痛が滲み、まるで石を呑み込んだような違和感が身体の中心に居座っている。
けど、まだ──立てる。
恐らく彼も神威の使い手。
そうじゃなきゃレベル差がはちゃめちゃに開いてるかのどちらかだ。
俺はあえて、腹を押さえたまま膝をつき、顔をしかめて苦悶の芝居を打った。
「……もう終わりかな? フェイクラントくん」
クロードの足音が近づいてくる。
傷ついた獲物を仕留める前の静かな間合い──けれど、それは油断でも慢心でもなかった。
ただ純粋な確認。
最小限の殺意で勝負を終わらせるための、間違いなく“優しさ”だった。
──だが、戦場では“隙”だ。
言ったよなぁ、どれだけ戦場で戦えるかを見るって。
だとすればこれは戦場、卑怯なことをしても結果が全て。
蹲りながら両手を合わせ、指先に神威を集中させる。
刃状へと形を変え、神経を研ぎ澄ませながら。
そして、クロードの位置が俺の真上に来た瞬間──
「ハァアアア──ッ!!」
虚を突いた跳躍。
地を蹴り、腕を振りかぶって突き上げるように斬撃を放つ。
ズルいって?
言ってろ。
「──ッ!?」
クロードの瞳が、わずかに見開かれる。
だが、その掌が瞬時に構えられるのが見えた。
まるで空間そのものを撫でたかのような圧──“見えない壁”が、俺の刃を受け止める。
ガギィン、と金属がきしむような音が辺りに響き、魔力の壁に刃が叩きつけられた。
けれど。
「……まだまだ!!」
止まらない。
圧に逆らい、歯を食いしばりながら力を込めて、刃をねじ込む。
キリキリと音を立て、まるで粘土を裂くように、その見えない抵抗を力づくで押し通し──
──バシュッ。
クロードのシャツの一部を掠め飛ばす。
「っ……!」
一撃は命中しなかった。が、それでも──
「……やるね」
クロードが初めて、明確に“驚いた顔”を見せた。
すぐさま反撃のために、その視線が一瞬だけ揺れ、蹴りの姿勢に。
その僅かな隙を見逃す俺じゃない。
「転移魔術──」
構文を口にした瞬間、足元の空間が一瞬にしてひび割れるように揺れた。
視界が捻じれ、空気が歪み、俺の肉体は一瞬で“そこ”から消える。
故に、クロードの反撃の蹴りは空を切るのみ。
「なっ……!?」
初めて漏れた、クロードの“本当の動揺”。
すぐさま神威を右腕に集中し、振りかぶる。
クロードの背後に転移した俺を一瞬で見つけることは不可能。
完全に取った。
そう、確信した時だった。
──カチリ、と。
気配の定位が切り替わった。
「そいつはちょっと怖いな」
ありえない。
一度は完全に俺の位置を見失ったはずなのに。
クロードは何の迷いもなく俺がいる背後へと振り返り、俺の胸元へ掌を突き出し──
「──グ……ッ!?」
放たれたのは、再び“圧縮された空気”。
しかも今度は、俺の肺腑を直撃するよう、点で刺す構造だ。
ぐらつく膝を強引に踏み止め、強引に着地。
だが、間合いは崩された。
もう一度神威を……って、やば。
一瞬でも拳の神威を確認してしまった俺に対し、クロードは既に追撃の体勢に入っている。
その手のひらからはおおよそ中級以上の魔力が込められ──
「鳴海螺旋!!」
叫ぶと同時に、両手を前に突き出す。
全身の魔力を一気に水へと変換し、術式を高速で走らせる。
生み出されたのは、螺旋状の乱流。
刃のような潮流が竜巻と合流し、巨大なドリルのように空間を抉りながら──
──直撃。
「──ッ……ァアアアアアッ!」
──ゴッシャアアアアアア!!
俺の身体が、魔水に貫かれ、派手に岩壁へと叩きつけられる。
周囲の壁が粉砕され、粉塵と飛沫が舞い、空間がしばし沈黙する。
「ちょっと! やりすぎよ!!」
ミランダの声が、砕けた岩壁と魔力の余韻に満ちた空間を叱責のように裂いた。
彼女が声を荒げるなど、先ほどの老害とのコントバトルを除けば、これが初めてだった。
視界が斜めに傾いていた。
砕けた岩と木片が俺の背を無慈悲に打ち、肺に残る空気が抜けるような不快な鈍痛。
意識は薄れかけ、思考の輪郭もぼやけていた。
あー、痛い。
全身が、びしびしと軋んでる。
もう一ミリも動きたくねぇ……。
だが──
「──ふんがっ!」
呼吸困難に陥りそうだったので飛び出す。
勢いよく肺が膨らみ、思わず身体が弾けるように跳ね起きる──が、
「……うぐっ……!」
腰から下が、へにゃりと抜け落ちた。
情けなく、がくりと座り込む。
それでも──意地と意識だけは立っていた。
「ふぅ……」
濁った視界を拭うようにひとつ息を吐き、立ち上がる努力だけはしないまま、顔を上げる。
粉塵の奥。
そこに立っていたのは──
「……そこそこというか、中々と言ったところかな。フェイクラントくん」
クロードは、相変わらず涼しい顔をしていた。
息一つ乱れていない。
だというのに、その視線には、明らかに変化があった。
最初に見せた“品定めする眼”ではない。
見下ろすことも、値踏みすることもなく──ただ“正面から認める者の目”。
「いやぁ……参りました。強いですね……本当に」
俺は息を整えながら微笑む。
口の中はもはや血の味しかしなかったし、結果は散々だったが、俺の中では確かな達成感が生まれていた。