第百三十二話 「海岸の洞窟」
サイファー宅の居間にて。
俺とマリィは、レイアさんに連れられて、またここへと戻ってきていた。
「さっき思い出したんじゃが──知り合いが船を持っとる。それで行け」
サイファーはそう言いながら、湯気の立つマグを一口啜り。
まるで天気の話でもするかのような軽さだ。
一週間以上ここにいるのに、なんで今更そんなことを思い出すんだとも思ったが、ジジイがボケるのは通常運転だし、問題は他にある。
「いや、でも船は危険だし……」
「安心しろ。厳しい航海を何度も経験している頼もしい船員たちがいる」
サイファーの声は、妙に確信めいていた。
ん?
船を借りるだけではなく、船員までついて来るのか。
そんな大仰なこと、本当に頼めるのだろうか。
「魔物たちが激化しているとはいえ、海は広い。抜け道は必ずある。それを知っている奴らじゃ」
不安そうな顔をしているだろう俺を見て、レイアさんが補足するように言った。
まぁ確かに一度船を断った身だけど、強力な船員がいるのは心強い。
それに、海に対する不安も確かにあるが、他でもないこの二人が口を揃えて『安心だ』と言うのなら、それは本当に頼れる者たちなのだろう。
「でも、いきなり初対面の俺なんかが行って、大陸を渡るほどの航海に付き合ってくれるのか?」
そこでサイファーが「ふむ」と一つ唸り、懐から用意してあったのであろう一枚の封筒を取り出した。
「それなんじゃが……こいつを、ある人物に届けて欲しいんじゃ」
「ある人物?」
「これは船の人物とも深く関わって来る内容じゃからの。これを見せれば、そいつも動かざるを得ないはずじゃ」
古びた革の封筒には、一枚の便箋が入っていた。
どこか重々しさを感じる。
……なんだろう、結構大切な内容なのか?
知り合い、ということは、ブリーノみたいに昔旅した仲間の一人とかだったりするのだろうか。
「今は通常の海路が絶たれているからの。手紙を出そうにも出せんのじゃよ」
なるほど、つまりこれは“使者”として俺を送り、その代わりとしてアステリア大陸への航海を担ってもらう──そういうことか。
まぁ、旅の見返りに“おつかい”をさせられるのは正直嫌だけど、ただ手紙を渡すだけで大陸を渡れるなら、悪くない取引だ。
俺は封筒を受け取り、マリィと顔を見合わせる。
彼女はコクリと頷き、『行こう』という意思を感じ取れた。
「それで、その船を持っている人はどこに?」
「あぁ、名前は──サイラス」
「……サイラス?」
「セルベリア大陸のグランティス港から、ずーっと北へ。海岸沿いに歩いていった先の洞窟に住んでおる。そいつにこの手紙を渡して、事情を話せ」
「……わかった」
アステリアへ。
ついにその言葉が、現実味を帯びて耳に響く。
心のどこかが、きゅうっと縮む。
俺は、マリィを危険な場所へ連れていくつもりなのか。
今ここにいる仲間たちと、居心地の良すぎる故郷と、もう別れなければならないのか。
その迷いが、きっと顔に出ていたのだろう。
「……まぁ、アステリアに行きたくなければ別に構わんが」
コーヒーを啜りながら、レイアさんが小さく笑った。
「船のやつらは面白いやつらじゃよ。会うだけ会ってみるといい」
それだけ言って、窓の外をぼんやりと眺めていた。
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俺とマリィは支度を終え、仲間たちと別れの挨拶を交わしていた。
「みんな、元気でね!」
マリィが手を大きく振る。
その隣では、魔物仲間たちが、元気よく声を上げる。
「がぅっ!」
「ぴぴぃっ!」
「……ごふぉ、おおお」
「……最後のは誰だ」
家の向こう側に、クレイゴーレムのゴランが巨大な腕を振り上げていた。
あぁ、そんなところにいたのか。
「ゴランもバイバーイ!」
「ぐぉっ!」
マリィが大声でゴランにも別れの挨拶をする。
「じゃあ、行って来る」
「あぁ、気をつけてな」
サイファーの手が、ほんの少しだけ強く肩を叩いた。
その重みに、不思議な懐かしさが込み上げてくる。
そういえば、毎朝のようにこの場所で見送られていたな。
マリィがまだマルタローだった頃。
魔物たちの世話のために、朝早く起きては散歩をして──
そんなことを思い出しながらも、俺はマリィと手を繋ぐ。
「またな、師匠」
そう言って、俺はサイファーに頭を下げた。
普段は照れくさくて呼べない“師匠”の一言に、サイファーは目を細め、何も言わずに頷いてくれた。
その横では、レイアさんがほんの少し口元を緩めて見送っている。
「転移魔術──」
空間がきらめき、見慣れた谷間の風景が水面のように揺れ始めた。
ほんの一瞬の浮遊感とともに、体がふわりと宙を滑り──
──そして次の瞬間、目の前に広がったのは、塩の匂いが混じる湿った風と、どこまでも青い空。
潮風が吹き抜ける港町・グランティスへ。
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三日後──
「……ここかな?」
足元に波がぶつかっては引いていく、ざぶりざぶりという音が鼓膜の奥に滲んでくる。
目の前に広がるのは、灰褐色の岩肌が剥き出しになった、巨大な海食洞──自然が長い歳月をかけて穿った、波打ち際の洞窟だった。
グランティスでは特に目的もなかったため、俺たちは到着日にはもう出発していた。
だが──
「……聞いてた以上に、キツかったな……」
グランティスから“北へ”。
そのざっくりとした情報に頼り、ひたすら海岸沿いを進み続けて三日。
潮風が容赦なく頬を削ぎ、寒さが肌を刺すように突き刺さる。
朝夕の冷え込みはすでに秋の兆しを孕み、夜の野営では焚き火なしでは凍えるほどだった。
しかも足場は悪く、岩だらけの断崖やぬかるんだ砂浜、時には波を被りながら岩場を這い上がるという有様。
正直──「シュヴェルツから降りてきた方が早かったんじゃねえか?」という言葉が、五十回は脳内を往復していた。
それでも。
ようやく辿り着いたこの場所には、微かな人工の気配があった。
足跡。
削れた岩場。
打ち捨てられた酒瓶の欠片。
誰かが、ここで暮らしている──いや、“住み着いている”という方が正しいだろう。
「こんな環境に人が何組も住んでるとは思えないし……ここで間違いない、はずだよな」
サイファーの知り合い──“サイラス”。
この奥にいるという、元・船乗りか、現役の海の男か。
「よし、それじゃあ──」
「すごーーーーい!!」
「……って、ちょっ──」
振り返る間もなく、マリィがすでに洞窟に突撃していた。
好奇心を全開にした声が、岩壁に反響して何重にも跳ね返ってくる。
「おい! マリィ、魔物がいるかもしれないんだぞ!?」
必死に声を張ったが、返事はない。
代わりに聞こえてくるのは、遠くで転びそうになるような音と、砂を蹴る足音ばかり。
──ったく。
ツンデレ化して多少大人っぽくなったかと思えば、肝心なところでは危機管理が皆無のワン子メンタリズムらしい。
俺はため息を一つつき、足を踏み入れる。
洞窟の中は、予想外に明るかった。
天井にはいくつもの亀裂が走っており、ところどころから天光が差し込んでいる。
湿り気を帯びた岩肌に、その光が白く反射し、柔らかな自然照明になっている。
苔と海藻の匂いが混じる空間には、獣ではない、人の生活感が微かに漂っていた。
奥に向かって細くなっていく通路。
その先へと足を進めながら、俺はぼそりと呟く。
「こんな場所に住んでるなんて……よっぽどの変わり者か、あるいは──」
──街に出られないような、犯罪者とかだったりして。
そう口にした刹那。
ぞくり、と。
背筋を走る、寒気に似た感覚。
「動くな」
──その声は、岩壁に染みついた海霧よりもなお冷たく、低く、鋭利だった。
即座に背中に感じるのは、硬質な金属の圧。
ナイフ。
間違いない。
気配からして、心臓を狙える距離。
(賊か……?)
ぞくりと背筋を駆け抜ける緊張。
だが、奇妙なことに心は静かだった。
──ふふん。
一週間サイファーにみっちり仕込まれた俺に、隙はない。
昔の俺なら硬直していたかもしれない。
だが今は違う。
力の流れを抑え、余計な気配を殺し、獣のように沈み込む。
背後の気配は、間合いの詰め方も足取りも甘い。ナイフの突きつけ方に“迷い”がある。
なら、この状況からでも負ける気はしない。
重心を前に移し、静かに息を吸う。
地面に手をつけ、躊躇なく動いた。
「──ッ!」
瞬時に身を低く屈め、背後からの刃を逸らす。
そのまま軸足を滑らせ、体をひねって足払い。
「うわっ──!?」
案の定、バランスを崩した相手がぐらついた。
すかさず肩口を掴み、腰を回転させて勢いを乗せる。
──ゴンッ!
岩壁に叩きつけられた鈍い音が洞窟内に響く。
倒れた相手は短く呻き声を上げて、身を丸めた。
「いててて……っ、くっ……」
その声はまだ若く、荒々しいというより“未熟”だった。
布で口元を隠しているその姿は、明らかに“盗賊スタイル”だが、洗練とは程遠い。
俺はその場に落ちていたナイフを拾い上げ、逆手に構えたまま、鋭く睨みを利かせる。
「いきなりナイフを突きつけるなんざ──失礼だぜ?」
「う……くっ……」
静かにそう言うと、相手は呻くだけで答えない。
肩を抱えてうずくまる様は、少しやりすぎたかと思わせるには十分だった。
あー……骨はいってねぇよな?
俺の気持ちが心配に変わるその時だった。
「その人の言う通りだ、ロイド」
低く、よく通る声。
洞窟の奥から、足音とともに重厚な存在感が現れる。
「っ!? せ、船長──!」
倒れていた青年が、電気でも走ったかのように飛び起きる。
慌てて布を外し、帽子を脱いでぺこりと頭を下げるその様は、まるで叱られる子犬のようだった。
「……船長?」
俺も、声の主の方へと視線を向ける。
そこに立っていたのは──
深い紺のシャツを着こなし、胸元には飾り紐を結んだ白のジャボネクタイ。
艶やかな黒革のロングブーツが、陽光の反射でわずかにきらめいている。
肩から羽織ったコートは、古びているが清潔感を保っており、その立ち姿には堂々たる風格があった。
そして──その顔。
「なっ……!?」
忘れるはずがない。
グランティスの酒場にで、酔客の輪の中心に立ち、Sランク冒険者として圧倒的なカリスマと力を放っていた男。
──キャプテン・クロード。
その人物が、手を腰に当てながら、呆れたような笑みを浮かべていた。